2、嘘が歯車を軋ませた
彼、エドワードはある時まで、どこにでもいるごく普通の人間だった。
ごく普通の学校に通い、みんなと同じように進学して、自然の流れとして就職した。
至って普通に、平凡な少年期を経て一般的な学生として青年期を送り、社会の代表格のような商社マンとして働き盛りな壮年期に差し掛かったある日、彼は一つの嘘をついた。
「俺には指揮の経験があるんだ」
好きになった女性のためだった。
彼女の趣味が音楽鑑賞で、年に何度かはコンサートを聴きに行くと耳にして、咄嗟についた嘘だった。
普通の男であるエドワードは、平凡な男だ。
つまるところどこにでもいる男過ぎて印象が薄い。
好きになった相手に声をかけると、普通に返されるが、すぐに忘れ去られるような。
そんなうだつの上がらない男だった。
そのことをエドワードは自分自身の人生で、充分過ぎるほど理解していた。
だから、嘘をついた。
「ほんとうに?」
そして、その嘘でやっと好きになった彼女に振り向いてもらえた。
彼女の好みのもので気を引くという、単純な話題提供だったが、それでも振り向いてもらえた。
エドワードは喜び有頂天になったが、その瞬間、彼の人生の歯車が小さく軋んだ。
この時はまったく気づきもしなかったが、この嘘がそもそもの始まりだったのだ。
―2―
エドワードは好きになった彼女、イブリンの華奢な姿を思い浮かべながら有頂天で帰路についていた。
帰り間際のたった数分の会話しかできなかったが、大した進歩だ。
三十路前の男としては情けないが、エドワードは純情過ぎてなかなか一歩を踏みこめず、いつも挨拶や無難な業務の話しかできなかった。
それが、今日やっとイブリンの趣味の話で盛り上がることができたのだ。
こんなに嬉しいことはなかった。
かわいかったな。
思い出すのは、エドワードに目を輝かせながら語る彼女の笑顔だ。
あんなにきらきらとした笑顔を正面から見れたことが、嬉しくて仕方なかった。
好きな曲を拳をキュッと握って一生懸命に話すイブリン。
あの様子を自分に向けられたことが幸せだった。
それに、デートの約束もできたしな。
くくくっと口角があがる。
話が盛り上がっただけでなく、次のコンサートを一緒に聴きに行くことになったのは、僥倖だ。
こんなにラッキーなことが起こるとは思わなかった。
急な都合で彼女の連れが行けなくなるタイミングで声をかけた自分を、今日は大いに褒めなくてはいけない。
にやける口元を片手で押えながら、エドワードはふと顔を上げた。
その目に、一軒のこじんまりとしたCDショップが見えた。
ちらりとカバンを見る。
そこには、彼女とのデート券が大切にしまわれている。
イブリンとの夜を美しく飾る、大切なコンサートチケットだ。
大声で笑い出したくてたまらなくなったが、そこでふとエドワードは自分の嘘を思い出した。
よくもあんな嘘を言えたもんだ。
エドワードは音楽とは無縁で、当然ながら指揮の経験なんぞあるわけもない。
テレビの1シーンで棒を振っているところは見たことはあるが、それだけ。
高名な指揮者と学芸会レベルの指揮者の違いすらわからない。
あんなものは、ただ棒を振り回しているようにしか思えず、何が凄いのかさっぱりだった。
それどころか、音楽そのものもさっぱりだった。
そもそも、彼の人生と音楽はまったく接点がなかった。
通っていた学校では基礎科目だけ受ければよかった。
芸術項目はあったが、趣味みたいなもので受けなくても進級できたのだ。
余計なことを習うためだけに学校にいたくなかったエドワードは、当然受けなかった。
必然音楽だろうが絵画だろうが、こと芸術という領域には疎くなってしまったが、それで困ることもない。
エドワードはその領域に見向きもせずに、ここまで過ごしてきたのだ。
その弊害だろうか。
今でも、クラシック曲どころか流行の歌さえわからないほど、あらゆる音楽と縁がない。
でも、それじゃ~だめだよな。
クラシックが好きだと言う彼女と、クラシックのコンサートに行く。
しかも、指揮をしたことがあるという嘘までついたのだ。
せめて今度行くコンサートの曲ぐらいは買っておくか。
普段、寄りつきもしないCDショップだが仕方ない。
肩をすくめて一人ごちるが、まぁいいかと気軽に自動ドアをくぐった。
目指す場所に行けば、ずらりと並んでいる。
その中からコンサート項目のモノだけを手にしようとしたが、同じ曲でもパッケージが違うものが何種類
も並んでいた。
一体どこが違うのか、エドワードにはさっぱりわからなかった。
まぁ、どれでもいいか。
収録した年が違うとかそんなものだろう。
ほんの少し逡巡したが、結局は値段で決めた。
割引になっているのなら、そっちを買うのは至極当然だ。
なんせ、財布に入っている金の上限は決まっていて、今日の持ち合わせはそんなに入っていない。
奮発したくても無理があるというものだ。
財布とコンサート項目を確かめながら、買えそうなCDを4枚手にとりレジを済ませ、エドワードは今度こそさっさと帰路についた。
イブリンと来る日のデートを妄想しながら、玄関ドアを開けたエドワードの顔は幸せな笑みを浮かべていた。