シェラガ対ガガロ
聖剣の勇者同士が全力で戦闘に突入します。
シェラガの聖剣の演舞は、日をまたいで行われる調印式の最後を飾る次第だが、それは今回の式において、急遽リーザによって発案されたものだった。
当然、ズエブの時の調印式にはないイベントだった。
それは、ズエブという海賊がSMGと同盟を結ぶに当たって、申し分のない実績を世に残してきたからだ。
彼は、海賊としていくつもの伝説を打ち立ててきた。
難攻不落のノヨコ=サイ要塞を数名の協力で攻略。横断不可能といわれた海域の無寄港横断の成功。ガイガロス人の存在を証明する遺跡の発見。
数を上げれば限りがない。海賊というくくりにはなる無法者には違いないのだが、それを補ってなお余りある冒険者としての実績があったのだ。
最強の単身海賊。
その異名をとる彼が、SMGの準特派員として契約を結ぶことに、SMGの幹部誰もが異論を挟むことはなかった。
だが、今回のシェラガの契約に関しては、誰しもが納得する口実がない。あるとすれば彼が『聖剣の勇者』であるという肩書きだが、その肩書きも、本人ではなく聖剣の力によって付与されるものだということになれば、聖剣を扱える多彩な敏腕戦士の特派員としての契約、というよりはむしろ、『聖剣』という名の兵器の所有権こそが問題になってくる。
その剣一本で国が傾くほどの力があるとするならば、それこそ聖剣争奪戦が始まるだろう。実際、クマレーはリーザの、というよりはヒータックの命令で何度もシェラガの聖剣の奪取を試みている。
聖剣は、シェラガにしか使うことができない。それゆえ『シェラガ』という個人と準特派員契約を結ぶことが重要であるということをリーザは証明しなければならないわけだ。
無論、その先には狙いがある。
聖剣という強力なアイデンティティをSMGの協力勢力として取りこむことができたのは、己の実孫ヒータックの功績であるという事実。それを、SMG内全員の要職者に確認させ、彼のSMG内での地位を高めていくことだ。彼女がヒータックを推すのは、彼がリーザの孫だからではない。才気煥発な若い力をうまく組織に活用したかった。自分の目の黒い間に力をつけさせ、SMGの行く末を任せる。それこそが真の彼女の目的だった。
演舞会場は、ルイテウの最上部、飛天龍の格納庫上の広場に設定された。広場といっても整地されたものではなく、本来のルイテウの外観と同じくごつごつした岩場が広がっており、岩の陰からは高山植物がその長い茎を大地に幾重にも這わせている。ともすれば賽の河原を髣髴とさせる周囲の光景を目の当たりにして、今更ながらSMGの幹部をはじめとする数人の立会人は、只々吹きすさぶ冷たく鋭い風に身を凍えさせるのだった。
演舞の次第は、まず聖剣を一般の人間に扱わせ、その後シェラガに扱わせる。聖剣を使ったときのシェラガの力を印象付けるにはその手法が一番わかりやすかった。そのため、あえて反リーザ派の筆頭戦士を聖剣演舞に指名した。
その男は隻眼で、屈強な男の代名詞のような風貌をしていた。角刈りで筋骨隆々とし、体中に大小さまざまな傷を持っている。シェラガの聖剣はその男に持たせると小刀のようにも見える。その明らか過ぎるギャップが聖剣の特異さを語らんとすることに周囲の人間は、定番の物語を今からもったいぶって見せられるような、一種の飽満感を感じざるを得なかった。
だが、それも隻眼の男の表情が大きくゆがむまでだった。
男も、リーザから求められていたリアクションはわかっていた。だが、自分はリーザに協力する者と組むつもりもない。リーザの求めるリアクションと正反対の結果を出してやるつもりで、最初から全力で聖剣に相対した。
最初は、聖剣を鞘から抜かずに男に渡す。
男は最初、薄笑いを浮かべながら、左手に鞘を、右手に柄を添えたが、軽く引き抜こうにも抜くことができない。徐々に男の表情から余裕が消え、額に血管が波打ち始める。それでも聖剣はびくともせず、男は鞘から抜けぬ聖剣を岩に叩きつけた。
その後、シェラガによって抜かれた剣は、大男の手に渡ったが、物の数秒手にしていると男の顔は徐々に蒼白になり、口元から一筋の鮮血が流れ出ると同時に、男は突っ伏すように崩れ落ちた。
一瞬のざわめきが周囲を包む。
隻眼の男はリーザに買収されたのではないか? そんな噂が後のSMGに流れた。
だが、買収されたとされる男にとって、今回の聖剣のイベントは何のメリットもない。リーザに協力することで地位が保証されているわけでもなければ、むしろ聖剣のせいで幹部数名の前で醜態を晒し、SMGの中での戦士としての格を著しく落とす結果となった。
だが、隻眼の男はその噂にSMGを去ることはせず。SMG内の達成不可能であろうといわれた事案を次々と片付けていった。その中で、シェラガと組むことも数回あったとされるが、最初のうちはシェラガに真っ向から挑んでいく場面もあった。だが、シェラガの気に当てられたのか、隻眼の男の眉間に蓄えられていた皺はいつしかなくなっていたという。
男の手から聖剣を抜き取ったシェラガは、力なく倒れている男が担架で運ばれていくのを見ていた。その後、リーザに目配せをしたが、特段変更はないようなので、そのまま演舞に移ることにした。演舞といっても、剣の型をゆっくり行い、それを徐々に早めていき、途中聖剣を発動させ、人間の目では追いつかない位の速度まで高めて行き、見るものの度肝を抜くというやり方で、以前レベセスが聖剣の力をシェラガに身を以て納得させた方法と同じだ。
リーザとの話し合いで、そうするのが一番よいだろう、とシェラガは告げたが、それはレベセスの演舞を見て酷く納得したという自身の経験に他ならない。
だが、ここで事態は大きく変わる。
先ほどまでSMGの重鎮やシェラガを見守るリーザやズエブ、フアルと共に隻眼の男とのやり取りを見ていたガガロが、ゆっくりと歩みを進めたのだ。
一瞬の沈黙が周囲を包む。
当のシェラガですら、ガガロの意図が読み取れず、怪訝そうな表情を浮かべたまま身動きができなかった。
「シェラガ、俺と手合わせを願いたい」
そういうと、ガガロはゆっくりとその鮮やかな蒼い頭を垂れた。そして、彼はその頭を上げることはなかった。
「……なんで、今なんだ?」
シェラガは、ガガロの心情を読むことができなかった。
まだ発動できないとはいえ、ガガロも聖剣の勇者に違いはない。
今は亡きガイガロスの王ガイロンも、ガガロと同じく聖剣を抜くことができる存在だった。たまたま、聖剣を扱う鍛錬をしていないだけで、資質はシェラガと同じはず。むしろ、戦闘に長けているガイガロス人のほうが純粋な戦闘能力としては高いはずだ。
ガガロとは、交わす言葉数こそ少ないが、腹を割って話すし、仲間だという意識もある。もちろん、彼の心の拠り所を、成り行き上とはいえ倒すことになってしまったことは間違いないし、その件に対しての決闘などの申し出は、前述の感情とは別に受けるつもりでいた。とはいっても、幾ら戦闘民族ガイガロスといえ、聖剣を第三段階まで発動させたシェラガに対抗することはできないであろう事は、対ガイロン戦を見ても火を見るより明らかだが。
だからこそ、鍛錬を積み、聖剣を使えるようになってから挑んでくるものだとシェラガは踏んでいたのだ。
シェラガはもう一度問いかける。
「なぜ今なんだ? 今じゃなきゃだめなのか?」
だが、ガガロは頭を垂れたままぴくりとも動かなかった。
じっとガガロを見つめていたシェラガだったが、根負けしたのだろうか。ため息と同時に呟いた。
「わかったよ。けれど、約束してくれ。この戦いの決着は生死を以ってつけるものではないと。負けた者は更に鍛錬し、強者に挑めるチャンスがある。俺は戦士の流儀なんざ知らないし興味もない。ただ、努力した者が挑戦できる機会は常にあるべきだと思っている。おそらく、今は残念ながら俺のほうがはるかに強いだろう。けれど、それが全てじゃない」
「わかっている。シェラガよ。ありがとう」
ガガロはゆっくりと頭を上げた。
ガガロの瞳が赤く染め上げられている。ガイガロスの力を抑えるつもりはないらしい。現在では、ガガロもガイガロスであることを隠す術は身に付けていた。だが、それは瞳の色を消すと同時に、ガイガロスの力を完全に押さえ込んでしまうものだった。
ガガロの瞳に気づく者は殆どいない。只聖剣の勇者に挑み、名を上げようとする人間にしか見えなかった。
ズエブとリーザは、ガガロの変化に気づいた数少ない側の人間だった。だがリーザも今更この戦闘を止められない。これは演舞であり、闘争ではないのだ。止める道理がない。
だが、その演舞で別のガイガロス人が出てきてしまっては、シェラガの存在の重みを増すための材料としてのフアルの特徴が霞んでしまう。聖剣の勇者としてのシェラガと、ガイガロス人のフアルをセットで周囲にアピールしようとしていたリーザからすれば、このガガロの行動は限りなく都合の悪いことだった。
理想とすれば、ガガロよりフアルの方がはるかに強いガイガロス人であるという証明があれば好ましいが、今この場でガガロとフアルの戦闘を仕向けるのは、それこそ台本を見せることになりかねない。
リーザは一種あきらめの体で聖剣の勇者とガイガロス人の戦士との戦闘を見守るしかなかった。
ガガロは傍観者たちから距離をとるべく歩いた。それにシェラガもついていく。
風というにはいささか厳しすぎる大気の奔流が岩に叩きつけられ、悲鳴と共に周囲に爆風を撒き散らす。だが、砂埃は一切たたない。砂埃になるような小さな埃は、既に何百年もの間中空で吹き荒ぶ巨大な岩石から吹き飛ばされてしまっていた。
傍観者たちは何かをわめいていたが、彼らの耳には届かない。二人の剣士は剣術の勝負としては異例とも取れる間合いを取って向かい合った。
だが、ズエブやリーザはそれがガイガロス人の間合いとしては遠すぎることはなく、また聖剣の勇者の間合いとしても一歩で踏み込める間合いであることを知っていた。騒ぎ立てる傍観者の中、フアルを含めた三人だけは沈黙を以って二人の戦士の戦いを見守ろうとしていた。
ガガロはゆっくりと抜刀し、切っ先を水平に構えると、腕を体に巻きつけるように捻り、左から右への払いの構えを取った。
縦の斬撃に比べ、横の斬撃は非常にかわしづらく、一撃で決することも多い。だが、その反面半身になるので、初撃は向かって右側から繰り出されることになり左側ががら空きになるため、それを見破られてそちらのほうに回避されながら攻撃をされると、攻撃側の死角に入ってしまうため反応が遅れ、先手を食らうことになりかねない。それでもガガロがその構えを取ったのは、単純にガイガロスの身体能力がその問題を補って余りあるものであることと、腰の回転と腕の回転を剣に伝えることができる、彼にとって一番威力のある一撃となるためだ。
対するシェラガは、剣を正面に構えている。他に構えを知らぬこともあるが、人間同士の剣の勝負とはならないことは、以前のガイロンとの対決でわかっていた。パワーはガイロンに分があるだろうが、スピードは間違いなくガガロのほうが上だと踏んだシェラガは、後の先を制すべく、ガガロの一撃目と二撃目の間に剣を打ち込もうとしていた。
張り詰める空気の中、その場にいる者たちは剣と剣がぶつかり合う金属音を確かに聞いた。人の話す声が全く届かないはずの暴風の中で。
二人の中では、一瞬の風の沈黙が合図だった。ガガロは半身のまま一気に距離を詰め、渾身の力で腰と腕との回転を剣に伝え、その力が最大のところでシェラガを捕らえられるように斬撃を放った。シェラガは迫り来るガガロをしっかりと見据え、眼下から上がるように伸びてくる斬撃を剣で受け止めた。
だが、戦闘種族であるガイガロス人の戦士の一撃。常人であれば、戦士であれ受け止められるものではない。
一撃目の斬撃を受けている途中で、競り合う事を諦め、急遽その力を逃すことにしたシェラガは、斬撃を受け流すべく後方に跳躍し、空中で体を回転させると、右足が地面につくと同時に、聖剣の第二段階を発動し、ガガロに襲い掛かった。
傍観者の目には、光の玉が飛び上がりガガロに襲い掛かったようにしか見えなかった。
だが、ガガロにとっては、それは屈辱だった。
「……第二段階か……!」
ガガロの瞳が赤く輝く。そして、シェラガの数撃を剣で弾きあった後、鍔迫り合いになった際に叫んだ。
「シェラガ! 全力で来い! お前が第三段階までいけるのは知っている!」
シェラガは眉間に皺を寄せ、額に血管を浮かべた必死の形相ではあったが、口元には笑みが浮かんだ。
「うるせぇ。そう簡単に第三段階までいけないんだよ。あの時はまぐれだ」
シェラガの言うあの時。
それは言うまでもなく、ガイロンと対戦したときのこと。あの時はガイロンを倒すべく我を忘れるほどに感情が高ぶっていた。そこまでシェラガは必死だったのだ。
「第三段階を発動できんようでは、俺は倒せんぞ」
「そうはいってもな、一応これでも全力なんだがな」
その言葉にガガロはいささかむっとした様だった。鍔迫り合いを終えるべく、シェラガを大きく突き飛ばしたガガロは、シェラガに対したまま剣を持たぬ左手の平を傍観者の方に向けた。
「……何をする気だ?」
ガガロの周囲の空間が揺らいだようにシェラガには見えた。そして、その揺らぎは左掌に収束されていく。揺らぐ空間が小さくなればなるほど、その揺らぎは濃くなり、徐々に光を帯びていく。光の玉は小さいスパークを起こしながらガガロの左掌の中でその体を大きく成長させていった。
「……!」
ガガロが何かを呟いた後、掌の光の玉は傍観者たちへと弾かれるように打ち出された。
次の瞬間、シェラガは光の玉の前に立ち塞がり、聖剣で光の玉を弾き飛ばす。シェラガの体を包む光は、もはや光の膜ではなく、青白く力強い炎となっていた。
「何かきっかけがないと第三段階が引き出せないとは、酷く頼りない聖勇者だな」
ガガロは口角を上げた。
「この野郎……!」
シェラガは呻く。
シェラガの力を引き出させるために、あえて仲間たちを生贄にするという選択を躊躇なく行なったガガロ。だが、ガガロには、シェラガがその危機を聖剣の第三段階を確実に引き出して対処するはずだという読みがあったのだろうか。だが、その読みはシェラガの感情を逆撫でする。
傍観者は目の前に突然光り輝くシェラガが現れたが、その直前に何が起こったかは全くわかっておらず、驚きはシェラガの高速移動に対してのみ向けられていた。
その中で、ズエブだけは何が起きたか見極めており、リーザは動きこそ捉えられなかったが、ガガロとシェラガのやり取りと、ガガロの狙いを見破っているようだった。
ガガロは、再度数発の光の玉をシェラガに向けて放つが、シェラガは全てそれを剣で弾き飛ばしつつ、ガガロを急襲する。蒼き戦士もそれに呼応し、背後に跳躍しつつ聖剣の斬撃を回避するが、シェラガのスピードはガガロを上回っていた。ガガロは空中で追いつかれ、聖勇者の上からの斬撃を剣で受け止めたものの、そのままのルイテウの巨岩に落とされることになる。
バランスを崩し、一瞬視線をシェラガからはずすが、体勢を立て直してシェラガを探したガガロは、既に背後に回りこまれていることを悟る。
「ガガロ……。終わりにしてくれないか? 今でなくてもいいだろう。決着は」
同情とも取れるその言葉はガガロの敵愾心を激しく刺激する。口元からは悔恨の犬歯が覗き、怒りで双眸は見開かれた。
ガガロはシェラガの言葉への返事の代わりに振り向きざまに剣を薙いだ。シェラガの頬に一筋の赤い線が浮いた。
シェラガはそれを親指で拭うと、剣を構える。だが、ガガロが立ち上がり戦闘の意思を見せるまではそれ以降の動きを見せなかった。
「まだだ! シェラガよ、俺と戦ってくれ!」
ガガロは叫ぶと、シェラガに斬りかかる。剣速は常人では到底対処できない程に速い。だが、シェラガは流れるようにガガロの斬撃をかわし、いなす。
そして、ついにガガロの刃を左手で掴んで止めた。
誰の目にも、戦闘の優劣は明らかだった。
刃を素手で受け止められるという事実。
剣士にとってこれほどの屈辱はあるまい。ましてや、腕などで斬撃を止められるのではない。剣の腹の部分をつまむように、やさしく受け止められているのだ。つまり、正確には剣はシェラガに届かない状態で受け止められたことになる。威力もさることながら、斬撃の速さでもシェラガには遠く及ばない。その事実をガガロは突きつけられたことになる。
シェラガは、この戦闘を終わらせたかった。
内容こそ演舞となっているが、ガガロの斬撃からは迸る凄まじい気迫が感じられる。ガガロは本気であることに疑いの余地はない。しかし、同時に、聖剣を発動させたシェラガにはガガロの剣は遠く及ばない。これも又抗いようのない事実だった。
現在この力の差の状態で、ガガロの気の済むまで戦闘を行うことは、同時にガガロの無様な姿を晒し続けることに他ならない。
そう判断したシェラガは、短時間でガガロを圧倒することで、今は時期尚早であることをガガロに悟らせ、自ら剣を引くことを期待したのだった。
だが、その行動はガガロの怒りを買うものであることにシェラガは気付いていなかった。
いや、通常であればその時点で、対戦者の戦意は喪失するであろう事を考えると、シェラガの行動は理に適ったものであったかもしれない。
だが、今回だけはそうはならなかった。
「貴様……! 俺を笑うか! 聖剣の資格者でありながら聖剣を使えないこの俺を……!」
剣に添えられていた左手を離し、拳を作ったガガロは、怒りに任せてシェラガを打とうとする。だが、同じ人物から繰り出される斬撃より早い拳はない。ガガロの拳は再度シェラガに受け止められることになる。
ガガロは愕然とした。拳を受け止められたこともそうだが、それ以上に、シェラガの左手はガガロの剣を止め、右手はガガロの拳を止めている状況に。
その事実を、戦闘を第三者として見守り、逐一戦闘の状況を理解しているつもりであったズエブとリーザもすぐに気付くことはできなかった。それほどにそれは自然に行われていたのだった。
シェラガは、ガガロの左の拳を右の掌で受け止めた。おそらく、シェラガは無意識だったに違いない。だが、シェラガはガガロの拳を受けるために、聖剣を鞘に戻したのだ。ガガロが剣の柄から手を離し、拳を作ってシェラガに向かって打ち出したその僅かな時間に。
最初にその違和感に気付いたのは、他でもない、拳を打ち出したガガロ自身だった。それでも、自分が渾身の力を込めて打ち出した拳が止められたことに対して全く疑問は持たなかった。これほどに実力差があるのだ。怒りに任せて放った拳ではあるが、これが当たるはずもないというのも道理というもの。ただ、拳を躱されるのならわかるが、受け止められるとは。
「……シェラガ、いつの間に剣を鞘に戻した?」
言われてシェラガも気付く。
聖剣から手を離し、拳を作ったのは見ていた。そして、ガガロは自分を打とうとしていることに気付いた。だが、右手は剣を持っているため塞がれている。そのまま拳を受けては、ガガロの左手を負傷させてしまうと思ったシェラガは、剣を戻し、掌で止めることにした。だが、それは無意識に行われていることであり、シェラガが意図的に行ったものではなかった。
「まさか、今この瞬間も尚開き続けているというのか? 俺と、……貴様との実力差が」
ガガロはそう呟くと、一度目を伏せた。
目を伏せたガガロを見つめるシェラガには、その時間が何時間にも感じられた。
お願いだから、もう剣を収めてくれ。
心からそう願った。
シェラガは気付いた。ガガロが肩を震わせていることに。
泣いている? だが、シェラガはそれが次の瞬間大きな間違いであることを知ることになる。
組み合った状態で顔を伏せているガガロの様子がおかしいと気付いたのは、それからすぐだった。
ガガロの肩の震えは全身の痙攣へと変化し、ガガロは傷の痛みをこらえるかのように唸り声を発し始めた。
先ほどの剣の打ち合いでどこか怪我をしたのか? シェラガはそう思ったが、その直後、急激にガガロの左の拳が握りづらくなっていることに気付く。
決してガガロの拳は軽くはない。だが、それでも聖剣の力を引き出しているシェラガからすれば、その拳の力を抑えることも押し返すことも可能なはずだった。ところが、突然その力が増大した。
シェラガは押さえ込むために更に力を加えるが、掌で包むように押さえ込むのではなく、押し返すだけになってきていた。
何気なく押さえ込むガガロの拳を見たシェラガは、思わず目を見張った。ガガロの握り拳が徐々に膨張してきている。
その次の瞬間、ガガロが伏せていた顔を上げた。それを目の当たりにしたシェラガは絶句する。
ガガロの顔が崩れ始めている。
徐々に人の顔ではなくなってきているのだ。
今まさにその瞬間にも、バキバキゴキゴキと骨が砕けるような音がする。ガガロのシャープだった顎の周囲は横に張り出し、口そのものが前面に突き出し始めている。筋の通った高い鼻も、せり出し始めた口に付き従い前に伸び始めた。同時に切れ長の瞳を覆いつくすように眉の部分が盛り上がり始めた。骨ごと変形を開始しているのだとすると、眼窩の上部の骨が巨大化し始めている状態だ。
鮮血のように赤かったガガロの瞳の奥に感じられた先ほどまでの理性は徐々に萎縮し、徐々に増大していく狂気を感じたシェラガは、ガガロの双眸をしっかり見据えた。
ガガロの、ガイガロス人特有の切れ長の瞳孔が、一度ぐいと開き、その後限りなく狭まったとき、ガガロの右目から一筋の涙が零れ落ちた。
だが、次の瞬間にガガロから感情が消えたことがシェラガにはわかった。
人とは思えない咆哮とともに、変形し続ける口蓋を大きく開く。そこにはすべての歯が犬歯のように鋭くなった爬虫類のような口腔に、先端がほんの少し二股になった舌がちらりと覗く。その舌の奥辺りに力の収束を感じたシェラガは、思わず理性を失ったガガロの鮮血の瞳を見た。
「ガ……、ガガロ……」
シェラガは思わず同志の名を呼ぶ。それは、心の壊れていくガガロを呼び戻すための呼びかけであったのかもわからない。理性を失い人の姿も失いつつある友人を見ての同情の言葉であったのかもわからない。ガガロの一筋の涙の意味するものは、シェラガを超えられなかったことへの痛恨か、はたまた人としての体も心も失ってしまう悲哀か、友を失う喪失感か。
ガガロの緋色の瞳が怪しげな光を放ち、口内が帯電したかのように小さな稲光を帯び始めた次の瞬間、シェラガは叫んだ。
「ズエブ! 皆を連れて中へ!」
シェラガの言葉が終わらぬうちに、ガガロからまばゆい光が打ち出される。背後のSMG幹部やリーザ、フアルが退避したことが確認できなかったシェラガは、やむなくガガロだった『それ』から吐き出された光の帯を、頭を伏せることでかわしつつ、ガガロの顎に強烈なアッパーを叩き込み、ガガロを仰け反らせた上で、体のその勢いを殺さず、左足の回し蹴りでガガロを弾き飛ばした。背後で小さな爆発が起き、一瞬砂埃が巻き上がるが、それはルイテウ特有の強風ですぐにかき消されてしまった。
シェラガは背の剣に手を掛けつつ周囲を伺うが人影はない。
うまくみな退避してくれたのか? これからはおそらくドラゴン化したガガロと戦うことになるだろう。そうなると、自分の力を抑えながら戦えるほど甘い戦いにはならない。ここにいられるよりは、中に居てもらったほうが安全だ。
突如上空に圧力を感じたシェラガは、背後に回避の跳躍をする。一瞬の後、巨大なドラゴンがシェラガの居た場所に全身で突進していた。シェラガ自身が着地する前であっても相当な震動と衝撃を感じた。おそらくルイテウ内に居る人間もかなりの衝撃を感じたはずだ。
中の人間は大丈夫か?
そんなことを思いながら、シェラガは背から剣を抜き放つ。
ドラゴンは崩れた岩石を跳ね飛ばしながら立ち上がった。その大きさはガイロンがドラゴン化したほどではないが、かなり大きい。少なくとも、頭の先から尾の先端までは十頭引きの馬車ほどの大きさはあるだろう。建物の三階から見下ろされているような視線に対するシェラガは、未だ躊躇していた。
出会った後の期間こそ短いものの、共に旅をしてきた仲間だ。その仲間が姿を変え、理性をなくし己と戦おうとしている状態を受け入れるのはなかなか困難だ。ましてや、その相手を倒さなければいけないとなると、気は重い。そして、一番の問題は、ドラゴン化したガイガロス人をシェラガ一人で倒せるかどうかだった。
ドラゴン化したガイロンは、レベセスと二人で何とか勝利した。だが、それもガイロンの油断があったからこそ。理性を失って戦闘に特化したガガロに対し、一人で戦って勝てる確証はどこにもない。そして、戦闘の進め方を間違えると、ルイテウそのものを破壊しかねない恐怖感もあった。
そして、シェラガにとって初めての事があった。それは、純粋に自分にのみ向けられた明らかな敵意。それを感じたことだった。
人間に対して、テキイセの人間に対して、という、大多数に対して向けられた敵意の中に、己が含まれたことはままある。しかし、仲間だった人間が明らかに自分だけに敵意を持っていることを認識したとき、それはシェラガにとってとてつもない衝撃として感じられた。
元来、人間が自分に対してのみ明らかな敵意を向けられた場合、反応は二つだ。自分がその敵意に当てられないため、相手を憎む。憎むことで自我を失わず、その敵意に対抗することが可能となる。
そして、もうひとつの反応が、自分を省みることだ。
相手をそこまで怒らせたのには何か原因があるはず。その原因が自分にあるとすれば、自分は何がいけなかったのか。
相手を怒らせたことに対して、その原因を探すことになるが、その作業は酷く陰鬱なものになり、ともすると心を折りかねない。
シェラガは後者だった。
自分は、なぜガガロをこれほどに怒らせたのか。なぜガガロをそこまで追い詰めたのか。
剣を構えながら必死になって考えたが、シェラガに心当たりはない。
ドラゴンは咆哮と共にカッと口を開き、閃光を吐き出す。その都度シェラガは回避するものの、そこからガガロへ攻撃を仕掛けることができない。徐々にルイテウの上部、飛天龍のドッグの扉が爆発によって変形し、周囲の岩石が削れていくのを見ていることしかできなかった。
目の前の状況を打開するには、ガガロを倒すしかない。
だが、シェラガにはその選択はできなかったし、今現在のシェラガの技術ではガガロを倒せるかは非常に怪しい。
自分がやられてしまえば、ガガロを倒せる人間は存在しない。その考えがあるからこそ、ただ単に戦闘を挑むのではなく、打開策をイメージしてから、戦闘を仕掛けるべきだった。
だが、それすらも許されない状況では、シェラガはガガロの攻撃を回避し続けるしかなかった。




