9、そして狂った舞台の上に
いつの間にか無職になっていた。
エドワードの感覚としては、そんな感じでしかない。
落ち込むとか、喪失感に襲われ絶望するといったことはなかった。
ただ、そうなったという事実を乾いた気持ちで受け止め、どうでもいいこととして、さっさと流してしまった。
今のエドワードからしたら、むしろ喜ばしいことだったのかもしれない。
だから、その事実に直面した瞬間は笑っていようにも思える。
しかし、それすら覚えていない。
新しい楽譜と広がる新世界。
それだけがエドワードの心を占めていた。
それ以外のことは、寝食といった生きることに必要な生理的欲求すら忘れる始末だ。
そのせいだろう、エドワードの外見は惨めなものへと日に日に変わり、一月前の彼とはまったくの別人になっていた。
頬は痩け、目は落ち窪み、体つきは不健康に細くなった。
顔色の悪さは伸びた髭でも隠しきれていない。
街中で目を合わせたくないと思うほど、エドワードは変わってしまった。
かつての同僚が今の彼を見れば、その変貌ぶりに悲鳴をあげるかもしれない。
しかし、それは些細なことだ。
エドワードは自身の変貌に無関心だった。
それよりも大事なことが、今のエドワードにはある。
そのことが、嬉しい。
音楽のない世界なぞ、最早生きてはいけない。
音楽だけでいい。
それだけがあれば、それでいい。
エドワードは確実に人生を踏み外していた。
―9―
ここ最近の習慣として教会で新譜を楽しんでいたとき、肩を叩かれた。
「あなたは、指揮者なんですか?」
新しい世界に浸っていたかったのに、不愉快だなとエドワードはジロリとその声の主に目を向けた。
そこには少々乱れてはいるが、かっちりとスーツを身に纏った女がいた。
「指揮者なんですか?」
怯えたような目をするくせに、彼女は同じ言葉を繰り返す。
エドワードはうんともすんとも言わなかった。
「楽団の指揮者がまだ来ないので、その間だけでもお願いしたいのですが?」
何も言わないエドワードに、訳の分からないことを彼女は言った。
彼女がすっと指差すところには確かに、楽器を構えた一団がいた。
まったく気付かなかった。
今の今まで熱中していたせいか、聞こえていなかった。
しかし、意識すれば喧しい雑音がわんわんと耳を打つ。
それは手にしている楽譜を構成する一部であるはずだが、なんとも耳ざわりだった。
そのあまりの喧しさにエドワードは顔をしかめ、立ち上がった。
勿論、帰宅するために。
しかし、何を勘違いしたのだろうか、彼女はおかしなことを口走った。
「ありがとうございます」
すっと目線を合わしたかと思えば、徐に手を取られ、一団の前へと歩かされた。
一体、どういうことだ―――
エドワードは憮然としたが、促された場所に立てば口角を上げざるを得なかった。
そこには、音がある。
しかも、その音を好きにしていいというのだ。
勘違いしたのは、あっちだ。
俺は何も言ってはいないからな。
くつくつとエドワードは静かに笑った。
誰の目からも見えないぐらい密やかに。
いつも耳の奥では音楽が流れている。
頭の中では音を支配する背中がある。
その場所に、いま、エドワードは立っているのだ。
エドワードが本当に居るべき場所に、彼はやっと辿り着いた。
知ることもなく終わるはずだった場所。
出逢わなければ狂わなかった、舞台に。
エドワードの狂った舞台が、本格的に幕を開けた。