第1話 酒の席にて
誰にだって、ふとした瞬間に思い出す度、大声を上げて顔を覆いたくなるような失敗の一つや二つはあるものだろう。
私は世間的にもまだまだ若輩者であるが、それでもその長いとは言えない人生の中で数々の恥ずべき失敗を重ねてきている。今でも移動中の電車やバスの中、風呂に入っているとき、はたまた寝る前の布団の中などでその失敗を思い出しては、奇声を上げて走り回りたくなる衝動を抑えながら生きている。抑えきれずに声が漏れることもままある。
昔の失敗をずるずると引きずり、思い出す度に自己嫌悪に陥ることに疲れていた私は、酒の席で先生に相談したことがある。
「まだ若いのに、私には恥ずべき失敗が多すぎます。こんな調子なので、きっとこの先も恥ずべき失敗を重ねていくことでしょう。今でも耐えられなくなりそうになる時があるのに、この先の人生が不安でなりません。私はこのままだと恥ずべき失敗の思い出に押しつぶされて死んでしまうのではないかと思うのです」
私の話を聞いた先生は、酒に酔ってふらふらになりながら、その見事に禿げ上がった頭をおしぼりで軽く拭った。
「何も心配することなどないよ。私も恥の多い人生を歩んできた。私は君のように真面目ではないからね。君の二倍、いや三倍は失敗を重ねてきているという確信がある。だがどうだ。私はこのようにぴんぴんしている。夜中に奇声をあげて走り回ることもなければ、失敗の思い出に押しつぶされるようなこともない」
「では、なぜそのようにぴんぴんしていられるのですか」
「人間、年を取ると大概のことがどうでもよくなってくるものだ。今ならこっぴどく振られた初恋のあの子にだって平気で話しかけることができるだろう。デートで食事に行ったときに財布を忘れたことも、今ではすっかりいい笑い話だ」
「女性関係ばかりですね」
「何を言うかね。電車の中で大きな音のする屁をこいたこともあるぞ。ともかくだ、君も世間からおっさんと呼ばれるようになる年になれば、そんな悩みなぞ消えてなくなる。悩みなぞ、せいぜい健康診断の数値ぐらいのものだ」
そう言って、先生はその見事なまでに膨らんだ腹をぽんとたたき、また大声で笑った。
「しかしだな、君。その悩みは大切にしないといけない」
「なぜでしょうか」
先生は笑みを浮かべ、私を、そして周りで騒いでいるほかの学生たちを見る。
「私は大学の教員としてずいぶん長い間働いてきた。つまり、それだけたくさんの学生を見てきたということだ。その中には、栄光ある人生への第一歩を進めた者もいれば、前途多難な人生へと転がり落ちてしまった者もいる。ただ、長い間いろいろな学生を見てきて気付いたことがある」
「それは何でしょう」
そのときの私は若く、できるかぎり栄光ある人生を歩みたいと考えていた。だからこそ先生の言葉を聞き逃すまいと居住まいを正し先生の言葉を待った。
「それはな、栄光ある人生を歩むためには、たくさんの失敗が必要だということだ。それも阿呆な失敗であればあるほどよい」
「失敗をしていれば、栄光ある人生から離れてしまうように思うのですが……」
「うん、私も若いころはそんな風に考えていたのだがね、不思議と阿呆な失敗をしている学生のほうが、栄光ある人生へと歩みを進めている。そして、ただ一つの失敗もないように心がけ慎重になる学生ほど、栄光ある人生から遠ざかっていく」
「それは、失敗が人を強くするということでしょうか」
「そんな大層なものではない」
先生は手に持っていたグラスのビールを一気に飲み込んでから、こう言った。
「恥ずかしい失敗、阿呆な失敗のない人生が、栄光ある人生であるはずがないだろう」
「先生の考える栄光ある人生と、私の考えるそれとはいささかの違いがあるようです」
「何を言うかね。阿呆な失敗、恥ずべき失敗のない人生には深みが出ない。深みが出ない人生なぞ味気ないものだ。失敗し、悔やみ、また失敗する。そうして人生に深みが出て、味のあるものになってゆくのだ。そう、このウイスキーのように」
語りながら先生は近くにあったビールの大瓶をグラスに注ぐ。
「先生、それはウイスキーではなくビールです。それから、ずいぶんと酔っていらっしゃるようです。もう、その辺になされたほうがよろしいのでは」
私の言葉を無視し、たちまちグラスを空にしてから先生は私のほうを見る。
「君はまだ若い。君は恥ずべき経験に押しつぶされそうになっているというが、私から見ればまだまだ足りない。もっとたくさんの失敗をしなさい。そして、今の君のように悩みなさい。そうすれば人生に味が出て、きっと君の人生は栄光あるものになるだろう」
それから、先生は「ただし、犯罪はしちゃいかん」と言うと酔いつぶれて座敷に横になり大きないびきをかき始めたのだった。