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目が覚めると真珠はベッドの中にいた。窓の外からは鳥のさえずりが聞こえているので朝になったのだろう。
あまり寝たような気はしなかったが不思議な事に疲労感は無く、すっきりとした目覚めだった。
起き上がって見回すと就寝時と変わらない風景だったが、ひとつだけ違う事があった。
(なんだろ、これ……)
自分の小指にうっすらと浮かび上がる白い輪っか状の模様。寝る前にもこんなものは無かったはずだ。
もしかしたら不思議な空間で出会ったイリオスという名の神が何かしたのかもしれないが、自分の中で何か変わったような気もしなかったので深く考えるのはやめた。
しばらく起き上がったままぼーっとしていると、何かを押すような音の後にノックが響いた。
「マリ様、お目覚めになられてますでしょうか?」
「はい」
「失礼いたします」
扉の向こうからの声に返事をすると、ワゴンを押したリナが入って来た。
扉を閉めてワゴンのカバーを外すと、ふかふかのタオルや何かが詰まった袋などが現れる。
「昨日はご説明ができませんでしたので、湯浴みとお着替えの手伝いに参りました」
「ええと……お願いします」
入浴はともかく、ドレスの着方は全く分からないので真珠は素直に教えて貰う事にした。
真珠が着替えの準備をしている間にリナは分厚いカーテンを開けたり、テーブルを寄せて部屋の端にあった姿見を持って来たりと部屋を整えていく。
「マリ様はシャボンをお使いになった事はございますか?」
「シャボン……石鹸ですよね?」
リナに尋ねられて真珠が聞き返すと目の前に見慣れた固形の石鹸が差し出される。香りづけに何か混ぜてあるのか、ふわりと花のような気分が落ち着く香りがした。
「いい、香り」
「では本日はこちらを」
真珠が気に入った様子を見てリナは石鹸を浴室に持って行き、浴槽近くのソープディッシュにそれを置いた。
続いて浴槽の栓を確認するとすぐ上にある水道の蛇口をひねる。
「魔石の熱ですぐに温まりますので、少しだけお待ちくださいね」
そう言ってリナは小さな石の欠片を袋から取り出すと、溜まり始めた水にぽちゃんと落とした。
(わ、わっ)
ぶわっと噴き出した蒸気に真珠は思わずのけぞる。
「ああ、先にご説明しておくべきでした。今のは魔石に蓄えられた熱を水に放出してお湯になったのです。すぐにお湯を用意するにはこの方法が一番手軽ですので」
リナは慌てて説明してくれる。浴槽の中は一瞬で熱湯になったが注ぎ続けられる水で徐々に温度が下がり、リナが温度を手で確認してから底に沈んだ魔石を回収した。
「それ、手で触って大丈夫なんですか?」
熱を蓄えた魔石、と聞いてリナが心配になった真珠は恐る恐る尋ねてみる。
「魔石は使い切りですから使った後はただの石と変わりません。取り扱いには少々気を付けなければいけませんが、魔物の皮で作った保管袋の中なら勝手に発熱する事もありません」
「なるほど、便利なんですね」
どういう仕組みなのかは分からなかったが、便利な物である事は間違いない。そのまま手伝おうとするリナに一人で入れると力説して、真珠はタオル等を受け取った後手早く入浴をすませた。
「もっとゆっくりなさっても構いませんのに」
世の女性がどのくらいの入浴時間なのかは知らないが、髪と顔もついでに洗って充分温まって出たと思った真珠にかけられた言葉は『早すぎる』だった。
おそらくリナが比較対象としているのは貴族女性なのだろう。
下着だけ変えてネグリジェ姿の真珠はあれよあれよという間に鏡の前に連れて来られて、用意していたドレスを体に当てられる。
「本日はこちらですね。コルセットは要らないドレスですが、膨らみが少し欲しいので中に一枚足しましょう」
「は、はい」
ドレスの下に着る下着はこれです、と通気性の良さそうな半ズボンと袖なしのシャツを渡されて真珠は素直に着替えた。
床に背中のホックを全部外されたドレスとフリルがふんだんについたスカートが輪のように置かれて、中心に立つように促される。
リナがまずスカートを持ち上げて真珠の腰に紐で固定し、次にドレスを持ち上げる。真珠が袖を通すと背中のホックが留められた。
鏡を見ると、中に履いたスカートでドレスのスカート部分がふわりと膨らんでいた。骨組みは入っていないので布の厚み分だけだが、それだけでも随分バランスが良いように見える。
ただし、布が多い分熱がこもるし重たい。
(ドレスは凄く素敵だけど、もっと楽で一人でも着替えられるような物があればいいなぁ……)
鏡に映った自分の姿を見て、真珠は元の世界で着ていた服を思い浮かべていた。
軽い朝食後に髪まで丹念に結い上げられてしまった真珠は少し放心状態になっていた。反対にリナは上機嫌で、少し別の仕事を片づけて来ると言ってワゴンを押して部屋を出て行った。
何もする事がない、と思った真珠だったがふと昨日の本を思い出して椅子から立ち上がった。
相変わらず一文字も読めそうにない本だったが、描かれた絵はただ眺めるだけでも暇つぶしには十分だった。
しばらくするとノックの音が響く。リナが戻って来たのかと思いきや、聞こえてきた声はデリスのものだった。
「マリ嬢、入ってもいいか」
「あ、どうぞ」
真珠の返事を待ってデリスは入って来た。その後ろから、見知らぬ1人の人物がひょっこりと現れる。
「初めまして。私はラフィカだよ、可愛いお嬢さん」
絵本の王子様が現実にいたらこんな感じなのだろうか。
思わず目が釘付けになるような美青年を前に真珠は思考も体も固まっていた。