10、音楽狂いは至高の指揮者へ
腕から音が溢れてくる。
指先から旋律がうねっている。
この場を支配しているのは、俺だ――――
耳の奥を打つ音楽が、腕を伝って流れていく。
なんたる心地よさだろうか。
音楽が身体を包んでいる。
旋律が血管を流れている。
至福とはこのことを言うのだ。
もう、ここから動くことはできない。
―10―
「先生について取材をお願いしたいのですが」
ストライプのスーツを着こなしている男は、髪をアップにまとめている女性にそっと声をかけた。
その依頼に彼女、アンジェラはそっと首を振った。
「申し訳ありません、先生は一切お受けしておりませんの」
それは、彼女がここ最近で最もよく口にしている言葉だ。
いい加減言い疲れてきたし、アンジェラだって他の言葉を言いたい。
けれど、仕方がない。
「それでは」
アンジェラだってなんとかできないかと思いはしたが、仕方がないのだ。
記者からさっさと離れながら、ため息が零れた。
あの人は、そういう人なのだもの―――
あの日、彼女が出逢った浮浪者の如き男。
奇蹟としか言えない指揮で、音を支配する男。
エドワードは、音楽に狂っている。
ほんの些細な気持ちだった。
教会の片隅にいた彼を正当化するため。
たったそれだけのために楽団の前に立たせたのは、アンジェラだ。
彼の支配は美しく、とてつもなく怖ろしかった。
紡ぐ音は楽団の音ではなかった。
あんなにも美しい音を奏でられるのなら、あの日教会で練習をするような立場に追いやられなかった。
きちんとしたホールをあてがわれたはずだ。
そんな、さして技巧に優れているわけではない楽団が、一瞬で変わった。
『魔法の指揮』
今やエドワードの代名詞となったそれの、第一の観客はアンジェラだった。
美しいものには鳥肌が立つということを、彼女は初めて実感した。
そして、その美しさに涙した。
今日のコンサートでも彼女と同じように、観客は泣いていた。
その様子をつぶさに見ていたアンジェラとしては、エドワードの言葉を待つ観客に、少しだけでもエドワードの言葉を届けたいという思いがある。
けれど、それが叶わないことも分かっている。
音楽狂い―――
エドワードにこれほどピッタリな言葉はない。
今でこそコンサートに立てるだけの立派な容姿をしているが、最初はあの浮浪者姿だ。
エドワードの家に上がりこめば、部屋は楽譜で埋め尽くされていたが、何着もスーツがあった。
それは、彼がまともな社会人生活を送っていた証拠なのだが、困ったことにエドワードはすっかりそのことを忘れ去っていた。
無理やり事情を聞けば、二カ月前までは働いていたという。
それが、何故こうなっているのか。
アンジェラにはさっぱり分からなかった。
だが、すぐに理由が知れた。
エドワードは狂っていたのだ。
一に音楽、二に音楽、三も四も、五も六も何もかも音楽しかなかった。
アンジェラが上がりこんでもさっさと忘れて楽譜に没頭。
無理やり話しかけてもタイミングがよくないと、反応すらしない。
静かにしていようが、五月蠅くしようが気づきもしない。
ひたすら楽譜に集中し続け、それ以外は何もしない。
一日中いるわけにもいかず、一度帰宅して明朝向かえば、昨夜と同じ態勢。
この人は死ぬのではないだろうか?
アンジェラはエドワードの異常な行動に戦いた。
良く見れば食事の痕跡は永らくなく、寝ている痕跡もない。
全てを忘れて、ただ音楽だけを見ている男の狂気が恐かった。
「ほんとうに、ありえない男よね」
今でもエドワードは狂っている。
音楽にしか目を向けず、音楽に酔いしれることだけに傾倒している。
彼が指揮をするのは名声のためではない。
ただ、音を聴きたいからだ。
奏でられる音楽を一人占めしたいだけで、観客を喜ばせるためではない。
独りよがりな音楽と言えなくもないが、それが感動をもたらすのだ。
誰よりも音楽を愛し、音楽に全てを捧げる指揮者。
タクトを持たず、己の腕と指先だけで指揮する男。
音楽の僕にして、音楽を支配する男、エドワード。
彼はこれからも指揮をするだろう。
それは、ただ自分のためだけに。
紡がれる音楽を聴きたいがためだけに。
エドワードは指揮台という特等席で、腕を振り、恍惚の笑みをうっすらと浮かべる。
これにて、オーケストラは完結です。
あとがき的なのを、活動報告でしています。
気になる方はご覧ください。