序 1
暮れゆく日輪の橙の光が、遠く向こうの山から広がる裾野を照らし、景色をまばゆく金色に染め上げる。通された部屋の窓辺から見える、その郷愁を誘う光景に、清凛は胸をしめつけられた。
日が陰り、けれどまだ角灯を灯すには至らないわずかな時間。部屋の内側は薄暗く家具や柱の影は濃く、窓の外は夕日にきらきらと照らし出され、あたたかくきらめていてる。
(これからお会いするのは、幼馴染の若さまではない)
(誠意を尽くしてお仕えする、敬愛すべきご主人様)
久しぶりに上がった屋敷の小部屋で、静かに主人を待つ間、清凛は自分に言い聞かせた。
(子供の頃とは違う。私はもう、若さまに嫁入りできるような身分ではないのだ――)
(『清凛』)
「清凛」
どきりと胸が高鳴った。
思い出の中、自分を呼びかける若さまの声と重なるようにして、けれど思い出よりはやや低く落ち着いた声がかかる。清凛が物思いに沈んでいるうちに、部屋の扉が開き、一人の男が入って来る。
過去親しんだ声に一瞬動揺し、けれどその心中の震えはゆっくりと振り向くうちにおさめ、その男に相対するときにはもう、清凛は緩やかな微笑を浮かべていた。
「お久しぶりです。‥‥旦那様」
男は、清凛を呼び出したこの屋敷の主だった。二十を何年か超えたばかりの、黒髪短髪の青年は、それでも武人として悠然とした風格を既に備え、浮つくところのない地に足の着いた佇まいをしていた。
(ご立派になられて‥)
稚く遊んだ幼少期を知る清凛としては、こうなるだろう、と思っていた通り、頼もしく成長した、誇らしい青年の姿である。
少女の時の清凛は、同世代の優しく頼もしい名家の若さまにほのかな恋心があった。それだけではなく、生家の関係から、もしかすると本当に若さまに嫁ぐことになるかもしれない、という思いを抱いたこともあった。その清凛にとって、成長した彼の姿は目に眩しすぎて、清凛はそっと視線を下へと外した。
「元気そうで良かった。清家については、‥残念だったが」
「父の不徳が発端です。仕方がありません。こちらで雇っていただき、感謝しております」
「丁度侍女を探していたところで、私としても都合が良かった。来てくれて助かる」
あら、と清凛は再び視線を戻す。
再会の喜びと懐かしさで清凛は胸がいっぱいだったが、彼の声を聞いているうちに、どうも、その声はやや乾き、疲れが滲み出ているような気がした。
「あの、旦那様、‥何か、お困りのことでも‥?」
「‥‥」
彼は、何か言い淀み、口奥で歯をかみ合わせたようだった。清凛がなおも見つめていると、逃れるようにやや横を向いて一つため息をついた後、改めて清凛に向き直った。
「近く、妻を迎えることになった」
ひゅっ、と背筋が凍える。
「‥それは‥、まあ、おめでとうございます」
だがその息の止まるような凍えを顔には出さず、清凛は主人への祝辞を述べる。
しかしその主は、これから婚儀を行うというのに晴れがましい表情を浮かべることなく、むしろ逆に暗く瞳を翳らせるばかりだった。
「清凛には、妻に仕えてもらいたい。通常なら生家から侍女がついて来るところだが、‥‥事情があって、彼女は身一つでこの家に入ることになる。妻の味方になってやってほしい」
「それは‥、ええ、はい、勿論。奥様に、誠心誠意お仕えさせていただきますわ」
(私は、うまく顔を作れているかしら)
(新しい奥様に‥、旦那様の妻に、お仕えするということに、喜んでいる顔を、‥)
清凛は唇を噛んだ。淑女らしくない子供じみた振る舞いだから、かつて好きだった、長の年月を経て再会した、好青年になった幼馴染に気づかれないように、そっと端を噛むだけに留めた。
淡々と述べる彼には、わずかな声の震えも視線の揺らぎも見られない。清凛と違って、彼には清凛への想いなど全くなかったのだろう。残酷な事実であり、胸が痛んだが、そのくらいの方が割り切れていい、と清凛は思い直す。
(どんな方なのかしら。奥様は)
(身一つで嫁入りだなんて‥どんな事情があって)
あまりないことだ。特に、彼のように名家の人間にとっては。
だが彼は、その妻の味方を用意したいという。体面を慮り、ただ身の回りに侍女をつけたい、というのではなく。
(愛されているのかしら‥)
(たとえ、どんな事情があったとしても、妻に迎える程、‥愛されているのかしら)
しかし彼の瞳は、近々妻を迎えるにしては喜びも浮かばず、未だに翳ったままだった。
問いかけるような眼差しを向けられ、彼は静かに続けた。
「‥私は、彼女の味方にはなれない。だからせめて、‥清凛は、妻の味方であってくれ。‥私よりも」
小さく呟かれる声に、え、と清凛は聞き返す。問われて、彼は繰り返した。
「清凛。妻の味方になってほしい。私は彼女の味方どころか‥、敵かもしれないから。私よりも妻の味方に。‥頼む」