第一章『救えぬ魂』(1)
第一章『救えぬ魂』
夕日が射し込み、遠く電子音の鐘が聞こえる。午後五時を知らせる、中野区の『平和の鐘』。
「――君っ、真君ってば!」
「あ……、どうしたん?」
ぼーっとして焦点の定まっていなかった瞳が、ゆっくり純也を映す。真のデスクに両手をつけたまま、こちらを訝しげに見つめてくる少年。
「どうしたの、はこっちの台詞だよ。呼んでも全然返事してくれないんだから」
「そりゃ悪かったなァ。で、何の用なん?」
純也が脇に挟んでいた茶封筒から数枚の書類を差し出す。渡されても何の事だかわからなくて、真はきょとんとして書類を眺めていた。
「前回の僕と遼が担当した依頼の結果報告書。ほら、竜田さんって依頼人の」
「あ、あァ……。せやった、純也に頼んどいたんやったな。ご苦労さん」
「真君、やっぱ最近調子悪い? なんだか変だよね?」
「ははは、そんな事あらへんって。……よし、もう五時やし、今日は終わりな。お疲れ〜」
「あっ……」
荷物をさっさとまとめ、真はだるそうに手を振って帰ってしまった。純也が物を言う間を与えずに。
「この書類に判子欲しかったんだけど……」
いつもの真らしからぬ言動に、純也は首を捻る。普段だったら書類に二回は目を通して判子を押すのに。……しかもあんな気が抜けたような状況が、ここ一週間ほど続いている。何か具合でも悪いのだろうか?
「ねぇ、なんだか真君……変だよね?」
振り返ってそれぞれの作業に取りかかっている三人に問う。遼平は会計報告書と格闘中、希紗は何やらマスクをしたまま化学実験中、そして澪斗はここ数日で何度目かの割れた窓ガラスをガムテープでくっつけるという作業と奮闘している。窓ガラスは強風が吹く度にガムテープが剥がれて落ちるのだ。
「あ? 今俺に話しかけるな……あー、七×八っていくつだ?」
「遼、五十六だよ……。じゃなくて! 最近真君がおかしいよねって言ってるの!」
「ただの寝不足じゃない? 真、昨日まで夜の警備が続いてたでしょ」
「それはそうだけど……、なんか真君らしくないよ。絶対何かあるって」
「……純也の言うとおりかもしれんな」
窓ガラスに勝利し、ガムテープを貼り終えた澪斗が席に戻る。真のデスクの前に立っている純也を一瞥して、自分の荷物をまとめ始める。
「純也、あれを見ろ」
「澪君……?」
澪斗が顎で示した先……真のイスの脇を見る。そこにあったのは、あまりに見慣れた、真の右腕とも言うべきモノ。
「え……《阿修羅》……」
常に真が手放さない木刀。凶刃《阿修羅》の鞘であり、専ら真はこの鞘のまま相手を叩き斬る。
その阿修羅がここにある。真が忘れて帰ったことなど、今まで無かったのに。
「やっぱり……何か変、だよ」
絶対的な違和感。小さな事かもしれない……しかし身近な人の異変に気づかないほど、純也は鈍感ではない。本気で不安になる。いつも安定した真だからこその、心配。いつも変化無く、全員を見守っている……変わらない事が真であり、それが当たり前だった。なのに。
「ん〜、そう言われてみればそうかも〜」
「気のせいじゃねえか?」
そう言う希紗と遼平も、何か上の空だと思うのは……純也の気にしすぎなのだろうか。
真だけじゃない? この僅かな違和感は、この空気は遼平達からも感じられる? 何なんだ??
ふと、真のデスクの上にあった新聞に気づく。新聞をとっていない純也は初めて今日のニュースを読んだ。いや、ここ最近テレビでもニュースは見ていなかった。
一面に大きく殺人事件が取り上げられている……真はこれを読んでいたのだろうか?
「連続殺人、『斬魔』蘇る……?」
ここ数日、無差別に表社会で殺人事件が起きているらしい。しかも過去にもあった同じ手口での犯行で。その昔、十年前に『斬魔』と呼ばれた犯人の模倣犯ではないかとの推測が書かれている。
「真、君……?」
嫌な予感がした。それは根拠も無いただの感覚。ただ呆然と、何故か満ちていく不安によって、純也は呟いていた。
「それでは俺も帰るぞ」
また強風が吹いてガラスを散乱させる前に帰ってしまおうと、やや焦り気味な澪斗。そんな彼に、遼平が頭を上げて。
「残念だったな紫牙、どうやら俺らは帰れねぇようだぜ?」
ふと眼を細めた遼平が、顔を上げて事務所のドアへ振り向く。その言葉に全員がドアを見つめていると、小さく扉をノックしてくる音が。
「わ、依頼人さんかなぁっ?」
「……このような時に限って……」
嬉しそうに扉を開けに行く純也の横で、澪斗が外そうとしていた眼鏡をかけ直す。
「はい、裏警備会社ロスキーパー中野区支部にようこそ! 依頼ですか?」
純也の爽やかな応対で入ってきたのは、体格の良い二十代半ばくらいの男と、学生服を着た少年。どちらも表社会の人間だとわかる。
純也は人の良い笑顔で二人を接待用のソファへ案内し、座らせる。本来ならば部長の真が依頼を聞く役目だが……部長不在の為、誰が依頼を聞くか?
支部社員達は、集まってコソコソと会議を開く。
「俺は面倒なの嫌だぜ?」
「私だって接待とかダメなのよっ!」
「僕みたいな子供に依頼を喋ってくれるかなぁ?」
「……俺は喋りたくない……」
あれこれと議論は口論になっていき、最終的にはジャンケンで決まった。澪斗が、渋々依頼人と向かい合って座る。
「何の用だ、簡潔に言え」
依頼人へ冷たい視線を送って、まず一言目がそれ。
「うわっ、澪君そんな偉そうな!」
「と、とりあえずお二人のお名前を訊きましょうよ!」
希紗がなんとかフォローを入れて、ソファに座った男と少年は頭を下げる。
「俺は、荒井鉄、大阪から来たモンです。それで、この子は……」
「大麻圭介と言います」
男――荒井と少年――大麻が自己紹介をしながら警備員達を見渡す。中に子供がいたせいか、色々と驚いているようだ。
「えーっと、お二人はお知り合いですか? 同じ依頼で?」
「いえ、ちゃいます。この大麻君は、ちょうど俺がココへ向かう途中で迷子になっていたのを見つけまして……こんな夜前に独りにしておくのは危険だと思うたんで、一緒についてきてもらったんです」
「荒井さんが、用事が済んだら僕を送ってくれると言ってくれたので、お言葉に甘えて来ちゃいました」
裏の人間だったら考えられないような親切な荒井と、これまた裏の人間だったら有り得ないほど素直に知らない大人についてきた大麻。本当に、表社会は平和ボケしている。
「あなたがこの事務所の部長はんでっか?」
「いや、俺ではない。生憎、たった今部長は帰ったところだ」
「そうでっか……」
「急ぎの依頼なんですか?」
ソファに腰掛けて俯く男に、純也はお茶を差し出しながら尋ねる。体格の良い男は、顔を上げて答えた。
「はい、本来ならばこんな依頼は警備会社に頼めるような内容ではないのですが……俺が護れなかった代わりに、取り返してほしいんです」
「取り返す? 何をだよ?」
澪斗と純也が向かいのソファに座り、希紗は男の横に立っていた。唯一自分のデスクにいた遼平が、口を開く。
「我が家に伝わる家宝、神刀《金剛》です。俺に力が足りず、盗まれて、今はこの東京の裏オークションに出されていると耳にしました。それで大阪から俺は上京してきたんです」
「神刀……《金剛》?」
「魔を斬り祓う力を持った、純白の大刀、それが《金剛》です。『使い手の魂を救う』、そんな伝説さえ残っている、名刀なんです。こんな内容の依頼は受け付けてくれないのはわかっとります、でも、金ならいくらでも積みますから……」
そう言って荒井が取り出した封筒には、軽く二百万程度。「これは前払いですから」と机に差し出して。
「そんな大金積んでまで大切な宝なのかよ?」
「願いがあるんです。もし《金剛》が戻ったら……本当にあの刀に聖なる力があるんなら、救ってやりたいヤツがおるんです」
「誰なんですか?」
「……コレ、見てもらえますか」
そう言って荒井が取り出したのは、ずっと持ち歩かれていたように傷ついた一枚の写真。そこには、中学生くらいの子供が二人、写っていた。
左に立って恥ずかしそうにしているのが、今も面影を残す荒井だろう。一方、右に立って荒井の肩に手を組んで笑っている子供は、黒い髪が長く、陽気そうだった。
「俺の右に立ってるんが、昔の友人です。明るいヤツで……でも、そいつはこの写真を撮ったたった二ヶ月後に、死にました」
「え……」
「……一家心中やったそうです。酷いもんです、親に殺されたあげく、その遺体は本人かわからんほど無惨に斬り殺されていたそうで……。それでこいつには葬式も、墓さえもありませんでした」
荒井の話を聞きながら長髪の子を見ているうちに、なんだか既視感を純也は覚えはじめた。
「この子、もしかして荒井さんの恋人だったんですか?」
希紗が身を乗り出して、訊いてくる。その言葉に荒井は驚いた顔をして、首を振って笑った。
「ちゃいますって、こいつは男ですよ。こんなに髪伸ばしてるさかいによく間違われてましたけど。俺のケンカ相手で親友と言うか……まぁ、腐れ縁ってとこですわ」
「……かわいそう、でしたね」
まるで純也も本当に友達だったように、感情移入して悲しく呟く。そんな少年に荒井は「そうですな」と返して、また視線を写真の子に向けた。
「きっとこいつはまだ成仏しとらんでしょう。だから、俺の手で魂救ってやりたいんです。………………親友、霧辺真を」