第一章『救えぬ魂』(3)
「ただいま〜」
「お帰りなさい、シンっち〜!」
夫の帰宅を待ち侘びていた布瓜友里依が真に抱きつく。玄関でのいきなりの抱擁に、真が驚いた様子は無い。これが、彼らの日常なのだから。
友里依は茶髪を二つの三つ編みで分けた、まだ二十歳の真の愛妻である。いつも露出度の高い服を着ていて、スタイルはかなり良い。
「会いたかったで〜、もう十日も経つんやなー」
「仕事だってわかってるけど、私、すごく寂しかったんだからぁ」
「ユリリン、離れていてもワイらの心は常に一緒や〜!」
「わかっているわっ、死んでもずーっとシンっちの傍に!」
……一応念を押しておくが、今日は何かの記念日でも、ましてや彼らが元劇団員だったわけでもない。ごく普通の、彼らのいつもの会話である。真の隠れた一面、『激愛妻家』が発動しているだけだ。
「今夕飯の支度してるからね、今日はご馳走よ〜」
「おぉ〜、楽しみやァ〜」
スキップ気味で真はリビングに辿り着いた。十日も夜の警備があったので、帰ってくるのは久しぶりだった。もちろん、その間も毎日(むしろ数時間置きに)友里依には連絡をとっていたのだが。
冷蔵庫から缶ビールを取りだしてきて、食卓に腰掛ける。背後にすぐキッチンがあって、友里依が背中を向けて調理中だ。
「それで、お仕事はどうだったのぉ?」
「あぁ、結局何も起こらんかったんよ。クライアントが日本にいる夜間だけアタッシュケースを護れっちゅー依頼やったんやけど、何が入ってるか得体が知れんし、依頼人がウクライナ人で言葉全然通じへんし。まァ、あの様子やとヤバイ物でも入ってたんやろなァ」
興味無さそうにビールを口にする。例え何であろうと、依頼されれば護る。それが裏警備会社『ロスキーパー』の仕事。非合法なのは、もはや当たり前だ。
「さすがシンっち! 完璧に無事、護りきったのね〜!」
「いやァ、それほどでも……。あいつらに任せんで正解やった」
今回の仕事は一人で充分だった。外国人どころか日本人とでも円滑なコミュニケーションのとれない遼平。遼平の世話をしないといけない純也。中身を見るなと言われれば好奇心を抑えきれない希紗。澪斗なんか、一人にしたら気に入らなければ依頼人を撃ちかねない。どれも一人で仕事させたら不安でしょうがなかっただろう。
真には、仲間内で仕事への適性が無いと判断した場合、一人で依頼をこなしてしまう癖があるのだ。
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴る。友里依は揚げ物をしていた手を止めた。
「誰かしら……また新聞の勧誘?」
「あァ、ワイが見てくるさかい、そこに居たってや」
「ありがとう〜っ、愛してるわ〜!」
「ワイもやで〜!」
どうして一々この二人は愛を語るのか。新婚をとうに越えた二人は、ロスキーパーの面々に『バカップル』と認識されている。
「は〜い、どちらさんですか〜?」
ロックを解除し、明るく扉を押し開ける。玄関先には、新聞勧誘の若者でもなく、ご近所の奥さんでもない、強面の中年男数人がずらっと並んでいた。全員スーツを着ていて表社会の人間らしいが、何故か真を畏怖と驚きの表情で見つめてくる。
「……お前が霧辺真か?」
「そうやけど、あんさんらは?」
先頭にいた髪の薄い中年男が、信じられないという風にじーっと視線を向け、上から下まで観察する。
「な、なんやねん。ワイになんか用なんか?」
真が不審な顔をする前で、中年男は何かメモ書きのような物を取りだした。
(逆立った金髪、浅黒い肌、身長百八十センチ前後、関西弁……間違いない!)
「私は、こういう者だ」
「な……っ!」
言って男が胸ポケットから出したのは警察手帳。警視庁の刑事らしい。
「シンっち〜、誰なの〜?」
部屋の奥から友里依の声が聞こえてくる。真は焦って振り返った。
「な、なんでもあらへん! ちょっと……昔の知り合いや」
「……霧辺真、来てもらおうか」
「それは任意でっか?」
厳しい顔で問う。刑事は、その表情に一瞬怯えたように見えた。周りのやはり警察であろう男達も身を強張らせる。
「…………強制だ。お前に決定権は無い」
「そうでっか」
諦めたような苦笑になって、真は靴を履いた。男達が道を開ける。マンションの下でパトカーが数台停まっているのが確認できた。
「ユリリン、ちょっと出かけてくるさかい、当分帰ってこられそうにあらへんわ。……ごめんな」
「えっ、ちょっと、どうしたの!?」
友里依が急いで玄関に顔を覗かせた時、既に夫の姿は無く、遠ざかっていく数人の足音が聞こえただけだった。