8、快楽に堕ちるままに
ふらりとエドワードは教会に入っていった。
シャツは皺が寄り、ズボンはくたくた。
髭も剃っていないせいか、随分草臥れて見える。
疲れているのだろうと一目で分かるが、エドワードにはその感覚がなかった。
エドワードの中では、音楽が鳴っている。
一曲が終われば、次の曲が。
次の曲が終われば、また次の曲が。
次、次、次、次と途切れることなく、延々と鳴り続けている。
日ごと増える曲の量は、既に一日では再生しきれないほどに増えた。
それは嬉しいことだ。
けれど、もっともっとと求める方が強い。
まだ足りない。
まだまだ、まったく足りていない。
もっと欲しい。
もっともっと、もっと注いで欲しい。
求めるものを手に入れるためだけに太陽の下を歩く。
日々財布の中身はばらまかれるが、それがどうした。
求めるものがそこにあるなら、買うしかない。
エドワードは教会の奥まった席にゆっくりと腰を下ろした。
改めて手にした紙束の存在を確かめ、笑いが零れる。
俺の曲だ―――
最近は、家に帰るまで待てなくなってしまった。
手に入れて、帰るまでの距離が長すぎる。
そんなに待てるほどの余裕はない。
それに、ここは静かで具合がいい。
帰宅する前に、一回聴くのにはあまりにも都合が良すぎる。
扉一枚隔てただけで、この静けさ。
誰もいない広い教会は、誰からも忘れ去られたように人気がない。
エドワードは足を組み、手元を覗く。
そこに世界がある。
美しく、煌めく音楽が広がっている。
俺のものだ―――
ぺらりと捲ったエドワードの瞳は、怖ろしいほど獰猛な光に満ちていた。
―8―
エドワードは瞬く間に楽譜を読めるようになった。
使い古された言葉だが、「スポンジが水を吸い込むように」という表現に相応しいほど早く。
誰に師事するわけでもなく、音楽を聴き、楽譜を読むだけで理解した。
異常なスピードで、急速に音楽の構成を理解してしまった。
天賦の才
エドワードは、正しくそれを持っていたのだろう。
彼自身がまったく気付かず、そしてあの日コンサートに行かなければ一生気づかず、埋もれた才。
それが、いま急激に成長し、一気に花開いてしまった。
たった2回のコンサートと、一束の楽譜。
それだけで、開いてしまった。
しかし、エドワードはそんなことなど気にも留めなかった。
目の前に急に現れた世界に取り憑かれ、必死に手を伸ばしただけ。
楽譜を読めることなぞ、気にかけることではなかった。
大事なことは、ただ一つ。
音楽の世界が一気に開いたこと。
チープな音楽に舌打ちし、我慢をしなくても音を手に入れられたこと。
楽譜は不思議だ――
エドワードは目線を外すことなく音符を追いかけながら、吐息を溢した。
部屋は無音だというのに、楽譜を見るだけでエドワードの鼓膜を音楽が叩く。
コンサートで聴いた曲だけだと思っていたが、違った。
知らない曲を見ていても、音楽は聞こえてくるのだ。
初めはか細く、何度も見直すうちに音量は増し、遂には目の前に楽団が現れる。
それは全くもって不思議としか言えない感覚だった。
これが、音楽か―――
目を走らせながら、エドワードは陶酔した。
ゆらゆらと音楽が浸透する心地よさは、酒に酔うより気持ちがいい。
酔ったようなふわふわとした思考の中、音楽は流れていく。
激しく怒鳴り、ゆるやかに歌い、楽しげに笑い、悲しげに泣く。
その様々な表情を隠すことなく、楽譜はさらけ出していた。
エドワードは、得も言われぬ喜びに痺れた。
これほどの快楽を、なぜ知らずに入れたのか。
ちらりと音楽の狭間で浮かんだ疑問は、すぐに流れた。
それよりも、先を―――
エドワードの血走った目は、先へ先へと延ばされる。
思考はすべて楽譜の中へと入り込み、エドワードの音楽への渇望は止まらない。
ぱらり、ぱらり。
パラぱら、パラバラぱら。
指先が紙でささくれ、床に落ちた紙の幾枚かには点々と赤い模様がついていた。
それすら気にも留めず、エドワードは紙を捲る。
もはや、エドワードは音楽という麻薬に浸りきってしまっていた。
音楽以外の全ての思考を彼方へと追いやり、ただただ音楽という快楽を追う。
その意識すらないままに、追い求め続けていた。