狐の羽衣
この話はフィクションです。
例にならって拙い知識で書いてるため、史実と異なる点はご容赦ください。
近頃さする、というマッサージに無限大の可能性を感じます。
これは、日本がまだ江戸時代だったころ、私がずっとずっと若い頃の話だ。
疲れた。体が泥のようだ。まとわりつくような疲労感が、指の一つも動かすことを拒んでいる。
今日はよく晴れていたから張り切って、予定よりも一つ遠くの加賀国まで出たのだ。
薬売りを生業とする我々は、得意の家々を回り、 使われた分だけの薬代を頂く。恒例の、持参した土産の錦絵は美人画で、今回は贔屓のご主人達にいたく喜ばれた。
夜風が涼しい。先ほどの通り雨が、ほどよくこの畦地の熱を奪っていったようだ。
灯明皿には小さく火が灯っている。手狭だがよく手入れされた庵は板の間で、人が横になる為か二畳ほど畳が敷かれている。
その上には清潔な布団が一組用意されており、私はその上に寝かせられていたようだ。
ようだ、というのも、気がついたのがつい半刻ほど前のことだ。
目を覚ましてすぐ、大わらわで傍らの仕事道具を確かめた。
薄暗闇のなか、硬く軽い木箱の感触と、中の商品の薬が欠けてないことを一つ一つ確認して、ようやくほっと息をつき、辺りを見渡した。
そして、自分の置かれた状況を整理するにいたる、というわけだ。
ーーーはて、ここはいったいどこだったか。
宿のようだが、いまいち記憶があやふやである。知ってるようで、知らぬ場所だ。思い出そうにも、記憶が雲をつかむようではっきりしない。
覚えなしに知らぬ場にいるなど、ただ事ではない。
が、疲れていた私はまとまらぬ頭で、阿呆のようにぼんやりと手元の薬箱を撫でていた。
ーーー本日もお疲れさまでございました。
ぼんやりしていると、明かり取りの障子を閉めながら、一人の妙齢の婦人が部屋へ入ってきた。
婦人は全身白い、体格に沿った服を着て、医者のようにも見える珍妙な出で立ちだ。
美しい顔立ちたが、その細い目から表情が上手く読めない。
ーーーさあ、あちこち疲れで筋が張ってらっしゃいます。こちらに横になって、体を楽になさって下さい
はてこのようなご婦人、知り合いにいただろうか。失礼かとも思ったが、聞いてみることにする。
ーーーふふ、わたくしめに興味がおありで?
質問に質問で返された。深く聞くなということだろうか。
ーーーご心配なさらず、さぁ、まずはうつ伏せになって下さいませ。
言われるがまま、緩慢な動きでうつ伏せになる。敷き布団は驚くほど柔らかく、不思議と息が詰まることはない。
ーーー今日はよく晴れておりましたから、お仕事に精が出たことでしょう。お背中の筋肉が張っております。まずは服の上から安間を施しますから、どうぞ力を抜いておくつろぎくださいね。
暖かい両の手が、肩甲骨の間に添えられた。
まずはそこでじっ、と患部を暖めてから、手のひら全体を使ってするすると大きな円を描くように安間が始まった。
決して力を込めず、擦るのみの動きなのに、だんだんと背中がほぐれてくる。
細かな血管にまで血がどっと流れて、ぽかぽかと背中を中心に暖かくなってきた。
これはいい、気持ちがいい。
薬屋としてなんだが、下手な飲み薬よりも効きそうだ。
ーーーさする、というものは疲れた体に良いのですよ。毒素の排出を促し、心地よく眠りにつけますから。
彼女の声は囁くようで、耳に心地よい。
私は襲ってくる睡魔と戦いながら、緩慢に返事をした。
ーーー痛いところをさすると言うものも、実は利にかなっているのですね。ふふ、寝てしまって構いませんよ。
眠るなどもったいない、という考えは言葉にならず、また私はもごもごと返事をするにとどまった。
次第に安間の描く円は小さくなっていき、指先に僅かに力を込めた安間に切り替わった。背中の窪みをなぞるその動きに、指の通ったあとにざっ、と皮膚の下で血が流れるところを想像する。
毒素が血に流されて、バラバラになった背中の筋の一つ一つに、新鮮な栄養が行き渡っている。そのような感覚だ。
たっぷりと時間をかけて、背中の安間が施されると、次はツボの指圧が始まった。
ーーー筋が解れたので、ツボを押して行きます。痛かったら、仰ってくださいね。
くっ、くっ、とツボを刺激しながら、背中全体を指圧していく。
肩の全体を突いて、背骨に沿って下へ。戻って首を猫の子を持ち上げるように指先で揉み、肩から腕をしっかりと掴んで指先まで擦りあげる。
只でさえ硬い木箱を背負っている肩だ。気づかぬうちに余程疲れていたのだろう。ぞくり、とするほどに心地よい。
何度か腕を擦りあげて、手のひらをぐぅーっ、と指圧。少し痛いが、指圧する手を退けたあとは血が戻ってくるような感覚がする。
ーーー背中は、これで終いでございます。次は仰向けになって下さいませ
こうなるともう言われるがままだ。動かぬ体を叱咤して、緩慢に仰向けになる。
薄暗いはずの灯明台の明かりが眩しく感じる。
と、直ぐに瞼越しの明かりが陰り、額に手のひらをふわりと当てられた。
不思議と、それだけでほっとするような心地よさを感じる。彼女は暫くそうしていたが、やがて額から手を離すと、耳の後ろの辺りをゆっくりと揉んで手を離した。
ーーー完骨というツボです。疲労に効くと言われております。ふふ、少し眩しかったですね
瞼に、柔らかな布が被せられた。眩しさに顔をしかめたところを見られたらしい。しかし心遣いが嬉しく、自然と口許が綻んだ。
ーーーお次は足を擦っていきますね。先ずは白湯で絞った手拭いで拭いていきますので、熱かったら仰ってください。
左の足を取られ、正座した彼女の膝の上に置かれたようだ。そこに、そっと暖かい手拭いが被せられる。
少し暑いくらいかと思ったが、直ぐに馴染んで、ちょうどよい温度となった。
その手拭いで、あしのうらをぐい、と拭かれる。
ーーー足の裏は皮膚が厚いので、強めに拭っていきますね。
ぐいぐいと、手拭いの面を変え、拭っていく。ちゃぷちゃぷと水の音がする。一度白湯の桶に手拭いを戻し、絞っているのだろう。…歩きづめだったので、さぞ汚かったことだろう。
ーーー指の間は皮膚が薄いので、そっと拭き取るようにいたします。あら、お気になさらないで、足は誰でも汚れますから。
そんなに顔に出ていただろうか、優しげな声音に些かばつが悪くなる。だが、暖かい手拭いに足を拭われるのは真に心地よい。
ーーー汚れなど、些末なことです。本日は、疲れを取ることだけお考えくださいね。
左が拭い終わって、次は右だ。右足も同様に、暖かい手拭いで拭いていく。最後の最後に、爪の間をぐいと拭われるのだが、これがこそばゆいながらも心地よい。
ーーー終わりました。では、背中と同様に、擦っていきますね。
彼女は傍らから、木の蓋がされている小さな白い壺を取り出すと、ぱかりとその蓋を開けた。
とたんに、部屋に嗅ぎ慣れた薬の香りが立ち込める。決してよい香りではない、いかにも薬、といった匂いだ。
紫雲膏という優れた塗り薬がある。これは、紫の根を乾燥させたものと、胡麻油などを煮たたせて作る軟膏で、火傷によく効く。肌を柔らかくする作用もある。
製造元ごとに作り方は異なるが、私の商売道具の木箱にも、いくつか入ってる塗り薬だ。
ーーーふふ、やはり興味がおありですね。こちらは春の薬草を混ぜてありますから、よく売られているものよりも柔らかく作ってあるのですよ。
確かに、僅かに花のような、青臭いような香りもする。彼女はそれをたっぷりと手に取ると、私の左足にそっと置いた。
両の手で解すように、足の安間が始まった。ちょうどよい力加減で、足の甲から足首、そして膝まで一気にさすりあげる。戻るときに、くるくると円を書くようにふくらはぎの両脇をさすってくれるのも心地よい。
軟膏がほどよく滑りを助けてくれるのもよい。
ーーーこれは肌を美しくしますから、顔に塗ってもよいのですよ。薬売りのお方に申し上げるのも失礼かと存じますが、後で作り方をお教え致しますね。
それはかたじけない。大変ありがたい申し出だ。
しかし、大切な商売道具をおいそれと教えて良いものなのか。
ーーー心配には及びませんよ。あなた様に、是非お教えしたかったのです。
おや、それはどういうことなのか。
しかし、この話はおしまい、とばかりに彼女は微笑むばかりであとは何も語らなかった。
ーーーさあ、最後に足の裏を突いてゆきます。痛むところがあるかと存じますが、我慢なさってくださいね。
と、すぐさま鋭い痛みが襲ってきた。
曰く、腰が悪いと言う。懸命に痛みを堪えていると、やがてすっと痛みが引いて疲れが流れたような感覚がした。
そのあとは、特に痛むところもなく、痛みから解放された疲れで私はぐったりと力を抜いた。
ついでに、先ほどやっとのことで逃がした睡魔も戻ってきた。
ーーー足の裏は体を表しております。無理はなさらず、お体を大事になさってくださいね。
彼女の声音は、まるで家族を労るようなそんな響きをもって耳に届いた。
不思議だ、やはりどこかで会ったことがあっただろうか。
心地よい。労られるのも、人に触れられるのも心地よい。感謝の言葉を述べようとしたが、口がもう動かぬ。
土踏まず、踵をゆっくりと強く押し、指の股をそっと押す。足裏の両の脇をゆっくりと押しながらなぞってゆく。
仕上げとばかりに摩りもみに切り替わったあたりで、遂に私は睡魔に負け、意識を手放したのだった。
夢の中のようで、私は上空から景色を見ていた。
眼下には、薬売りを始めたばかりの私が、なれない荷物と山道に疲れ、情けなくも獣用の罠を踏み、憔悴し、だらりとに座り込んでいた。
薬があったのが幸いだが、季節は夏で、涼を求めて私は岩影へと這ってゆく。そこには先客がおり、小汚い狐が一匹。
前足を罠か何かで怪我したのか、しきりに舐めている。同じ奴の罠に掛かったのだろうか。
なんともなしに親近感を覚えて、手持ちの紫雲膏を効くのかも分からなかったが塗ってやり、握り飯を分け、水をやった。
ーーーお互い運が悪いなあ、このまま山賊か何かに捕まると嫌だよなあ
ーーー野犬もいるかもなあ
ーーーお前一人だと心細かったろうから、お前、私がいてよかったなあ
ーーー…お前、よく食べるなあ
動けず心細く、狐に話しかけて夜を明かした。狐は構わず寝てしまったが、私も次第に睡魔に負けて、起きた頃には足も治り、狐もいなかった。
夢の中で、夢から覚める感覚がして、ふと振り返った先に細い目をした狐が一匹。ケンッ、と鳴いて去っていった。
さて、起きてみればそこは何てことない、いつもの畦道だった。不思議なのは、いつの間にか富山藩に帰って来ていたというところだ。
そして、手には幾つかの野草と薬壺が。
なるほど、これが件の薬草か。
さて、それ以降、私はその塗り薬で大成した後もあの細い目をしたご婦人を探したが、遂に見つけることはできなかった。
あれは都合のよい私の見せた、都合のよい夢だったのかもしれぬ。
それだけの話だ。
ふふ、この塗り薬の名の由来、なかなか面白かっただろう?
了