1、それは偶然か運命か
「ここです」
息を切らせ、乱れた濃紺のスーツを整えた女性は、目の前の団体に後方を指した。
そこは十分な広さはあるだろうが、ホールではない。
こんなところを――
無言の不満に、彼女はつと背中に汗が伝うのを感じたが、笑って彼らに背を向けた。
彼女の前にあるのは、彼らが求めている練習場所ではあるが、適切な場所ではない。
そこにあるのは、薄汚れどことなく暗い雰囲気を醸し出している、古びた教会だった。
「さぁ、どうぞ」
ギギっと木の軋む音が、広い講堂に響く。
教会内部は広く、解放感がある。
古ぼけたパイプオルガンは堂々とそびえたち、かつては聖歌隊が歌声を響かせていた様を幻想させた。
「ほぉ~」
入るまでは不満を隠しもしなかった一団から、感慨深いため息が零れた。
大聖堂と同じとまでいかないまでも、小さな町にある教会のような狭さはない。
昼の陽光がステンドグラスを透かし、床一面に色とりどりの模様を描き出している。
何よりも、
パンッ! パンッ!
打ち鳴らした拍手が、ぅわぁんと内部で反響する。
下手なホールよりも具合がよかった。
「まぁ、いいだろう」
不遜な物言いだが、声は満足げだ。
ひそかにぐっと組み合わせた両手に力を込めていた女性は、ほっとしたように力を抜いた。
「さぁ、準備だ」
ぱんぱんっ。と打ち鳴らされた音を合図に、一団がわらわらと準備を始めた。
ある者は組み立て、ある者は空間を確保し、ある者は規則的に椅子を並べる。
カタカタ、ガタガタと黙々と準備は進められ、そこに一つの形が出来上がるや否や、それぞれが動く。
入念に手元を確認し、点検作業にいそしみながら、音が響く。
ある者が手にした弓が弦を鳴らし、空気を吹き込まれた管楽器から緩やかな調べが響く。
彼女はそんな一団の様子をぼんやりと眺めていた。
整えられていく場は、ゆるく半円を描き、決められた場所に座ればすぐに音を鳴らす。
それぞれがそれぞれで鳴らす音は、一つ一つは美しくてもバラバラな今はちっとも美しくない。
むしろ煩くて堪らない。
うんざりと顔をしかめていた彼女は、不意に一人の男がいることに気付いた。
人がいたんだ―――
誰もいないと思って一団を案内した彼女は焦った。
関係者でも何でもない人がいる。
そんなことを知られるのは非常にまずい。
ゆっくりゆっくりと彼女は男の元へと向かった。
一団はそんな彼女のことには見向きもせず、準備をしている。
準備をしている今の裡にと焦りながら、慎重にむかった。
ゆっくり進んだところで教会の中。
大した時間もかけずに、彼女は男のすぐそばへと着いた。
男は、うつむいた恰好のままそこにいる。
寝ているのだろうかと、覗きこめば―――
違った。
男の目は血走り、一心不乱に何かを捲っていた。
何を?
疑問はすぐに解けた。
男は楽譜を捲っていたのだ。物凄い早さで。
それでは、一音すら拾えないだろうと思える早さだった。
これが、彼女の「運命」の出逢い。
そして、彼女が一人の男を「狂った舞台」の渦中に引きずり込むことになる出逢いだった。
―1―
「Fを」
ぼさぼさの髪から覗く目は、光を反射せず濁っている。
「Aだろう」
対する男はぴしりとオールバッグに髪を決め、胡乱な眼差しを向けた。
だぼついた服を着た目の前の男は如何にも胡散臭く、浮浪者にも見えるのだ。
チューニングを「A」の音で指定しないのも、音楽に対して無知に見える。
「では、Aを」
そんな目線を気にもとめず、指揮台に立つ男はさっと腕を上げた。
何気ない動作。
ただ、腕を上げただけ。
それなのに、胡乱な眼差しや不快気な眼差しをしていたはずの一団は寸分たがわず反応した。
一斉に構えられる楽器。
そして、
『ザンッ』
振り下ろされた腕に合わせて、一音が吐きだされ、止まる。
チューニングなら、鳴らし続けるべきだ。
それなのに、同じタイミングで鳴らされた楽器たちは、同じタイミグで音を止めさせられた。
「そこのお前」
呼ばれ、調弦を直され、狂った音が整う。
そして、再び無言で腕が上がり
『ザンッザンッザンッ』
振り下ろされた腕が、ただの一音を落としていく。
狂いなく落とされる音、狂いなく落とされる呼吸。
何もかもが整えられた一音が規則的に鳴らされる。
ただの、チューニングなのに――――
たった一音の世界に、彼女は鳥肌が立った。
あまりに整い過ぎた音が、空間を揺るがしている。
まるで、地の底から音が湧き出し、空から落ちてくるような感覚に襲われた。
一音しかないのに、世界がうねり、一音からなる曲を聞かされているようだった。
あまりに、怖ろしく。
あまりに、美しい。
たった一音からなる曲が、空間を揺さぶっていた。