不穏な空気
思いのほか早く筆が進んでおります。
トリカの孫娘が遺跡内で色々と足を引っ張ります。
シェラガとコーウト、ケザンに囲われるように守られるカルミアは、怯えを隠さず、しかし敵から目を離すことはなかった。
敵の包囲網は徐々に狭められていく。だが、敵も姫を守る三戦士の個々の戦闘力を目の当たりにし、勢いに任せて攻撃を仕掛けることを躊躇しているのは間違いなかった。
無理もない。
純粋な戦闘能力を考えるならば、シェラガ、コーウト、ケザンのそれぞれが、彼らを包囲する敵全員を相手にしても互角以上に戦えるはずなのが容易に見てとれるからだ。
だが、彼等には枷があった。戦力外にして非戦闘員、決して傷をつけさせるわけにはいかない存在を守りながら戦わねばならなかったからだ。
二人が同時に打って出たとしても、カルミアを守りながら残り一人がそれ以外を相手にするのは困難だった。残り一人の戦士が倒されることはなくとも、殺到するカルミアへの攻撃を全て防ぎきれるとは到底思えなかった。そうなれば、カルミアは何らかの攻撃を受けてしまうだろう。敵を殲滅することが出来ても、カルミアが傷つけられては意味がない。ましてや相手は人ではない。予期せぬ攻撃は適切な防御を妨げる。爪の垢程度の傷で致命傷となる攻撃もありうるだろう。ともすれば、死よりも残酷な結果が待ち受けているやもしれぬ。
カルミアを無傷で敵に勝利、あるいは敵を退ける算段が整うまでは、聖剣の勇者と二人の高機動兵士は自ら打って出るわけにはいかなかった。敵の殲滅よりも姫の無傷を優先させる、というのが、戦士たちにしてみるとひどく難易度の上がるミッションとなっていた。
敵。
それは、人ではなかった。
シェラガが相対した今までの敵は、あくまで人であった。種族としての差はあれ。少なくともここで人というのは、意思の疎通が可能な存在の事だ。
だが、今彼らの周りを取り囲んでいる者たちは、姿こそ人型に近い存在には違いなかったが、人ではない。少なくとも彼らと意思の疎通を図るのは非常に困難に思えた。
面長な顔には、爬虫類を想像させる、縦に割れた瞳孔を持つ瞳が二つ。中には三つの者もいる。咀嚼するには向かぬ、食いちぎるだけの機能しか持たぬその口には、ナイフのような鋭い歯が無数に並ぶ。根本部が薄茶色に染まる、手入れのまるでされていないそれは、見るからに下品極まりなく、見る者を不安にさせる。
皮膚は朽葉色のウロコに覆われているが、そのきめは細かく、魚のそれとは明らかに異なる。また、腹の部分のヌメっとした光沢も、実は湿り気から来ているものではない。全体的に生暖かい印象を受けるが、体温はそれほどでもないようで、若干人間に比べて呼吸が遅いように感じられた。
それそのものが十分な殺傷能力を持つ武器になりそうな、鋭い爪の生えた四本の指を持つ手には、偃月刀と丸い盾が握られ、それが獲物を狙ってゆらゆらと動いている。
直立二足歩行するその体躯は、シルエットは人間のものと違わないほどに背筋が伸びる。だが、腰からは身長の倍近い長さのしなやかな尾が伸びる。
言い伝えでは聞いたことがあった。しかし、まさか実在するとは。
蜥蜴男。
リザートマンとも呼称される怪物は、爬虫類然としている外見に反して、知能は高いと言われる。
ヒットアンドアウェイ殺法を全員が身につけており、近距離では剣と盾で、中距離では槍で、長距離では弓矢での戦闘を得意とする。寄せては返す波のように、一撃を発した者はその攻撃が当たろうとも当たらずとも、攻撃対象より離脱する。決して欲張って二擊三擊を狙おうとはしない。敵に目標を定めさせない、この波状攻撃こそがリザードマンたちを厄介な敵たらしめている。
だが、三人のボディガードたちも、そう簡単に蜥蜴男達に攻撃はさせない。
ヒットアンドアウェイ殺法の発動の瞬間、集団より一歩コーウトに近づいたリザードマンの一人は、初撃を放つことなく首と胴体を永遠に分かつことになった。自由を勝ち取った頭部はそのまま瓦礫の元まで転がっていったが、そこからは動くことができず、ほんの数秒口をパクつかせていたが、そのまま動かなくなった。
ケザンは、近づく別のリザードマンの眉間に、第四の目と見まごうような穴を穿った。新しい目を与えられたはずの蜥蜴男が、最後に見たのは、曇り空のような灰色の空なのか。
そして、一番戦闘能力の高いであろう聖剣の勇者は、リザードマンの初撃の時点で、剣で剣を絡めて奪い取り、盾を叩き割ることで、その個体を傷つけることなく意気だけを消沈させた。ボディガード達に攻撃を仕掛けようとして、唯一生き残ったリザードマンは、怯えたように群れの奥へと紛れていった。
三者が三者とも、近くに寄れば敵を排除出来るだけの強さがあるために、無数に取り囲むリザードマンたちも、容易に近づくことはできず、結果ドーナツ状の戦闘フィールドが、人間達にとっても蜥蜴男達にとっても酷く長い時間構成されていた。
だが、この均衡も徐々に崩れつつある。
徐々にリザードマンの数が増えつつあるのだ。
血の匂いを嗅ぎつけたのか、はたまた人の耳には聞こえない、援軍を呼ぶ何らかの合図で呼び寄せられたのか。
増えてくるリザードマンの数が一定以上になった時、恐らく同時の攻勢が始まる。ヒットアンドアウェイ攻撃が、三戦士の防御を手数で上回った時、雌雄は決するはずだった。
だが、均衡の崩壊は、全く予期せぬところから起こった。第二宿営地設置のために残ったグループ以外の先発隊が戻ってきたのだ。
彼らは、斥候として数人ずつのグループを複数作り、各方面に哨戒に出ていたが、宿営地の造営グループの異常を感じとり、各々哨戒任務を中断し、この地に戻ってきた。
最初のグループの到着から、それほど遅れることなく次々と斥候部隊が到着すると、リザードマンたちは明らかに浮き足だった。先程まで包囲していたはずが、逆に挟み撃ちの危機に陥ったからだ。
二十体近いリザードマンの総数を上回る数の高機動兵士たちが、ドーナツ状に包囲網を作るリザードマンたちをさらに包囲する。
そして、その好機をコーウトとケザンの両戦士が逃すはずもなかった。
「シェラガ殿! 殲滅のチャンスです。リザードマンごときに情けは無用です!」
ケザンの鋭い言葉に一瞬躊躇うも、シェラガは聖剣の第三段階を発動し、誰よりも速い動きと誰よりも重い攻撃とで、リザードマンを蹂躙した。ほぼ同時に、包囲する高機動兵士たちもリザードマンを仕留めていく。
聖剣の勇者と指輪の戦士たちは、リザードマンたちを全滅させるのに、数分もかからなかった。それは、睨み合っている時間に反比例しての、一瞬の決着だった。
リザードマンたちは、戻ってきた戦士たちの食料として生まれ変わった。
兵士たちとは違い、戦士たちは皆、料理人だ。
任務中、自分の食料は自分で調理する。
戦士たちは皆独自の味付けを持っている。それ故、戦士たちが任務を共にした場合、互いの味付けの料理を少しずつ分けてもらう楽しみもある。他者に作らせた料理をメインに据えないのは、他者の料理が自分に合わなかった場合、それだけで命の危険を伴うからだ。敵に囲まれた時に、腹痛と便意に襲われては元も子もない。兵士とは違い、戦士たちは自らの体を自らで律する、ある意味アスリート的な精神を持ち合わせていなければならない。裏を返せば、同じ鍋で食事を作るということは、即ち戦士同士、気心が知れた仲である証明だと言って良かった。
蹂躙したリザードマンたちを材料に、持っていた食料を合わせて、巨大な鍋に入れ、蜥蜴汁を作る。
本来ならば、瑞々しい野菜を使いたいところだが、鍋に投入されたのは、各人持ち合わせのドライベジタブルだった。戦士たちも兵士たちも、野菜は乾燥させたドライベジタブルを携帯食として持ち歩いている。濃縮されたドライベジタブルは栄養価も高いが、やはりそれだけで食べるのは味気ない。鍋ができるということは、周囲の安全が確保されたということであり、ゆっくり水で戻した野菜を鍋に入れることのできる食事の時間は、任務中の戦士たちの一時の癒しの場が確保された、ひどくリラックスできる状態だと言えた。
余った肉は血抜きを行い、リザードマンの体から取れた脂を燃料にし、剥いだ皮を燃やし、そこに持ち歩く木材のチップを燻らせ、保存食にした。
リザードマンは、口から毒液を吐くことが出来るというが、調理の際には、喉の奥にある毒液の入った袋は除去する。但し、それもそのまま破棄することはせず、罠などのトラップ用の毒として所持した。これから現れる未知の生物と相対するためには、かなり有用な武器となる。そして、この毒も加熱すれば成分変化し、良い薬となる。鍋で蒸発させ、鍋の底に大小タブレット状に残るそれは、『蜥蜴丸』として、薬師に高値で売買されるものとなる。
手の余った者は、リザードマンに殺された者たちを埋葬した。また、倒されたリザードマンたちも、唯一使いどころのない、硬くなってしまい加工も難しい大きなウロコの部分と骨だけは、一箇所に集められ、埋葬される。骨は、どちらかというと鳥類に近く、非常に空洞が目立ち、加工に適さなかったのだ。
この地で宿営を行い、亡き同志を弔うということは、一度は敵の襲撃により失敗した第二宿営地の造成場所として、この地を再度使うことを暗に意味していた。
先ほどまで自分達を殺そうとしていた異形の敵たちをあっという間にバラしていく光景は、カルミアの目にはひどく滑稽なものに映った。
確かに、自分たちの命は彼らを排除することにより救われた。
しかし、それは自分たちの生を確保できたということであり、敵だったとはいえ、同じ生物の同じ死に対して、どうしてこれほどに向き合い方が違うのだろう、という違和感が首を擡げる。
殺された者を悲しみ埋葬し、殺した者を殺し、喰らう。しかし、その一方で殺した者を埋葬するのではなく、悉く『辱める』。自分達を殺そうとしたものたちも、同じ生ける者だったことに違いはない。なぜ埋葬してやらないのか。
リザードマンの亡骸を、原型を留めない程にバラバラにし、食べられる所は食べ、利用できるところは利用する。それはおよそ、卑しい土人の所業であり、文化を持った人間の行為であるようには、とても思えなかった。
戦士たちが行っている作業を、彼女は『辱めている』と感じたのだ。
「リザードマンだからだよ。同じ人間ならば、余力があれば埋葬するさ」
自身も感じるほんの微かな違和感を払拭するように、シェラガは勤めて明るく振る舞う。
シェラガも、現状の戦士たち、兵士達の切り替えの速さに順応しきれているわけではない。カルミアほどではないにせよ、彼も戦場慣れしているわけではないのだ。頭では理解しているつもりでも、心が受け入れないのは無理もない。
だが、そこでカルミアと同じレベルで違和感を訴え続けるのならばそれは隊にとって害悪な人間でしかなくなってしまう。カルミアは分からないが故に批判する。だが、シェラガは知っている。だからこそ、軽率に批判はできない。仮に心のどこかで受け入れることができなくとも。だから、彼はカルミアに伝える。
彼らは、戦場で倒した相手が人間であったならば、敵にも敬意を表し、埋葬するが、今回の戦闘はいわば狩りと同じだった。シチュエーションからすれば、狩猟相手が数なして襲ってきたが、それを返り討ちにした。ただそれだけに過ぎない。
ただ、それでも敵の生物としての尊厳を認めることだけは忘れない。狩った相手は全てを有効利用することが、狩った相手への手向けとなる。感謝とともに。
なんの間違いもない話だった。
少なくとも従軍戦士たちの間では。
だが、一般の人間であるカルミアだけは、どうしてもそれを受け入れられずにいた。なぜ、感謝しながら殺すのか。感謝するのならば殺さずに共存すればよいのではないか。
彼女は、結局椀に盛りつけられた、辛味の少し強い蜥蜴鍋には食指を延ばさなかった。
「なぜ召し上がらないのですか? 少しはお口にお運びください。これからも長い調査があります。体力をつけるためにも是非」
戦士と学者の集団から少し離れた所の岩に腰を下ろすカルミアは、ケザンの持ってきた蜥蜴鍋の盛り付けられた椀を手で払いのけた。
木の椀は音を立てて足元に落ちる。
「いらないと言っているじゃないの!」
戦士たちは一瞬手を止め、カルミアとケザンの方に視線を向ける。だが、何事か話した後、また自分たちに準備された食事を黙々と食べ始めた。
不穏な空気が流れる。
この状況はうまくない。そう察したケザンは注意をしようと思ったようだ。
だが、その前にカルミアの頬が鳴った。
シェラガはぎょっとする。自分が注意するために動き出す前に、カルミアの頬を張った者がいる。
カルミアは驚きの表情を浮かべたまま動けない。
恐らく他者から頬を張られたことなどあるはずもない。自分が何故他人から頬を張られなければならないのか、彼女は理解をしなければならなかった。
なんと、カルミアを律したのはコーウトだった。
一瞬の沈黙の後、周囲が騒然となる。
無理もない。
粗相をしたのはカルミアだ。だが、律した相手がよくない。コーウトはカルミアを保護する立場ではあるが、教育する立場にない。ましてや下の者が上の者を律することはあってはならない、重大な反逆行為と捉えられてしまう。そして、その手段も問題となってしまうはずだった。
だが、その一方で、不穏な空気を作るカルミアの我儘を抑え、兵士や戦士たちの溜飲を下げるのにはある程度の効果はあった。
わあ、やっちまったよ。でも、よくやってくれた。そんなため息混じりのザワめきがそこかしこで起こる。
コーウトは、騒然とする周囲を一度俾睨し、一気にカルミアを悪としようとする雰囲気を抑制すると、もう一度視線をゆっくりとカルミアに戻す。
「姫。先程はご無礼を致しました。処分は、この地から無事にお戻りになった後に、何なりとお発しください。ですが、その前に一度だけこのコーウトの思いをお耳に入れとうございます」
カルミアは、まだ自分が頬を張られた事実を受け入れられないのか、驚きの表情を隠さぬままコーウトを見つめ続けた。
「リザードマンたちは、確かに仲間を死に追いやりました。しかし、それは快楽や道楽のためになされたものではない。彼らも生きるためには獲物を捉えなければならない。その獲物がたまたま我々の仲間でした。
我々は、仲間が殺された事に怒り、リザードマンと対峙をしました。それは、殲滅することで我々の命も保護されることになるからです。
しかし、それで終わってはいけない。屍をそのままにしてはいけないのです。
なぜなら、それをしてしまうと、彼らの生きてきた痕跡を否定することになる。殺戮や復讐はそれで終わるから不毛になります。しかし、我々の生を繋げるための相手の死ならば、それは決して息絶えた者も無駄死ではない。きちっと別の形でほかの生命に根付くことになる」
「……そ、そんなこと……」
「姫。あなたが日々口にされている食事。元は何だがご存知ですか?」
突然の質問に、カルミアは一瞬固まり、その後首を弱々しく横に振る。
「今、ご覧になった通りですよ。蜥蜴ではなく、殆どの場合が牛や馬、豚の時もありますが。農場でご覧になったことがあるでしょう。牛や豚が飼われているのを。彼らはなぜ牛や豚を飼うのか。人間が食べるためなのですよ」
「……」
カルミアは、一瞬目を見開いたが、無言だった。
一瞬考えたのは、牛も豚も可愛いから飼っている、のだということ。
父に同行し、農場を訪れたことがある。今考えると、それはその農場を他の貴族の借金の形に取り上げるためであったろうと想像はつく。だが、当時の彼女はといえば、自分よりも大きな動物を目の当たりにして興奮しているだけだった。
自分の背丈の倍以上ある牛。すらりとした馬。土にまみれた豚。だが、それらは皆可愛らしく見えた。残念だったのは、それらの動物が、彼女が抱きしめるには大きすぎる事と、汚れすぎている事だった。その時は、汚してもよい恰好で来なかったことを非常に後悔したものだった。だが、それは同時に、家畜と呼ばれている動物たちを愛でる対象であるとしか見ていなかった彼女の視野の狭さを物語っている。動物たちと戯れた後、屋敷で出た肉料理が、実は馬や豚などの、先程まで愛玩していた動物たちのなれの果ての姿だという事に、どうして思い至らなかったのか。
正直な所、思い至ろうが思い至るまいがあまり関係はない。彼女がその事実を知っているか否かだけの話だ。現実は何も変わらない。だが、それが彼女にとってすべてだった。
カルミアはガタガタと震え始めた。視野が滲んでいく。やがて立っていることが出来なくなってしゃがみこんでしまった。
違和感を覚えた兵士たちが、徐々にカルミアの傍に集まってくる。だが、一定の距離以上は近づこうとしなかった。それは、コーウトが退けたわけではない、兵士達の自然な反応だった。
貴族たちは何も知らない。
自分たちがどのような苦労をして、どのような対価を払って、兵士たちの生活が成り立っているのか。貴族が、上級国民と言われる人間たちの生活が、平民たちとどのように異なっているのか。
生まれてきた人間は、自動的に貴族は貴族であり、平民は平民だ。例外はあるが、それは変える事はできない。だが、それが果たして納得のいくものなのかどうか。彼らが同意しているものなのかどうか。
シェラガは、周囲を取り囲む兵士たちの雰囲気にザラついたものを感じ始めた。
コーウトはカルミアに現実を教えることを意図して話している。だが、周囲にいる兵士たちは、その言葉に刺激され、自分たちが今まで重ねてきた苦労や、心労、貴族による自分たちへの理不尽な扱いなど、鬱積した不満が形を成して鎌首を擡げ始めようとしている。彼ら兵士たちは、発言者の意図と異なり、家畜=平民出の兵士たち、と勝手にすり替えて話を聞いていた。
「だが!」
鎌首を擡げた兵士達の悪意を恫喝するように、コーウトは鋭く言った。
「それだけの事なのです。貴女はそれさえ知っていればいい。我々の生活は、他の生物の命を糧に生きているという事。それを知っていればよいと私は思っています。是非、召し上がってください。リザートマンたちの生きた証を。そして、彼等から我々を守ろうとして死んでいった仲間の生きた証を。そして、それを召し上がって、残された仲間の家族の事に思いを馳せてください」
そういうと、コーウトはカルミアの掃った椀をもう一度拾い、鍋から蜥蜴鍋をよそい直した。
カルミアは恐る恐る椀に手を伸ばし、それを受け取った。
見た目は白身魚が野菜と共に煮込まれた、味噌風味のうまそうな鍋。暖かい湯気がカルミアの鼻腔を擽る。口に入れた瞬間に、嗅覚だけが提供していた旨味の予測を裏切らない形で口いっぱいに広がる。
熱い!
思わず口に含もうとした白身を椀内に落とす。だが、今度はもう一度それを木製のスプーンで押し切り、一口サイズにして口へ運ぶ。カルミアも、暖かい物はあまり食べたことがないらしかった。時代が時代であれば朝餉、昼餉、夕餉に全て毒見が必要な立場。屋敷で準備された食事は、いつもぬるかった。それは、全て物が準備されてから食卓に着くからだ。だが、作り立てを食べるという事は、カルミアは経験がなかった。
「あ、あたたかい……」
カルミアはシェラガに助言されたように、口に入れる前にゆっくりと吐き出した呼気で冷まし、自分の口に合う温かさにしてから口に入れた。
彼女の喉を通る、温かい具は、実際の温度以上に彼女の体と心と温めた。
カルミアは、事あるごとに、あたたかい、おいしい、と呟き、結局椀二杯をぺろりと平らげた。
満腹になり、今日の移動の疲れが出た彼女は、早々に横になりたかったが、横になる人間が誰もいない事に驚いた。食事を終えた者たちは皆椀を持ち、どこかに出かけていく。
「……ご一緒しますか?」
カルミアは、コーウトの申し出に頷いた。そうやってコーウトが声を掛けてくれることが彼女にとって嬉しい事らしかった。
兵士たちは皆、瓦礫の向こう側の坂道を降りていく。すると、その先に川が流れていた。瓦礫の間を縫って流れる流れは、お世辞にも綺麗とは言えなかったが、魚影が幾つも見て取れた。周囲の様子はといえば、森は愚か草一本生えていない瓦礫に覆い尽くされ、全体が灰色で塗られたような風景ではあったが、その水は少なくとも魚が生きていける程度には綺麗で、何かに汚染されているような様子はなかった。
先に川に降りた兵士たちは、そこで椀と木製のスプーンを洗っていた。木製のスプーンは、先端にフォークの指のような突起が何本か施されており、その間を綺麗に洗っている。
そういえば、カルミア自身のスプーンにもそのような突起がついていた。これはフォークとしても使うことが出来る物なのか。カルミアは何となく用途を察したようだった。確かに、只のスプーンではあそこまでうまく白身をつつくことはできなかったろう。
目から鱗が落ちたようだった。今までは当たり前だと思っていた事にはすべて理由があった。そして、それを人々は理解し、うまく使いこなしていた。
自分は何も知らなかった。貴族の生まれで、衣食住の全てが準備されていた。
着る物は、要望を言えばそれがそのまま服となって出てきた。少しでも気に入らなければ、侍女に投げつければ、同じような服だが、微妙に異なるものを何とか見繕って恭しく彼女の元に持ってきた。
お腹が空けば食べ物は出てきた。その場ですぐ食べられるように調理された状態で。皆そろわなければ食べられなかったため、ほんの少しではあったが待つ必要はあった。その結果、少し冷めてしまうのが玉に瑕ではあったが。嫌いならば食べなければいい。味が口に合わなければ、少しすればコックが話を聞きに来て、ほんの少し手を加えて自分の味覚に合うように調整してくれる。
屋敷は元々父が準備したものではあったが、大抵祖父の所にいた。
眠くなったら寝た。外に出たければ外に出た。
まだ外交的な要素がない権力者の血族たちは、ストレスに晒されることなく、誰もが快楽を享受していた。
たまに庭からの景色が悪いと、文句を言えばよかった。庭は、祖父も父もいじる事を是としなかったのは、彼らの唯一のストレス発散の場所がそこだったからなのだろうが、それでもカルミアの頼みであれば、余り表情に出すことなく庭に植える花を準備した。庭の外観を変えることもしてくれた。
自動的に準備された安全な時間と空間が、彼女に提供されているのが当たり前だった。そして、快適ではあったが、何かする必要がなく、何もすることもできなかった。そして、それに気づくことすらなかった。
だが、今回の従軍に際して、そんな問題など一瞬で消し飛んでしまった。
自分は何もできない。まだ。自分の力で何かを変えているのではなく、自分の姫という地位が、一見して彼女に万能の力を与えているように錯覚させているだけだった。
突き付けられた現実。だが、こちらにいることで、少なくとも自分が何かをすれば、出来ることがほんの少しだけ存在した。それが彼女にとって嬉しかった。
カルミアも川に近づき、兵士たちと同じように椀とスプーンを洗った。
シェラガはケザンを呼んだ。
椀を川に洗いに行こうとしたケザンは、直ぐにシェラガの元に駆けつけてくる。行動のどこかに、他の兵士に気取られないように動いている節があるのは、やはり高機動兵士としても隠密の仕事が多いせいだろうか。
「何か」
「気づいたろう? あの雰囲気」
「……はい。一瞬でしたが」
「あの場はうまく彼女が宥めてくれた。だが、恐らくあのやり取りで燻り始めた人間はいる筈だ。俺もそのローテーションには入る。三人で交代しながら不寝番をしたほうがよさそうだな」
「……そうかもしれませんね。この探索隊は、いわば寄せ集め。中にはカルミア様を良く思っていない者もいるでしょう。
実は、ここにいる人間は殆どカルミア様の顔を知りません。それ故、カルミア様の参加もトリカ様はお認めになった。ですが、状況が変わってきました。
全員が激しい憎悪を持っているわけではありませんが、やはり貴族がこの探索隊に交じっているというのは面白くない人間からすれば面白くないでしょう。先程の食事の件も、カルミア様に対する兵士たちの心証はよくありません。本気ではないにせよ、何かしらちょっかいをかけてやろうと思いだす輩も出る事でしょう」
「その可能性は非常に高い。ましてや女だ」
シェラガのその言葉に、ケザンはカチンと来たようだった。シェラガは片付けをし始めている兵士たちを視界に入れながら話しているので、ケザンの顔色の変化には気づいていなかったが。
「そのローテーションには私も加えて貰えますかな」
完全に虚をつかれたシェラガとケザン。彼らの後ろには、いつの間にか一人の壮年の紳士が立っていた。
「あなたはテマさ……!」
思わず紳士の名を呼ぼうとしたシェラガだったが、一瞬発せられた紳士の覇気に当てられ、言い淀んだ。だが、壮年の紳士はケザンに名乗った。
「私はテマ。このシェラガ教授とは旧知の仲なのです。私もトリカ卿に招聘された学者の一人です」
本当はもう少し先まで書いたのですが、内容的にずれてしまうので、切り分けて、先にこちらを投稿しました。
順調にキャラクターが動いております。
ゴールへの筋道もつながった気がしております。
頑張るぞ。




