第一話下
「もう時間がない。残念だが、爆弾停止は諦め、爆弾処理班に簡便な対爆処置を任せ、我々は撤退する」
そう鈴木は三人の前で語ると、ヘルメットの下に無念の表情を浮かべた。
この決定に、三人の警備員たちの顔にも安堵の色が浮かぶ。だが、そのひとつは自分の任務が成功したことへのほくそ笑みだ。勝利は、もう目の前であった。
「それでは、気を付けっ」鈴木が声を上げる。「回れー、右」
三人はその号令に従い、右足を下げ、両かかとを軸にしてで百八十度回転すと、再び右足を動かして左足に引きつけ、気を付けの姿勢に戻る。両かかとを軸にしないと、位置がずれてしまうのだ。
行進しての退場は通常であった。
しかし、基本動作は終わらなかったのだ。
「回れー右!」
「?」
なぜか鈴木は連続して号令を繰り返した。
「回れー右」「回れー右」
一箇所で行なう回れ右。それは無意味であり、嫌がらせにも近い。
「……」
しかし三人は反射的に号令に従い、動作してしまう。
「回れー右」「向后转(シイアン ホゥン ジアン)っ!」
反復していた号令が変わったのは、突然であった。それは中国語での回れ右の号令であった。
三人のうち一人は躊躇して動かなかい。いや、動けない。そして二人が回れ右をした。ひとりは両かかとを使った通常の回れ右。そして、もうひとりの動作は、両つま先を軸とした、変則的なものであった。
「わかった。スパイは、貴様だ! 山本っ」
鈴木が変則的な回れ右を行った小太りの男を指差す。
「肏っ!」
同時に山本は吐き捨てるように叫び、握った両拳の親指を立て、自らの両目に突き立てようとした。せめて瞳を潰し、網膜認識装置を働かなくさせようというのだ。
「やめろっ」
鈴木の部下四人が咄嗟に山本の両腕を掴んで、目潰しを制止する。
「うがあ」
山本が一声吠え、上半身を螺旋状に回転させた。ちょうど、歌舞伎における連獅子のような動きだ。
その螺旋の勢いで、部下四人の体は吹き飛び、壁に激突してしまう。
自衛隊の並びに隙ができた。
間髪入れず、山本はただひとつある出入り口に向かい、駆け出した。この混乱を機会とし脱出を試みたのだ。鈴木たちの追手を振り切り、発電所さえ抜けだしてしまえば姿を隠すことは簡単だし、それだけのスキルを有している。
しかし出口の前には、すでに鈴木が移動しており腰を低く落とし左正面で構える。軽く肘が曲げられ、両手のひらは開いている。
「走開っ!」
山本が足を止めずに、血走った目をして怒鳴る。その体重は、鈴木の倍はあるだろう。吹き飛ばすには十分であった。
「――むん」
しかし鈴木は退かなかった。目を細め、息を吸う。
そこへ、頭から山本が突っ込む。
「ふんっ」
鈴木が息を吐く。一歩踏み込んで、腰を回転させる。そして勢い付いて突き出される右手。小指から握られていき、拳となる。親指を上にした縦拳と呼ばれる握り。
鈴木は、山本の頭突きをかいくぐりつつ、右拳をその腹部へと突き入れた。
肉を打つ音。
「――ぐぅ」
鈴木に負いかぶさるようにして、山本の動きが止まる。山本の口から空気が漏れた。
右拳は正確に、山本のみぞおちにめり込んでいた。
鈴木が残心しながら、右腕を引き、横に移動する。
途端に、ドウと山本が前のめりに床に崩れた。
鈴木の直突きは強烈であった。それは彼が銃剣道にも習熟していた結果だ。
通常、海上自衛隊では教習しない銃剣道。古流槍術の正統な後継であり、戦場において小銃の先に着剣した状態での格闘を想定した武道である。突きのみで構成された技のスピードは、数ある武道の中でもトップクラスといわれている。
鈴木は、銃剣道で培った突進力も加味し、一撃で山本を仕留めたのである。
「早く、こいつを網膜認識装置にかけるんだ」
勝利の余韻に浸る場合もなく、鈴木は痛んだ頭を押さえながら立ち上がった部下に命令する。
すぐさま部下たちが、痛みに動けないで横たわる山本の身体を強引に引き起こす。その口からは、血の混じったよだれが床に垂れた。
「人民解放軍のパレードを見て気づいたことがある。人民解放軍の行なう集団行動が、我々のものと微妙に異なっていることを。何より、両つま先を用いる回れ右。日本の教育隊では徹底的に矯正されるまわり方だ。だから俺はトラップを仕掛け、やつを見事に引っかけた……」
鈴木が冷たい視線を山本に向けた。
そして部下たちに抱えられた山本の顔は、網膜認識装置にかけられ、無事に爆弾は停止する。
時間は爆発時間の一〇秒前。
まさに日中戦争開始の危機一髪直前であった。
鈴木は大きく安堵の息をつき、額の汗を拭う。
こうして鈴木の活躍で戦争は回避されたのだ。
ありがとう、鈴木。お疲れ様、鈴木。
だが、鈴木の、そして日本のピンチはまだまだ終わらないのだ。