閑話:お嬢様とオレンジ
「ふーんふふっふー♪ふーふふっふー♪夢の……♪」
裏口の方からおかしな鼻歌が聞こえる。
おそらくまたお嬢様が鼻歌まじりに散歩しているのだろう。
あの鼻歌の感じだと今日も絶好調でご機嫌のようだ。
お嬢様は歌を作るのがお上手でいつも妙に耳に残る鼻歌を歌っている。
将来は作曲家になれるんじゃないだろうか。
確かお嬢様は僕より五つ年下で、十歳くらいだったはずだ。
やっぱり伯爵家のお嬢様は、年が近くたって僕なんかとは違うんだな。
そんなことを考えながら、調理場の外の水場で料理長に命じられた洗い物をしているが、油汚れが全然落ちない。
奥様のお気に入りのティーカップの茶渋も落ちなくて泣きそうになる。
僕はピート。エーデルワイス伯爵家に先日雇われた料理人見習いだ。
今は昼食の後の調理場の洗い物をしているのだが、高価な石鹸は使えないし、洗い物の量も多くいつまでたっても終わる気がしない。
「汚れが簡単に落ちる魔法があればいいのに」
ついつい夢物語みたいなことを呟いてため息をついた。
すると裏口からひょっこりと小さな影が頭を出した。
「洗剤が欲しいの?」
「へ?お嬢様?」
「うわぁ沢山あるのね。油汚れを落としたいのね」
お嬢様は石鹸を持ってきてくれるつもりなのだろうか。
正直とても欲しいが、高価な石鹸を食器洗いなんかに使ったら料理長にどやされるに決まっている。
「石鹸は高価なので、洗い物に使ってはだめなんです。僕の仕事なので、大丈夫です」
そりゃあ、お嬢様にとっては石鹸なんて安いものなんだろうけどさ、と少しひねたことを考えてしまったのは、疲れているからだろうか。
なんだかイライラした僕は、隣に立つお嬢様を無視して洗い物を続けた。
「オレンジの皮、ある?みかんでもいいの」
みかんってなんだ?オレンジが食べたいのかな。
僕は忙しいのに!子供の相手をしてるほどヒマじゃないんだ。
「調理場に入った手前の隅にオレンジが置いてありますよ。誰かに切ってもらって下さい」
僕はお嬢様の方を見もせずにボソッとつぶやいた。
完全な八つ当たりだって自分でも思うけど……お嬢様相手にこんな態度だったら最悪クビになるかもしれないけど。
落ちない汚れに無性にイライラしたんだ。
お嬢様は黙って調理場のほうに行った。
さっきまでイライラしてたはずなのに、なんだか急に不安になって、僕は鍋を磨く手に力を込めた。
なんとか二つ目の鍋を磨き終えた時だった。
「オーレーンージーせーんざーーーい!」
ビクゥッ!!
いきなり大声でお嬢様の声が聞こえたのでビックリした。
「びびびびっくりしました!!驚かすのはやめて下さい!」
「ごめんなさい。オレンジせんざーい(小声)」
「……オレンジせんざいってなんですか?」
「油が落ちるの!是非使ってみて。茶渋も落ちるわよ」
「……」
せんざいってなんだ。
子供のお遊びに付き合ってられるか!と無視すると、まだ洗っていない鍋を手に取った。
すると、お嬢様がオレンジせんざいとやらを鍋を洗う手元にかけてくる。
「なにするんですか……え?」
すごいとれる。油汚れすごいとれる。魔法みたいにとれる。
恐る恐るティーカップを手に取ると、またお嬢様が手元にオレンジせんざいをかける。
茶渋、超とれる。
僕はおもわず目を見開いてお嬢様を凝視した。
「超とれます……」
お嬢様はニヤリと笑って去って行った。
この日から、エーデルワイス伯爵家ではオレンジせんざいが大活躍することになる。




