6、深淵は五線譜の渦の中
舞台の上から世界が広がる。
本物の音楽が波を打って押し寄せ、ひたひたと入り込んでいく。
あまりにも違う。
安っぽい狭い世界から、大きな世界に浸れる喜びに全身が痺れた。
得も云われぬ心地好さに、エドワードはうっとりと見入っていた。
その目はひたすら一点に注がれたまま動かない。
白い棒が右に左に、上へ下へ。
優雅にひらひらと振られたかと思えば、激しく空を切り裂く。
自由自在に音を紡ぐ様に、エドワードは魅入っていた。
世界は今や、音楽を操る棒とエドワードただ独りになっていた。
―6―
ふわふわとした心地でエドワードは歩いていた。
意識はさっきまで聴いていた音楽に支配されたまま、まだ帰ってきてはいない。
来てよかった――
満足感の薄いチープな音は、日に日にエドワードに苦しみを与えていた。
聴かずにはいられないというのに、聴けば不快感に苛まれるのだ。
拷問を受けているに等しかった。
そんな日々の中、街中で今日のコンサート広告が目に入った。
本物だ――
一も二もなく飛び付いた。
聴きたかった。
本物の世界に、また触れたかった。
期待に胸を膨らませ、迎えた今日。
これこそ、求めていたものだと酔いしれた。
興奮はコンサートが終わった今も褪めない。
甘美な幸せに浸かりきった足取りは、些か浮かれ過ぎている。
あっちにぶつかり、こっちにぶつかりと酒に酔ったように誰の肩にもぶつかる。
むっとした顔、しかめられ、気分を害したと言わんばかりの顔をされるが、エドワードには関係なかった。
どんな顔をされようと、何も感じない。
ただただ、音楽に溺れていた。
「あれ?」
そして、浮かれていたエドワードは急に酔いから覚めた。
熱が引き、ぼんやりとした思考が戻ってきていた。
浮かれてふわふわした足元も、どっしりと地面に帰ってきていた。
そして、彼の前には露店があった。
白い紙の束。
走る文字と記号の群れ。
左から右に引かれた線、線、線。
手に取れば正体が知れた。
「楽譜? へぇ、これが楽譜か」
エドワードは初めて目にするそれを、矯めつ眇めつ眺めた。
紙に引かれた線も、線の上に並ぶ音符も、表音マークも、何一つわからなかい。
楽譜というのだから、これが音楽を表わすものだとはわかるが、それだけ。
唯一解ったのは、これが今日聴いた音楽らしいということだ。
どうするか?
そんな迷いは一瞬。
値段も見ずに購入していた。
躊躇はなかった。
楽譜に意味も価値もなかった。
何せエドワードは音楽に疎い。
ついこの間まで、まともに音楽に触れたことすらなかったのだ。
買ったところで何の役にも立たないことなど、勿論わかっていた。
それでも買った。
これがあの音楽になる。
あの音楽の素が、これ。
手にした楽譜ににんまりと笑って、エドワードは帰宅した。
それは好きな芸能人のグッズを買う時のような、そんな軽い気持ち。
―――そのはずだった。
しかし、これが彼を更なる深淵へと誘う鍵だった。
彼の狂気を加速させる恐るべきモノになるのには、そう時間はかからなかった。