ぬるいエールと氷
ルメリカの王都であるリンゴスタは、日が落ち夜になっても眠らない街である。さすがに貴族街で騒ぐものはいないが、庶民街では大通りはもちろん、路地にまで大小様々な酒場が軒を連ね、入れ替わり立ち替わり沢山の客で賑わっていた。
商人の街であり、人の出入りが激しいためかどこの酒場も開放的で、様々な人種が陽気に酒を酌み交わしているのが特徴的だ。
その沢山あるうちのひとつ、ガヤガヤと騒がしい酒場の喧騒の中で、二人の目立つ風体の男が盃を傾けていた。
そこはよくある宿屋の食堂が昼間の営業を終えた後……つまり、かなり庶民的で大衆的な安酒場である。
宿屋の立地は庶民街の中程。
自然、来ている客も荒っぽく喧しい連中が多く、あちらこちらで賭け事の声や揉め事の声なども聞こえてくるような有り様だ。
そんな場所において、その二人の男達は浮いていた。
何故ならば、男達のどちらも地味な装いではあるものの、よく見れば服装がやけに上等であり、安物の服を着ている客が大半のこの酒場ではおおよそ場にそぐわない様子だったからだ。
男のうちのひとり……ミカエルがグイッとエールのはいった木のジョッキを傾け、喉を鳴らす。
分厚い木のテーブルにジョッキをドンと置くと、なみなみと注がれたエールが飛び散りテーブルに染みを作った。
「うーん、やっぱり僕は冷えてる方が好きかも?ぬるい時とは別の飲み物みたいダヨ〜。」
ぬるいエールは、冷えているものよりも麦の味が濃く感じられる。清涼感が増し、サラッと飲める冷えたエールとは本当に別の飲み物のようでミカエルは首を傾げた。
「ふうむ……確かに。これは夏には最高だな。しっかし、なんで今までこれを冷やそうって奴が出てこなかったんだろうな?まあ、俺もそのうちの一人なんだけどな!」
そう言ってエリオットは快活に笑った。
そしてアルトリアから来た妙な令嬢……コゼットのいうところの『ビール』……エールのぬるさを残念に思いながらもひと息にジョッキをあける。
そもそも飲み物に氷を入れて冷やして飲むこと自体が贅沢なのだ。
「だが何故彼女はこれが冷やした方が美味いって知ってたんだろうな?アルトリアにもエールはあるにはあるが、貴族連中は飲まないだろうに」
未成年だということは、エリオットにはあまり問題に感じられない。エリオット自身がそんな決まりを守っていなかったので当たり前だ。
しかしルメリカよりも貴族的な縛りの強いアルトリアの貴族、しかも令嬢が、まさしく庶民の飲み物であるエールを飲んだことがあるとは。
疑問を感じつつ、エリオットは通りすがった女給にエールのお代わりを頼んだ。
ふわりとしたスカート姿の笑顔の可愛いふくよかな女給は、明るく返事をして厨房に向かった。
この二人はこの酒場に不釣り合いなほどの上客だ。自然、接客にも力が入るというもので、女給はすぐにエールとつまみを持ってきた。
「まあ、コゼット嬢はかなり変わってるって、レミーエ嬢も言ってたしネ。でもあそこまでとは思わなかったけど。……面白いよネ、彼女」
でもレミーエ嬢も大概だけどね……という感想を心の中でつぶやきつつ、ミカエルは道化のようにおどけてみせた。そんなミカエルを横目でチラリと見て、エリオットは瞳に複雑そうな色を浮かべた。
「俺の前では、そんな喋り方しなくていいんだぜ……兄貴」
その言葉にミカエルは一度目を見開いた後、嬉しそうに笑った。しかしそれを誤魔化すように女給に合図すると、氷を持ってくるように言付ける。ミカエルの笑顔を間近にみて固まっていた女給は、顔を赤らめつつ……しかし困ったように眉を下げた。
「氷?あるにはあるけど……高いよ?ま、まあ、お客さんたちには安いものかもしれないけど」
冬の間に凍った湖から削りだし、氷室に保存しておく氷は、手間がかかる上に貴重品であるため値がはる。
そのため、わざわざエールなんて安酒に氷をいれるような馬鹿なことを思いつくものはいない。
もちろんそんな事を思いつきもしない女給も、何のために使うのかが気になるのか、ミカエルの方をチラチラと窺うように覗き見ていた。
「飲み物を冷やすのさ。構わないから、頼んだよ」
不思議な注文に首をひねりながらも氷を取りに行く女給を見送りつつ、ミカエルは笑みを深くした。
「本当に面白い。エールも、彼女も……とっても気に入ったよ」
「兄貴、それは……」
気まぐれな兄に気に入られるなんて!
エリオットの知る限り、今まで兄の興味を引く女性がいた記憶はない。
そのことに新鮮な驚きと彼女に対する感嘆を覚えながらも、レミーエから聞いているアルトリア王立学園の事情を考えると……
エリオットがどう言おうか困っていると、ミカエルはわかっているとでも言いたげに肩をすくめた。
「アルトリアの王太子殿下の事だよね?……でもまだ婚約はしていない。そうだね?」
「ああ。いや、しかし……うーむ」
アルトリアの王太子妃レース……あの特殊な催しを行う学園の事は、レミーエからそれなりに聞いている。
あのレースに参加しているのならば、王太子妃候補である、もしくはそれに名乗りを上げている事になるのではないか。……しかしエリオットにはそこまで詳しい事はわからず、口ごもってしまう。
もしかしたらたまたま学園に入学しているだけで、王太子殿下にも王太子妃にも興味がないのかもしれないし。
レミーエの話では、二人の関係は友人の域を超えていなそうだった。……もっとも、エリオットの女神は他人の事情をペラペラと喋るようなかしましい女とは違うので、本当のところはわからないが。
エリオットが悩んでいるうち、女給が氷を運んできた。ミカエルは大きめの氷をひとつとり、ジョッキにからりと投げ入れると、思わず誰もが見惚れるような笑みで妖艶に笑った。
「彼女は僕のものにするよ。……正直、こんなに興味を惹かれる女性に出会ったのは初めてなんだ」
くつくつと笑う兄を見て、エリオットは手出しすることを諦めた。
この兄が本気で求めて手に入らなかったものなど、今までにひとつとしてないのだ。
俺がクヨクヨと悩んだところで、なるようにしかならない。
エリオットは氷で冷たくなったエールを一気に喉に流し込んだ。




