#01
そこは黄昏のような時間だけが存在する、静寂と柔らかな明かりに包まれていた。
そしてそれは、果てしない回廊であった……
僕が目を覚ましたとき、両側には白い壁があって、その間に空があるのが見えた。
どことなく夕暮れか黄昏を思わせるような、かすかなオレンジ色が混ざった白っぽい空だった。壁はずいぶんと背が高くて、まるで路地裏といった感じだった。どことなく頭の中に、地中海やギリシア、シチリアといった単語を思いこさせた。壁面は白っぽい、漆喰のような質感に思えた。それから地面に意識を向けた。手で確かめると、ざらっとしていた。横を向いて視界にとらえると、灰色の石造りのようだった。冷たいが、コンクリートよりはどこか温もりを感じさせた。
そうしてやっと起き上がって、今一度周囲を見渡した。道の幅は二メートルくらい、視線を向けた先は丁字路になっているようだった。それで、その手前が少し階段のように段差になっていた。反対側に目をやると、そっちは少し先で左にカーブしていて、先は見えなかった。壁にはところどころに小さな窓があった。明かりがついているとこもあれば、暗いところもあった。それと、人の背より少し高いくらいのところに、外灯のような明かりがともっていた。ランタンのような、昔風のデザインだった。中で炎のような明かりが、オレンジ色にかすかに淡く揺らめいていた。
ここは夢の中なのだろうか? そうはいっても、周囲の景色や自分の感覚や意識ははっきりしているように思えた。それともいわゆる、明晰夢というやつだろうか?
「今、来たばかりかね?」
突然、後ろから老人の声が聞こえた。
振り向くと、少し腰の曲がった老人がこちらを見ていた。音もたてず、いつの間に近づいていたのだろうか? 長い白髪、まるで古代の賢者のように髭もたくわえていた。その老人の顔にはしわが刻まれ、表情をきちんと読み取るのは難しかった。そして服装はどことなく、僧侶という言葉を連想させた。あるいは住人なのだろうか?
「どうかな? 私の言葉は分かるかね?」
「ええ、分かります。ここは、」
そこで老人は、僕の言葉を遮るようにして言った。「それよりも、君は自分の名を覚えておられるか?」
変な質問だと思った。自分の名前を忘れるようなことがあるものか。
「僕は、ええ、」
そこでハッとなった。なんということだろうか。言われて初めて気がついた。自分がなんという名前なのか、分からなかった。それに、ここが知らない場所ということは分かったが、自分が今までどこにいたのか、思い出せなかった。こんなことがあってもいいのだろうか、自分が自分だという認識はあるにもかかわらず……。
「分からない。分かんないです」思わずそう答えた。
「まあまあ、落ち着きなさい」
老人の声は諭すような、それでいて慈愛に満ちた響きがこもっていた。「来たばかりのときは、そういうものなのだよ。とりあえず、広場まで案内しよう。私について来なさい」
そして老人は背中を向けると、丁字路の方へ向かって歩き出した。言われるがまま、ついて行く他なかった。
角を左に曲がった。その先も似たような景色が続いていた。まっすぐな道はなく、曲がっていたり、角になっていところが多かった。複雑に入り組んだ路地であることは間違いなさそうだった。老人は迷うようなそぶりを全く見せずに進んでいた。だが、僕にはまるで迷宮の中のように思えた。
壁は建物の外壁のようだったが、不思議なことに、入り口らしきものがあるところをまったく見かけなった。相変わらず、中を覗けそうにはない高さに小窓がぽつりぽつりとあるだけだけだった。それに、だいぶ時間をかけて歩いているような気がしたが、空の気配は全く変わる様子がなかった。まさか時間が止まっているのではなかろうか? それに、鳥の鳴き声も人々の暮らしているような喧騒も、まったく聞こえなかった。
「いろいろと気になることは多いじゃろう?」
老人は前を向いて歩きながら、僕の心を見透かしたかのように言った。
「ええ、はい」
「あとになれば、いろいろと知ることになるだろう。しばし待つことじゃ」
「ですけど、」
僕はどこか、急いで帰らないといけない場所があるように思っていた。
「ここには、おそらく悠久の時の流れがある。とにかく焦ることはない」
「そう……ですか」
でもやっぱり、焦燥感というものがわいてくるような思いだった。
「その、広場があるところは遠いんでしょうか?」
そう聞くと、老人は立ち止まった。
「どうかのう、気まぐれなものじゃから」
老人は少しの間、天を仰ぐように空を見つめた。あるいは単に周囲の音に耳を澄ませているようにも思えた。「今日は落ち着いているかもしれん。とすれば、もうすぐ着くはずじゃ」
老人の言葉が何を意味するのか、よく分からなかった。
広場と呼ぶにはいささか狭すぎるようにも思えた。ただ、これまで通ってきた道幅に比べたら、広い場所だった。四角い敷地で、相変わらず建物の壁に囲まれていた。他の場所へつながるのだろうか、同じような路地につながる道が二つあった。真ん中にベンチがあり、それは木材と青銅らしい金属でできていて、四人くらいが座れそうな横長のものだった。
他に人の姿はなかった。
「どうしようかね。しばらく座って待つことにするか」
そう言って老人はベンチに近づき、腰を下ろした。僕もそれに続いて老人の横に座った。
「それで、」
「まあ、静かに。呼吸を整えて周囲に耳を澄ますのじゃ」
老人はそれっきり口をつぐんでしまった。
僕は言われた通りに、黙って周囲に気持ちを集中した。まるで静寂と思っていたが、かすかに、風が吹いているのを感じることができた。それから僕は、自分のことを思い出そうとした。しかし、何一つ思い出せそうになかった。
「よう! じいさん!」
突然後ろから声がしてびっくりした。思わず振り返ると、そこには白い半袖のTシャツと濃い青色の短パン、ペラい感じの緑色のビーチサンダル履きという姿の少年が一人立っていた。
一方の老人は落ち着いた様子で立ち上がると、ゆっくりとした動きで少年の方へ向き直った。
「久しぶりじゃな」
「そいつ、誰? 新入り?」
少年は、いわゆるチャラい感じの口調だった。
「あの、この人は、お孫さんですか?」僕は思わず老人に問いかけた。
だが、少年の方が先に答えた。
「そんなわけないじゃん!」
それから少年は大笑いした。「ということはあんた、まだ何も聞いていなんだね?」
「まあまあ、少し静かにしないさい」
老人はたしなめるような口調だった。それから、耳を澄ますようなそぶりをみせてから続けた。「今しばらく待とう」
「はいはい」少年は返事をすると壁の方へ向かった。それから壁沿いに逆立ちをしてみせた。
ぽかんとしてそれを見ていた僕に向かって少年は言った。「逆さまになった世界に、ぶら下がってるのさ」
それから少年は目をつむった。逆立ちを続けたまま、まったく苦しそうなそぶりも見せず、淡々と様子だった。
「まあ、君は座って待つがよい」
それから、老人はゆっくりとした足取りで、広場から出ていってしまった。
僕は一人ベンチに座わりながら待った。空は相変わらず、黄昏のような、夜明け前のような色のままだった。ただ、そんなに暗いわけでもなく、寒くもなかった。
ここにきて、あらためて自分の服装に目をやった。やや灰色がかったワイシャツと黒のスラックスだった。靴は白に水色のラインが入ったスニーカーだった。ズボンのポケットの中を探ると、カギが一つあった。しかも、よくあるギザギザした形のものではなくて、漫画にでてくるような感じの柱状に突起が出ているような、うんと昔風の南京錠に使うようなデザインだった。磨かれた真鍮のような材質で、さほど古さは感じなかった。それからシャツの胸ポケットには、折りたたんだ紙切れが一枚あった。メモ書きがあったが、水に濡れたかのように滲んでいて、読めるような状態ではなかった。僕はため息をつくとカギと一緒にポケットへしまった。
少年は相変わらず壁のところで逆立ちをしていた。目をつむって、まったくその体勢が楽だとでもいうような表情だった。
ここはどこなんだろうか? 夢でないとしたら、異世界? 本当にそんなものが存在するのだろうか?
不思議と、この目の前の状況に不安は少なかった。まあ、ひとりぼっちだったのなら、また別だったかもしれないと思うけど。でも、やはり早く帰らなければいけないという気持ちがあることは変わらなかった。ただ、どこへ帰らなければいけないのだろうか、ということは思い出せなかった。
「じじい、なかなか帰るのが遅いぜ」
先ほどの少年がしゃべった。そちらの方をみると、彼は逆立ちをやめて、普通に立っていた。
「それより兄ちゃん、あんたどっから来たの?」
少年はこちらに近づいて、問いかけてきた。
僕は一瞬、答えに詰まった。考えて何かしゃべろうとした瞬間、別の方向から女性の声が聞こえた。
「こら、悪ガキ!」
振り向くと、先ほどの老人と並んで女性の姿があった。歳は、僕と同じくらいだろうか、あるいはやや年上な感じもするような気がした。薄ピンク色のパーカー、ジーパン、お洒落な感じの茶系色をした革のサンダルといういで立ちだった。
老人とともにこちらに近づいてきた。
「新入りをイジメるのはやめなさいよ」
「そんなことは、してないぜ」
「どうも、初めまして」女性が一歩前に出て僕に声をかけた。
「ど、どうも」
「私はパーカー。理由はパーカーを着てるから。こっちのクソガキはジャックね。ジャックと豆の木の悪ガキよ」
「クソガキ言うなって!」
少年は横から言い返したが、彼女は無視して続けた。「あなたは、ここに来る前は何をしてたの? それと自分の名前は覚えてない?」
「あ、いいえ。思い出せないです」
「そうなの?……それじゃ、どんなところにいたのとか、あるいはどんなことをしていたのかしら?思い出せないの?」
それについては先ほどから考えていたことだが、やはり思い出せなかった。
「なにも、覚えていないんです」
「そうなの? でもまあ、もう少ししたら思い出すかもしれないわ」
「わかんねーぞ、パーカー姉ちゃん。こいつずっとぼんやりしてるもん」
「あんたは減らず口を叩かないの」
「みんな、名前は憶えていないけど、来た直前のこととか昔の記憶はあるんだけど、たいてい」
「そういえば、」
そう言ってから僕は、何げない思いでポケットに入っていた鍵と紙切れを見せた。
「これは、」「ええ!」「何それ?!」
三人は目を見開いて驚いた。
「ほんとにポケットに入ってたの? 拾ったんじゃなくて?」
「ええ、拾った覚えはないです」
「ほんとに?」
「どうして、そんなに驚くのです?」
「いえ、」
「だって、服と履き物以外は無くなってたんだぜ、ここに来た時には」
「いいかね? 少し見せてみなさい」
老人がそう言って手を出してきたので、僕は手渡した。
慎重な手つきで鍵と紙切れを受け取るとじっくりと眺めた。
「もしかすると、君の記憶がないのと、何か関係があるかもしれん」つぶやくようにして言った。
「でも、」パーカーの女性は横から言った。「紙切れのメモ書きはダメね。読めないじゃない?」
「それはいいとしても、ここはどこなんです? あなた方はいったい、」
「聞きたいことも、まあ、たくさんあるわよね」
それからパーカーと名乗る女性は、老人の方を向いた。
「少し説明するかね」
老人は僕に鍵を返して、話をはじめた。
「まあ、はっきりとしたことは分からない。断言もできないが、ここは時空の狭間のようなとこじゃろうと推測している。
それでわしは、もともとは僧侶、要は坊さんじゃ。といっても修行僧という程度だったが。あれは、修行の一つで滝に打たれておったときだ。気が付くとここにおったんじゃよ。まあ、最初は、まさか自分が死んだと思ったもんのだ。するとここがあの世かと。だが、地獄とも極楽とも言えん。それにここの空の様子には気づいておるかね?」
老人は一呼吸置くと、ゆっくりと上を見上げた。
「ずっと、この黄昏のようなまま、まるで時が止まっているかのようであろう。しかし、そして体感としても肉体的にも、確実に時間が流れておる。私を見れば分かるじゃろう?」
僕はその言葉の意味を理解しかねた。
「ここにわしが来たときは、まだ若かった」老人はどこか遠くを見つめたような様子だった。「たぶん、おそらくは、何十年とここで過ごしたことになるじゃろうか……」
その言葉を聞いて呆然とするような思いだった。こんな、よく分からない場所に何十年? しかし、老人は続けた。
「しかし、ほんとうに時間というものが存在するかも断言はできない。現にその少年は、もうだいぶ長い間ここにいると思うが、まったく変わらない姿じゃ」
「あの、」僕は思わず口を開いた。「それにしてもこんなに長い間、どうやって暮らしているんです?」
「でも、飲食の必要はないのよね」パーカーの女性が横から会話に割って入った。「別にお腹減らないし。あ、でもほかの広場に水飲み場があるわ。それにパンが手に入るところも一カ所あったわね」
「でも驚きなんだ。食べても飲んでもトイレに行く必要無いんだぜ」
少年も付け加えるようにしゃべった。
「まあまあ、二人とも静かに」老人がたしなめるようにしてから続けた。「それで、とにかく、ここで過ごすにはとりわけ困るこはない。しかし、もともと自分たちがいた場所に戻る方法はまったく分からないのじゃ」
「他には、人はいないのですか?」僕は聞いた。
「どうかの……この壁の向こう側には、もしかするとこの世界の住人がいるような気配はある。しかし、どうしても行くことのできる場所は見つからんのじゃ。それと、」老人は少し言いよどんだ。
「それと? なんです?」
「ああ、他にも私たちと同じような境遇の人が、幾人かおった」
「そうなんですか? その人達は今どうしているんです?」
「分からん。彼ら彼女らは、恐怖のためか、理由は分からない。気がおかしくなってしまったんじゃろう。走ってどこかへ行ってしまった。戻ってくる気配も、見つかる気配もない……」
束の間、沈黙が漂った。
「それから、一つ、これは言っておくが、この広場の場所や道は時折変化する」
「それ、どういう意味です?」
「そのままの意味じゃ。気を付けなさい」
僕がぽかんとしてしまった。
「じいさん、ひとまずはそのくらいにしてやろうぜ」少年が話に割って入った。「こいつ、頭の中が混乱してるよ、きっと」
「まあ、少しずつ話すとしようかね。時間はたっぷりある」
皆ため息をつくと、パーカーの女性が話し出した。
「ひとまず、あなたの呼び名を決めましょうよ。私は “鍵士” なんてどうかなと、思ってるけど? ドアがないと役にも立たないけど。でもじっさい、カギを持ってるわけだし」
「まあ、僕はどうでも構いませんよ」
「じゃあ、それで決まりね」




