序 2
大陸中原を分ける三国のうちの一つ、秋国王都椿。山裾を背にして建てられた王宮白焼宮に夕日がかかると、白い宮殿の壁が燃えるように金色に輝く。
恵みをもたらす太陽の金、富の象徴である金塊の金、豊穣の麦の穂の金、家族の待つ家に灯るあかりの金、かまどの煮炊きの火の金。秋国が尊び、秋国の民が郷愁を感じるのはその金色である。
夕日を受けて赤味がかった金色に輝く宮殿の内、ぐるりと巡る回廊を歩き、一人の男が秋国王の執務室へと向かっていた。北側の奥、限られた人物しか通されない一角へ入ると、要所要所に立つ近衛兵が彼の姿を認める度に小さく頭を下げる。彼もまた目線で会釈を返し、やがて目的の場所にたどり着くと、扉前の兵に来意を告げた。
入室を許可され、扉が開く。王の執務室で大きな机に座しているのは、当然のことながら彼ら秋国の王、陽王である。肩を超す程に伸びた長髪を首の後ろで一束にまとめた二十過ぎの青年は、華美ではなくとも王らしく仕立ての良い金糸入りの茶褐色の上着を着ているが、襟元は無造作に着崩していて、いかにも執務に飽いた、疲れた、と訴える空気を醸し出していた。
ふ、と彼の口元がほころぶ。気だるげな顔をし、悪態をついても、結局は真面目に王としての執務をこなすのが、この陽王である。
「遅くなり申し訳ありません。お呼びに従い参りました」
「‥さっさと入れ。扉を閉めろ。こっちまで来い」
礼儀に則って奏上するも、陽王は不機嫌そうに眉を顰めて命じた。彼は頷き、王に命じられるままに近くへ寄るが、一定の距離を保って留まる。王の座す黒檀の机には、所狭しと書状や書きつけが広げられており、余人がみだりに内容を見るべきではないと思われた。だが陽王はその距離が気に入らなかったらしい。ちっ、と行儀悪くも舌打ちをする。
「いいから来い、と言っているだろう。顔をよく見せろ。‥ったく、隈がひどいな。ちゃんと寝ているのか」
「人並みに横になってはいますが」
「横になっている、だけではないだろうな。私は、ちゃんと寝ているかどうかを聞いている」
「‥」
「おい、もうこのやりとりは何度目だ。飽きたぞ」
口を閉じた彼に、陽王は、はあっとこれ見よがしなため息をついた。
「まだ忘れられないのか。ったく、おまえと来たら、どれだけしつこいんだか‥」
「‥」
「何年になる。いつまでもそんな調子では、体がもたないだろう。まさかお前、あいつに殉じて死ぬ気ではないだろうな? そんな自由が許されると思うか。お前、自分の立場をわかっているのか」
「立場については、よく、理解しているつもりですが」
「‥ったく‥その気持ち悪い敬語もやめろ。他に誰もいないだろう」
「誰もいなくとも、陛下は王で、私は臣。今は王の執務時間であれば、線引きは明確にすべきかと」
「ああそうか。線引きか。お前、慇懃無礼って言葉を知っているか? 知っているな。わざとか。わざとだろう。じゃあこの仇は夜の飲む時間に取ってくれる。‥ったく、王なんて、全くなるものじゃないな。本当、あの狸親父め、今頃奴は離宮で悠々自適か!‥」
苛々した様子で、陽王はぶつぶつと呟く。彼は無言でそれを受け流した。
やがて一通り悪態をつき終え、陽王は咽喉が渇いたのか卓上の杯から茶を一息に飲むと、もう一度彼の顔をまじまじと見た。
陽王からすると、やはり何度見ても彼の目の下の隈はひどく、そのせいでもともと鋭かった眼差しはよりとがって見える。もともと彼の顔立ちは確かに鋭利だったが、本人の寛容な性格がそれ程きつさを感じさせなかったのに、痩せたこともあって今は相対するものに若干威圧感を与える顔つきになっている。以前は瞳の片側を隠すように伸ばしていた前髪を、今は適度な長さで切りそろえていることもあり、彼は、数年前とは別人のような印象になっていた。
そうなる経緯をつい思い返し、陽王はやるせなく声を上げた。
「あーっ! もう!! お前がそんな様子だから、仕方ない。私は本当は嫌なんだが、仕方ないんだ。だからお前も受け入れろよ。いいか、これは私にとっては不可抗力なんだ。断じて、進んで決めたことではない。いいか、わかったな!?」
「いいか、と言われても。何の話かと」
「結婚しろ」
「は?」
「は、ではない。結婚しろ、と言っている」
苛立たし気に陽王は頭を掻きむしり、再度深いため息をつくと、彼に向き直った。
「‥夏国から縁談が持ち込まれた。春代の皇帝、界帝の血を引く娘を見つけ、身柄を確保したらしい」
春とは、夏・秋・冬の三国が建国する前にこの大陸中原を支配していた一大帝国であり、界帝はその最後の皇帝である。春帝国崩壊時に界帝含め皇族のほとんどが命を失ったが、唯一生き残った第三皇女華羅耶を三国のどこが押さえるかで、建国の正当性と大陸の覇権がかかるとあって、その時は壮絶な争いが巻き起こったらしい。結局華羅耶の身柄は商人の都星に渡り、華羅耶を三国のどこにも渡さないことを条件にその都は自治都市として独立した。
春帝国崩壊後、夏・秋・冬の三国が立ち、互いに大陸を統べるべく相争っていたが、数十年を経るうちに、もっともよく戦を仕掛けていた冬は専制君主であった王が代替わりをし、夏と秋は同盟を結んで、ようやく戦禍は下火となった。だがその直後、夏国は春の皇族の一人を密かに匿っており、その人物を立て春帝国の帝位を継承させ、夏国はその後見として次の帝国となるため、再び秋国と冬国に戦乱を仕掛けようとしているとの疑惑が持ち上がり、あわや夏と秋の同盟が吹き飛ぶ事態になった。
その事態はなんとか事なきを得て収束したが、それから数年を待たずとして、再び夏国が春帝国皇族の娘を確保したというのである。
「先年の件もあり、春の皇族の生き残りを夏国に置いておくのも害がある。かといって、見つけた以上放置する訳にも行かない。そこで夏国は、その娘を夏国王の養女にし、秋国へ嫁すという形で引き渡すとのことだ。
秋国はこれを受け入れるつもりだが、受け入れ先がない。王族の独身男子となると、私は既に夏国王女と婚約している。二人目を貰う訳には行かない。かといって、北の離宮に幽閉された弟に娶せる訳にも行かないし、今更退位した父上の側室にする訳にも行かない。
そこでお前だ。未だ結婚しておらず、婚約者も、親しい女もいない。高位武官で秋国王の覚えもめでたい、年回りも合う独身男性となったら、もうお前ぐらいだろう。この面倒な春帝国皇族の女を、お前の妻にしろ」
「‥それが、今回の呼び出しの理由か」
陽王の話を聞いて答えた彼の声は一層低くなり、あれ程頑なだった陽王に向けた言葉遣いは崩れ、陽王が王子であった頃にかつて彼と交わしていた通りの砕けた口調となっていた。
それが怒り故であることを察し、ふん、と陽王は鼻を鳴らす。
ここは王の執務室であり、謁見の間ではない。みだりに公けにできるような軽々しい内容ではないとはいえ、宰相や外交官が同席した正式な場で一方的に王として命じるのではなく、私的な場に準じた、余人の目のないこの空間で彼に言い渡すことは、不満があったら自由に述べて良いとする、きっと陽王なりの気遣いなのだろう。それを感じつつも、けれど彼は、到底頷く気にはなれなかった。
「‥他の者では駄目なのか」
「他に適任者はいない。お前だとてわかっているだろう」
(確かに。私と同じ条件の人間は、他にいない。だが‥)
(結婚。私が、その女と)
「そうか‥」
彼は目を閉じた。眼裏を様々な思いが走り飛び、感情が大きく起伏する。
受けたくない。結婚、などという言葉は、今の彼にとっては星の彼方に感じる程遠い言葉だった。それは、彼の親友である陽王だとて予想しているだろう。
(だが、それでも敢えて、陽王はこの話を私に持って来たのだ)
「妻に‥したとして、私はその女性を妻として大事にすることなどできない。それでもか」
「‥大事にされることなど、期待はしておらぬだろうよ。三国外から、市井で見つけて来た娘だ。私としてもその娘の家庭の幸福などは正直どうでもいい。その娘の身柄が他人に利用されぬよう、秋国で押さえてあれば良いのだ」
「‥」
「お前も、今の地位で、いつまでも感傷に浸って独身で通す訳にはいくまい」
確かに、陽王の言う通りだった。今はまだ許されても、後継に引き継ぐ地位のある彼が、いつまでも独身を通すのは現実的ではなかった。
「そいつと子を作れとまでは言わない。お前は、そいつの身柄を押さえておくための重石だ」
「‥」
肯うしかない。彼はそう思い至った。
「‥承知した。婚姻を結べとのこの話、謹んでお受けいたす。陽王陛下。御心のままに」
右手を胸に当てて一礼する。それを見届け、陽王は頷く。
「一度、面会の機会を作る。三国外で見つかったとは言え、一旦夏国で行儀作法を仕込んでからの輿入れになるそうだ。面会は婚儀の直前になるが、お前は準備を進めておくように。なにせ曰くつきだからな。そいつの王都椿での滞在はできるだけ短くし、婚儀の後は、理由なく所領から出すな。詳細は別途使いを遣る。そいつの素性については他言無用。知る者は秋国王である私と、宰相、父上、母上くらいか。他の者には、夏国王の娘であることのみ明かす」
「拝命致しました」
「‥周藍」
秋国王陽梨は、親友の名を呼んだ。
「飲んで帰るか。久しぶりに」
「‥そうだな。久しぶりに飲むか」
二人で。秋国王宮白焼宮の周藍が与えられたあの部屋で。
かつては三人で飲んでいたその場所で。




