焼きたての薔薇
魔法を使うには、体内に俗世の食べ物を入れてはいけないと教わった。だから、なおのこと、料理人の私室から漂う俗世の食べ物の匂いに心惹かれた。
――『朽葉日記』
肉体は食べたものによって造られる。ならば、肉体から食物の匂いがこぼれてもおかしくない。
俺の鼻は特に敏感なわけではないが、体臭を食物の匂いに感じる嗅覚を持っていた。料理人の父からは味噌汁の匂い、料理上手の母からはハンバーグの匂い。俺の好きな匂いは白米とハンバーグ。腐ったミョウガの匂いのように変な匂いのする奴とは相性が悪い。
生まれた時から、匂いは決まっている。その人の食べたものによって匂いが左右されるわけではない。だから、食物の匂いのしない人間にあったことはない。たとえ、腐ったものであろうと。
父の跡を継ぐわけではないが、俺は料理人として修業に出ることになった。向かう場所は、王宮仕えの魔法使い達の住まう城。
下っ端に料理をさせてくれるわけはなく、掃除や皿洗いから始める。もちろん、俺が魔法使い達と接することはできない。
城には見事な花園があった。王宮仕えの魔法使い達は多く、彼らに三食用意する俺達に休んでいる暇はない。自分達が食事をするときには厨房を追い出され、外で食事をすることになる。料理人の部屋には机も椅子もない。俺は花園の隅のベンチで食事をとっていた。
その素晴らしい花園からは、芳しい花の匂いが漂う。しかし、どんなに素敵な花園でも魔法使いの城にあっては、宝の持ち腐れである。魔法使いの殆どは研究のために引きこもる。一月、日光を浴びない魔法使いもいるという。庭師の汗と涙で、花は育つ。
ベンチの傍には薔薇が咲き誇っている。強い薔薇の匂いに包まれて、俺は昼飯をとる。
いっそう強い薔薇の匂いがした。人の気配と同時だったが、薔薇は食べ物ではないはずだ。
気配の方を向くと、太陽に煌く金髪の少年がいた。印象的なのは、薔薇を想わせる紅い瞳。薔薇の匂いの出所は、間違いなく彼だった。
「何を食べている?」
変声期なのだろうか、かすれた声で少年はいった。
俺の手にはサンドイッチが握られ、膝の上には食パン二斤分のサンドイッチと揚げたパンのみみがあった。塩気のきいたトマトとモッツァレラ、生ハムと新鮮なレタス、揚げたてのトンカツ、黄身がとろける半熟の煮卵。みみの切られた白い食パンは柔らかく、少しバターの味がする。砂糖をまぶして揚げたみみからは香ばしい匂いがする。
貴族階級だってサンドイッチは知っている。知らないのは巫女くらいだろう。少年の魔法使いがいるとは聞いてないが、この少年は何者だろう。
「サンドイッチを知らないのか」
「サンドイッチ? それはなんだ」
「パンにいろいろはさんだ食べ物だけど」
「人間はみんな食べているのか」
「みんなじゃないだろうけど、知らない人はいないんじゃないか」
「美味しいか?」
「食べてみるか?」
「でも俗世の食べ物だろう。僕は食べちゃいけないんだ」
「魔法使いか」
「ヴィクトリアンローズの後継者だ」
ヴィクトリアンローズは始祖と知られる仙人みたいな魔女だ。滅多に表に出てこない王宮仕えの魔法使い達だが、彼女は彼らの中の頭として、表舞台に立っている。
「後継者をとったのか」
「もう寿命が短いからな。僕の魔力は継ぐに相応しいって」
少年は俺の隣に腰を掛けた。鼻を通り抜けて脳を麻痺させるほどの薔薇の匂い。
腹を空かせているのだろうか、腹に手を添え物欲しそうに俺の手元を見ている。
「食べたらいいだろ」
「僕は薔薇しか食べちゃいけないから。そこの薔薇を食べて育ったんだ」
「美味しいのか?」
「薔薇しか食べたことないから比較できない。でも色によって味は違う」
「たとえば」
「ピンクはすごく甘い。黄色はちょうどよくすっぱい。オレンジはしょっぱい。青は冷たくて甘い。赤はとにかく濃い味がする」
食べたもので匂いが決まるわけじゃない。けれど、彼にとって薔薇は食物であり、彼から薔薇の匂いがするのは定められた運命なのだろう。好奇心に指が動かされ、そこに咲いている薔薇の花弁を摘んだ。
食事は味覚以外も刺激するが、口にいれた薔薇は嗅覚を強く刺激した。むせるような薔薇の香り。味より先に匂いを感じる。正直美味しくない。薔薇味の食べ物なら食べたことはあるが、あれは薔薇の香りをつけた甘いだけの食べ物だ。けれど薔薇そのものに甘みはなく、むしろ苦い。それも食物としての苦みではない。食感もよくない。葉に似てるかと思ったが、まったく違う。
これしか食べたことのない少年が哀れになった。
「薔薇以外を食べるとどうなる?」
「知らない。やったことないから」
「ばれると困るのか?」
「さあね」
「だったら食べてみたらいい。うまいぞ」
少年は眉根を寄せ困り顔で思案している。おそらく今まで忠実に守られてきた規律を犯そうというのだから、悩みもするだろう。
だが、少年は食欲に負けた。
「どれを食べていい?」
俺は少年にカツサンドを渡した。俺のお気に入りだ。
少年がカツサンドを口に含む。衣がサクサクと音をたてている。衣に包まれた豚肉から肉汁が溢れるのが容易く想像できる。
未知の味だろうから、少年は驚きに目を見張り俺を見た。
「うまいだろう?」
俺が自慢げに言うと、少年は首がちぎれんばかりに何度も頷いた。
何度か咀嚼しのみこむと、少年は口を開いた。
「僕は初めて知ったぞ! これが美味しいってことだな! これで魔法が使えなくなっても、僕は後悔しない!」
少年は興奮気味に話す。冷たさを帯びていた紅い瞳は、驚きと感動に輝いていた。
少年があまりに美味しそうに食べるので、俺が食べるはずだったサンドイッチの半分は彼にあげた。これだけ美味しそうに食べてくれるなら料理人冥利につきるというものだ。
それ以来、食事は彼と一緒にとることになった。少年は俺だけに懐いていたようだ。魔法使いと接することのできる連中は大抵少年とは年が離れているし、年が近くても仲良くなることは難しいらしい。特に厨房は人の入れ替わりが激しい。
毎日、花園の中央にある四阿に二人分の食事を持って行く。料理人は忙しくて他人のことになど構っていられないし、他の魔法使いにばれないよう少年が五感に対する幻覚の魔法をかけた。
半熟と完熟の中間の卵をかぶせたオムライス。大きめに切った野菜のカレー。余ったカレーはドリアにする。じゃがいもと豚肉、玉ねぎだけのシンプルな肉じゃが。豆腐とわかめの味噌汁。青葉の季節には筍を煮る。揚げ茄子をいれたラザニア。トマトは冷製パスタにする。茄子は焼き茄子にして、とうもろこしは醤油をぬって焼く。カスタードと林檎を敷き詰めたタルト。肉汁溢れる小龍包。にんにくのきいた餃子は酢醤油で食べる。苦みの強いカラメルをかけたプリン。塩味だけのおにぎり。カリッと揚げた若鶏のから揚げ。青梅と氷砂糖で梅ジュースを作る。毎日手をいれた糠漬けは、白米のいいお供だ。まんじゅうは天ぷらにしても美味しい。
少年のお気に入りはハンバーグだ。大粒の玉ねぎの入ったハンバーグ。ケチャップとウスターソース、肉汁を混ぜたソースをかける。母の得意料理で、俺の好物。我が家でご馳走といえばこれだ。
少年が魔法を使えなくなることはなく、むしろ強まっていった。やはり食べ物の力は偉大だ、と俺は一人頷いていた。
少年が、少年の域を抜ける頃には、俺はもう下っ端ではなく厨房の中でもそれなりの位置にいた。特別敏感ではないと思っていた嗅覚は、それでも他人より優れていた。料理は味も大切だが、匂いも重要である、とのことだった。
地位が高くなれば魔法使いと接する機会も増える。給仕をするのではなく、メニューの要望などを直接聞くようなことが増える。
魔法使いは総じて不思議な匂いがした。食べ物のようでそうではない、腐っているわけではないが決して美味しそうな匂いではない。どちらかというなら、不快な方の匂いだ。
食べているものが原因なのではなく、そういう運命なのだろう。王宮仕えの魔法使いは志願してなれるものではない。彼らの多くは、幼い頃に才能を見出され連れてこられた者達だ。魔法使いは人間と同じものを食べてはいけないという法をもつ城にいる彼らの食べる物はおかしな物ばかりだ。ガラス製の林檎や、致死量のヒ素。腐りきった肉を好んで食べる者もいると聞くし、決まった木の枯葉しか食べない者もいると聞く。俺達が調理するのは、到底食物とは呼べないものばかりだ。
そんな厨房が心地良い匂いなわけがない。自分の食事を厨房で用意することもできるが、俺は自室に備え付けてある台所で料理をしている。だが一日の大半はその厨房で過ごすのだ。
気が変になる奴は多いから、厨房は人の入れ替わりが激しく、俺は長く続いてる方だった。それでも、他人より敏感だという嗅覚はもう耐えられそうになかった。少年には申し訳ないが、城を出て父の店を継ごうかと考えた。
彼にその話をすると、必死にひきとめられた。
「お前がいなくなったら、誰が僕のご飯を作るんだ!」
「俺以外に頼んだらいいだろう」
「そんなのは無理だ。僕の要望を聞けるような連中は年寄りで頭の固い奴らばかりだ」
確かに厨房の連中は料理人やシェフというより、餌を作っている人という方が近い。決められたメニューを、規則に沿って作る。そこに独創性はいらない。
すき焼き用の生卵に箸をつっこんだまま、少年はしばし考え込んだ。その間に俺は牛肉をあらかた食べた。
「すぐに辞めるわけじゃないんだろう」
「ああ、引き継ぎとかあるし、まだ親にも話してないからな」
「なら、いい」
少年はそういって食事を再開した。
「おい、牛肉がもうないじゃないか!」
少年はそう怒ったが、知らないのだろうか。食事と書いて戦争と読むと。
結果的に俺は厨房に居続けることになった。
少年に話をしてから、数日後、突然ヴィクトリアンローズが亡くなった。寿命が短いと言っていたからか、唐突な死にもかかわらず衝撃は少なく、まるで予知されていたかのように速やかに国葬が行われた。
魔法使いは基本的に実力主義である。魔法には豊富な経験が必要不可欠であるから、次にトップにたつのは今や最年長の魔法使いかと思われていた。しかし、既にあの少年は、少なくとも城内では右に出る者がいない使い手になっていた。王宮仕えの魔法使いの長は、彼である。
魔法使いが俗世の物を食べてはいけないという規則は、ヴィクトリアンローズが創ったものだった。彼女が長い間頂点に立ち続けていたから、規則が変わることはなかった。
徹底した実力主義の魔法使い達の規則は、その当時の頂点である。つまり、少年そのものが法なのだ。
だが、少年が変えた規律は一つだけだった。
今日は少年の誕生日であるが、メニューは決まっていて、毎年変わらない。
きのこ、ほうれん草、ひき肉の小さなキッシュ。半熟卵とカリカリに焼いたベーコンの入ったシーザーサラダ。コンソメのジュレが輝くビシソワーズ。今日のために焼いたバケットからは香ばしい匂いがする。トマトソースをかけたたらのソテー。レモンとオレンジのシャーベットにはミントを添えて。蜜がたっぷり入った林檎は要望に応えてうさぎの形にする。スポンジからクリームまですべてチョコで、バナナがはさまれた誕生日ケーキ。もちろんメインの肉料理は、お気に入りのハンバーグである。
青年というべき少年の瞳は、あの日と変わらず紅く輝く。
史上最強の魔法使いといえば、薔薇挽きの魔法使いエイトンローズである。仙人とも呼ばれた墓薔薇の魔女ヴィクトリアンローズの後継者である。
彼の好物として有名なのがハンバーグだ。何か特別なハンバーグなのではなく、一般的に家庭で作られるハンバーグと大きな差はない。
好物がハンバーグであるはっきりとした理由は定かではないが、当時の料理長が関わっていることは判明している。城内だけでなく、それどころか国内外問わず料理人の間では伝説として知られている彼を、エイトンローズはいたく気に入っていたらしく、その彼の好物が件のハンバーグであるそうだ。
噂に過ぎないが、彼を城にひきとめるために、師であるヴィクトリアンローズを殺したとさえ伝えられている。彼女の死後、王宮仕えの魔法使いの食事を人間のものと同じにしたのはエイトンローズであるから、この噂もあながち真実なのかもしれない。この噂が真実であろうとなかろうと、エイトンローズをつくったのは、かの料理長であるといっても過言ではないだろう。
料理長の家は食堂だったらしく、また母も料理上手だったそうだ。推測にすぎないが、美味しい家庭料理に育てられたのだろう。彼が城内で出す料理のその多くは家庭料理だったようだ。それも料理人らしくアレンジすることなく、庶民でも簡単に作れるような料理だったらしい。
魔法使いは生まれた時から魔法使いであり、資質を認められれば生まれてすぐの赤ん坊でも城に閉じ込められることになる。そんな彼らにとって、料理長の作る家庭料理は新鮮であり、持っていないはずの記憶を呼び覚ますようなものだったのだろう。エイトンローズだけでなく、わくら葉の魔女ウィザーメープルもその腕前に心底惚れ込んでいたという。
残念ながら、一般的な家庭料理ばかりなためか、レシピらしきレシピはほとんど残されていない。口伝だったという説もある。なぜなら料理長亡き後も、エイトンローズは城に留まり続けたからだ。師を殺すほど彼の料理に惹かれていた彼が、料理長の死後も城に留まり研究を続けたというなら、次の料理長に家庭料理が受け継がれたからだと考えるのが自然だ。
――『王宮下魔法城研究誌 食事編』