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■第一章:コゲの匂い
乾ききらない薪が鈍く割れ、煙は空へ昇らず、地を這うように人の足元を流れていく。
火は、低く燃えていた。
この村では火を高く上げない。
風を呼ぶからだ。
風は、山の上から“何か”を連れてくる。
理由を知る者はいない。ただ、誰も逆らわない。
朝は遅く始まる。
霧が残る間、人はあまり動かず音も立てない。
女は土を掘り、根を折らぬよう慎重に引き抜く。
男は獣を裂き、血を地に落とさぬよう受け止める。
匂いを残せば、
"寄せる"と教えられている。
子供は走らない。叫ばない。ただ、大人の動きを真似る。
老人は座り、何かを見ている。何を見ているのかは分からない。
青年は川辺で水を汲んでいた。
歳は十六。
名はあるが、この村では呼ぶ必要がない。誰が誰か、言葉を使わずとも分かるからだ。
桶を持つ手が濡れる。冷たい。だが、その冷たさが水のものではない気がした。流れているはずの水が、どこかで止まって見える。
視線を外すと元に戻る。
その程度の違和感は、ここでは口にされない。
昼に近づき、石の音、骨の音、火の音だけが村に満ちていた。
いつも片足を引きずって薪を運ぶ男。
青年にだけ焦げた肉の端を渡す老婆。
水汲みを真似する小さな子供。
ふと ───
その時、一人の手が止まった。理由は分からない。
ただ止まった。
それに続くように、また一人、また一人と動きが途切れ、音が減っていく。
やがて、火のはぜる音だけが残った。風がない。煙が動かない。
匂いが来た。
腐敗ではない。焼けた肉でもない。
もっと新しい、もっと“内側”に近い匂い。
青年は振り返る。視線は自然と山の方へ向く。
斜面の上、木々の間に、影があった。
立っている。
だが、その姿は「立つ」という言葉に収まりきらない。肩があり、腕がある。
だが、関節の数が合わない。
骨がずれ、肉が追いついていない。顔がある。だがそこに意味がない。
形だけが人に似せられている。
人に欠損が有るような ─── ヒトから何かを「削いだ」ような ───
それは、山から降りてきた。
一歩。
音はしない。
それでも、確かに距離が縮まる。
二歩。三歩。
気付けば、もう村の縁にいた。
誰も声を出せない。叫べば"呼ぶ"、と教えられているからだ。
だが、それ以上に、声を出すという行為そのものが体から抜け落ちていた。
子供が一人、立っていた。まだ小さい。
手には土が付いたまま、何も理解していない顔で、ただ前を見ている。
「それ」は、子供の前で止まった。
ゆっくりと、腕が伸びる。
掴む、という動きではなかった。
ただ触れた。それだけだった。
次の瞬間、子供の体が引き寄せられた。
強く引いたわけではない。だが抗えない。足が地面を離れる。小さな体が宙に浮く。子供はようやく声を出した。短い、裂けたような声だった。
「……や……」
"それ"は、子供の胴を片手で抱えた。軽い。あまりにも軽い。まるで最初から“持ち運ばれるためのもの”のように。
「やめろ……」
だが足は動かない。近づくことができない。
子供の手が空を掴む。
何かを掴もうとしている。
親か、地面か、さっきまでそこにあった日常か。
だが、何も掴めない。
指が閉じるたびに、空だけが残る。
「それ」は振り返る。
子供を抱えたまま、山の方へ向き直る。
歩き出す。
音はない。ただ、距離だけが削られていく。
子供はまだ動いている。腕が揺れ、足が空を蹴る。
声はもう出ない。喉が潰れたわけではない。ただ、届かないと理解しただけだ。
「……返せ」
青年の口が、ようやく動いた。
だが、その声はあまりにも遅い。
それは止まらない。振り返らない。
子供を抱えたまま、山を上っていく。
斜面を、重さを感じさせずに進む。木々の間に入り、影の中へ溶けていく。
最後に見えたのは、子供の手だった。
開いたまま、何も掴めないまま、揺れていた。
やがて、それも見えなくなった。
誰も動かない。追わない。追えない。
火が、遅れて揺れた。煙がまた流れ始める。
音が戻る。
石の音、骨の音、火の音。
すべてが元に戻る。
だが、一つだけ戻らない。
子供が、いない。
青年は立ち尽くしていた。手は空のまま。
桶の水が、いつの間にか溢れて足元を濡らしている。
初めて理解する。
あれは、奪われたのではない。
連れていかれたのだ。
山の上へ。森の中へ。
戻ってこない場所へ。
───
■第二章:残された声
音は、戻っていた。
石の音。骨の音。火の音。
すべてが、さっきまでと同じように、そこにある。だが誰もそれを“同じ”とは思っていない。
一つ、欠けている。それだけで世界の形は変わる。
最初に動いたのは、女だった。
子供のいた場所へ、ゆっくりと進む。走らない。走れない。そこに、何もないことを知っているからだ。
手を伸ばす。空を掴む。何もない。
もう一度、掴む。
何もない。
「……おい」
小さな声だった。誰に向けたものでもない。
「……どこだ」
声が、震える。
「どこに……やった」
足元の土を掘る。意味はない。
分かっている。
それでも、掘る。
指の間に土が入り、爪が割れる。止まらない。
「返せ」
声が、少しだけ大きくなる。
「返せ……」
立ち上がる。山を見る。
「返せ!!」
叫びだった。この村で、禁じられているはずの音。だが、もう止まらない。
「返せええええええッ!!」
声が、裂ける。喉が、潰れる。それでも、叫ぶ。山に向かって。
もう届かない場所へ。
誰も、止めない。止められない。
男が一人、顔を背けた。
別の女は、耳を塞ぐ。
老人は、目を閉じた。
誰も、近づかない。
青年は、動けずにいた。足が、地面に縫い付けられたように動かない。
視線だけが、山に残っている。
「……追うな」
低い声が、落ちる。
誰が言ったのかも分からない。
ただ、その言葉は、重かった。
「追えば……増える」
意味は説明されない。だが全員が理解している。
行けば、戻らない。一人では済まない。
だから誰も行かない。
女の声が、少しずつ弱くなる。
叫びが、泣き声に変わる。
やがて、それも途切れる。ただ、息だけが残る。
壊れた呼吸。
村は、静かになる。あまりにも、静かに。
青年は、その場に立っていた。手は、まだ空のまま。何も掴めないまま。
自分が、何を見たのか。理解しようとする。
だが、うまく言葉にならない。
ただ一つだけ、残る。
─── 連れていかれた。
消えたのではない。
意思を持って。目的を持って。
「……ムナ」
誰かが呼んだ。青年の肩が、わずかに揺れる。
「ムナ」
それが、彼の名だった。今まで、ほとんど呼ばれることのなかった音。だが今は、はっきりと届く。
「……見てたな」
ムナは、答えない。答えられない。ただ頷くこともできず山を見ている。
「……覚えろ」
その声は、低く、乾いていた。
「忘れるな」
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─── 骨を砕く音が、火の音に混ざっていた
◆
一体が、突然止まった。
肉を噛み千切ったまま。
咀嚼もしない。
周囲も、遅れて止まる。
静かだった。
風の音だけがする。
その沈黙に恐怖を覚える。
次の瞬間。
後ろにいたそれの上半身が、消えた。
いや───
消えたように見えた。
遅れて、血だけが噴いた。
それの胴が、ずるりと滑る。
断面が見える。
骨が無い。
内側から抉り取られていた。
残った者たちが、後退する。
吠えない。
威嚇もしない。
散開しようとしている。
その時、森の奥で。
“何か”が、咀嚼した。
ぐちゃ。
湿った音だった。
◇
───「忘れるな」
ムナの喉が、わずかに動く。声にはならない。
ただ、何かが、内側で変わり始めていた。
ムナの中に、戻らないものが、生まれていた。
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■第三章:語られた
火は同じ場所で燃えていた。だが誰もそこに近づこうとはしなかった。
子供がいなくなった場所から、少しだけ離れた位置で、村人たちは円を作るように座っていた。
誰も声を出さない。泣き声も、もうない。ただ、視線だけが、地面に落ちている。
やがて、一人の老人が口を開いた。背は曲がり、目は濁っている。それでも、その声だけは、はっきりと届いた。
「……最初は、二人だった」
誰に向けた言葉でもない。ただ、そこに落とされた。
「母と、子だ」
空気が、わずかに動く。誰も顔を上げない。
「山から降りてきた。今と同じだ。形も……似ていた」
短い沈黙。
「その時は、まだ、分からなかった」
老人の喉が鳴る。乾いた音だった。
「何をされるのかも、どこへ連れていかれるのかも……ただ命乞いで精一杯だった」
誰かの肩が、わずかに震える。
「……あれは、言った」
老人の目が、ゆっくりと山の方を向く。
「“捧げろ”と」
その言葉は、低く、重く、地面に沈んだ。
「イケニエを、出せと」
火が、小さくはぜる音を立てる。
「断れば……どうなるかは、すぐに分かった」
そこで、老人は言葉を切った。誰も続きを求めない。知っているからだ。
「……それからだ」
再び、声が落ちる。
「何度も来た。間を置いて何度もだ。数は増えたり減ったり……だが、来る」
風はない。それでも、煙がわずかに揺れる。
「連れていかれた者は、戻らない」
それだけ言うと、老人は黙った。
説明も理由もない。ただそれが“事実”として、そこに置かれた。
ムナは、その話を、何度か聞いたことがあった。
だが、今聞いているそれとは重さが違う。言葉は同じでも意味が違う。
あの頃のムナは、まだ子供だった。
理由は教えられなかった。
ただ、「外に出るな」「静かにしていろ」とだけ言われた。
家の中に押し込まれ戸を閉められる。
外の音は、ほとんど聞こえない。それでも、何かが起きていることだけは分かった。
足音ではない音。声にならない声。火の匂いではない匂い。
「怖い」という感覚だけがあった。だが、それが何なのかは分からない。分からないまま、やがて静かになる。
そして戸が開き、何もなかったかのように、また同じ日が始まる。
ただ、一つだけ違う。
人が、減っている。
その理由も、ムナは聞かなかった。聞けなかった。
聞いてはいけないものだと、どこかで理解していた。
何処か恐かった。
─── そして、その日。
ムナは、河へ洗い物に出ていた。
━━━━━━━━━━━
■第四章:居た
いつもと同じように、布を水に浸し、叩き、絞る。冷たい水が指先を鈍らせる。それでも、何も変わらないはずだった。
帰り道、最初に気付いたのは、匂いだった。
その匂いを嗅ぎながら、ムナの記憶は別の日へ沈んでいった。
─────────
───
老人の声が、再び落ちる。
「……あれが、いつから来るようになったかは分からん」
「だが、理由はある」
誰も顔を上げない。
「人が、人でなくなることがある」
それだけだった。詳しくは語らない。語る必要もないかのように。
「それが……あれだ」
鬼、という言葉は使われなかった。
それでも、全員が理解している。
火が、また一つ、音を立てた。
誰も、その音に反応しない。
ただ、沈黙だけが積もっていく。
ムナは手を見ていた。空のままの手。何も掴めなかった手。
あの時と、同じまま。
そして、初めて思う。
あれは、突然現れたのではない。
ずっと前から、来ていた。
ただ、自分が知らなかっただけだ、と。
そして、
今───
自分が、それを“見る側”になったのだと。
───
──────
━━━━━━━━━━━
───帰り道、最初に気付いたのは、匂いだった
煙だ。
だが、いつもの村人が点ける火の匂いではない。
もっと濃い。
もっと、重い。
視線を上げる。
村の方角に、黒い煙が上がっていた。
一本ではない。
いくつも、重なっている。
胸の奥が、ざわつく。
足が、自然と速くなる。
走っているつもりはない。
だが、気付けば、地面を蹴っていた。
女たちは、連れていかれた。
抵抗は、あった。声もあった。だが、それは意味を持たなかった。
腕を掴まれ、持ち上げられ、並べられる。歩かされているのではない。
運ばれている。
振り返る者もいる。
だが、視線はすぐに切られる。
首を掴まれ、前へ向けられる。戻るという概念がそこに存在しない。
子供も、同じだった。
泣き声は途中で消える。喉が潰れたわけではない。届かないと理解しただけだ。
山へ向かう列が、静かに伸びていく。
誰も追わない。
追えない。
残された男たちは、その場で終わっていた。
殺された、という言葉では足りない。
形が崩されている。骨の向きが合わない。内側が外へ押し出され、元の姿を保っていない。
声は短い。
長くは続かない。終わりが早すぎるからだ。
ムナは今、その中に立っていた。
何もできないまま。
見ているしかないまま。
そして───
すべてが、終わる。
火だけが残る。煙だけが残る。
匂いだけが、残る。
そして
その時。
ムナの中で、声が蘇る。
あの老人の声だ。
「……あれは、昔からだ」
現実には、誰も言っていない。
だが、確かに聞こえる。
「ずっと前から、来ている」
煙の向こうで、言葉だけが反芻される。
「人が、人でなくなることがある」
短い間。
「それが、あれだ」
鬼、という言葉は、やはり使われない。
それでも、意味は、逃げない。
「なぜ、来るのかは分からん」
声は、重なる。
記憶の中で。
「だが、求める」
さらに短く。
「連れていく」
説明はそれで終わる。
理由は与えられない。
最初から無かったかのように。
ムナの視界が揺れる。
煙の向こう。
黒い地面の向こう。
水の方角。
そこに、何かが“ある”気がした。
見えているわけではない。
だが、確かに、感じる。
あの存在。
名前も知らないもの。
昔から、語られていたもの。
"ヲニ"。
それは、普段は現れない。
干渉しない。
ただ、見ている。
深い場所から。
沈んだ場所から。
だが、時折——
何かが“行き過ぎた”時だけ。
現れる。
助ける、という言葉ではない。
止める、でもない。
ただ、処理する。
それだけだ。
ムナは、その事実をどこかで知っていた。
直に教えられてはいない。
だが、村の中に、ずっとあった。
言葉にならない形で。
空気のように。
そして今——
すべてが、目の前にある。
鬼が居る。
そしてそれは居る。
人は、その間にいる。
選ばれない。
ただ巻き込まれる。
火が、はぜる。煙が、揺れる。
ムナは動けない。
───
■第五章:残り続けるもの
火は、消えた。
煙だけが残っている。
低く、重く、地面に貼りつくように漂い続ける。
焼けた匂いは消えない。風がないからだ。
時間が経っているはずなのに、何も流れていない。
村だった場所は、形を失っていた。
どこに誰が住んでいたのか、分からない。
木は黒く割れ、土は固まり、踏むたびに細かく砕ける。
鬼達の姿は消えていた。
確かに居た。
あの数、あの形、あの動き。すべてをこの目で見たはずなのに、今はどこにもいない。ただ、痕だけが残っている。
ムナは、その中を歩いた。
目的はない。
ただ、足が止まらない。
止まると、思い出す。
それでも、思い出される。勝手に。
ここに、家があった。ここで、肉を焼いた。
ここに、座っていた。
あの場所で、笑った。
断片が、順番もなく浮かぶ。
形にならない。
だが、消えない。
足が何かに当たる。
焦げた木の下に、布が見える。見覚えがある。
自分の家のものだ。
手を伸ばす。持ち上げる。
軽い。軽すぎる。
中身が、ない。
その瞬間、胸の奥が焼けるように痛い。
息が詰まる。
何かが内側から押し広げて来る。
ただ、それが何なのか、まだ分からない。
手が、勝手に離れる。
布が落ちる。音が、やけに大きく響く。
ムナは何も言わない、言えない。
言葉にした瞬間、それが“本当になる”気がした。
少し離れた場所で、骨が見える。黒い。焼けている。
誰のものかは、分からない。
分かる必要もない。
もう、誰もいないからだ。
ムナは、視線を逸らす。
だが、逸らした先にも、同じものがある。どこを見ても、同じだ。
違うのは、“居ない”という事実だけだ。
座る。
その場に。膝を抱える。
体が冷えているのに、寒さは感じない。
ただ、重い。内側に、何かが溜まっている。
出てこない。涙ではない。まだ、形になっていない。
時間が過ぎる。日が落ちる。暗くなる。それでも、動かない。動けない。
音がない。虫の声も、風もない。
村は、完全に沈黙している。
やがて、記憶が、はっきりと形を取り始める。
笑っている顔。声。名前。呼ばれた記憶。呼び返した記憶。それが、一つずつ浮かぶ。
そして消えない。
消えてくれない。
ムナの喉が、動く。息が、詰まる。胸が、圧迫される。焼けるような痛みが、内側で広がる。
何かが、上がってくる。
止められない。
初めて、声が出る。小さい。だが、確かに出た。
それが引き金になる。
次の瞬間、全部が崩れる。
声が、溢れる。抑えられない。意味を持たない音になる。叫びとも違う。ただ、内側に溜まっていたものが、一気に外に出る。
涙が出る。止まらない。
視界が歪む。地面が揺れる。
何も掴めない。何も戻らない。分かっている。
それでも、止まらない。
ムナは、土に手を突く。握る。崩れる。何も残らない。その繰り返し。
やがて、声が枯れる。息だけが残り、震えが止まらない。
それでも涙は続く。
体が、勝手に動く。前に倒れる。顔が、土に触れる。冷たい。だが、それも分からなくなる。
時間が、また過ぎる。
やがて、涙も止まる。出るものが無くなる。残るのは空白だけだ。
ムナは、目を開けたまま動かない。
何もない場所を見ている。ただ開いているだけだ。
そして、理解する。
もう、戻らない。
誰も。
何も。
自分の中も。
すべてが、ここで終わったのだと。
だが ───
終わっていない。
自分だけが、残っている。
その事実だけが、重く、沈んでいた。
━━━━━━━━━━━
───
《回想》
空白だけが、内側に残っている。
だが——
その空白の奥で、
別の記憶がゆっくりと浮かび上がる。
子供の頃から、ムナは“それ”を知らされなかった。
理由は与えられない。ただ、大人たちは言う。
「外に出るな」「音を立てるな」「見ようとするな」
それだけだった。
住居から出ることは禁じられていた。外を覗くことも、音を立てることも、すべて抑えられる。ただ、そうするしかないという空気だけが満ちている。
それでも、分かる。
見えなくても。聞かされなくても。
“何かが起きている”
その認識だけが、積もっていく。
そう、「得体の知れない恐怖」を携えて。
そして今——
それは、目の前で形を持った。
隠されていたものが、すべて露出している。
逃げ場もなく。
言い訳もなく。
ただ、そこに在る。
──────
━━━━━━━━━━━
■第六章:水際
ムナは、立っていた。
どれだけ時間が経ったのかも分からない。
焼けた匂いはまだ体にまとわりついている。
喉は乾いているのに、水を飲もうとは思わなかった。
足が勝手に動き、
気付けば村から離れていた。
辿り着いたのは、水だった。
川とも湖ともつかない、広がりのある水面。風も、波もない。ただ、黒く沈んでいる。底が見えないというより、最初から“見せていない”ような水だった。
ムナは、縁に立つ。
ここに入れば、終わる。
そう思った。考えたわけではない。体が先に理解していた。
残っている意味がない。戻る場所も呼ぶ声も、もうない。
一歩、前に出る。
その時だった。
背後で、土が鳴った。
振り向く。
赤い鬼が、いた。
一体だけだ。
だが、それで十分だった。山から降りてきたものと同じ形。だが近い。近すぎる。顔が、歪んだままこちらを見ている。
目が合う。
理解が、一瞬で戻る。
─── 逃げなければならない。
だが、足が動かない。
赤鬼は、ゆっくりと歩いてくる。急がない。逃げ場がないことを知っている動きだった。ムナを見ている。
獲物を見る目だった。
距離が、縮まる。
五歩。
三歩。
一歩。
腕が、伸びる。
ムナは思う。
─── 俺も、ああなるのか。
連れていかれる?山へ。戻らない場所へ。さっきまで自分が見ていた側に。
それとも、ここで終わるのか。
その瞬間 ───
─── 水が、動いた
波ではない。
音もない。
─── ただ、隣にあった“深さ”が、ずれた。
赤鬼の体が、消えた。
完全に消えたわけではない。
赤鬼の位置が変わった。横に、ほんのわずかに。
─── だがそのまま、引かれる。
赤鬼の顔が、歪む。
鬼が理解する前に、体が傾く。
足が、地面から離れる。
掴もうとする。だが、何も掴めない。
水ではない。
だが、沈む。
胸まで、喉まで、一瞬で呑まれる。
その間に、ようやく恐怖が追いつく。
遅い。
口が開く。
声は、出ない。
そしてそのまま ───
消えた。
水面は、元に戻っている。
波も音もない。
何も起きなかったかのように、静かだった。
ムナは、動けなかった。
目の前で、起きたことが理解できない。
ただ一つ、残る。
赤鬼は、居た。
確かに、居た。
そして今は───居ない。
まるで、処理されたように。
ムナの視線が、ゆっくりと水面に落ちる。
黒い。
深い。
底がない。
見ていると、引き込まれる。
違う。
見ているのは、向こうの方だ。
何かが、下から。
ムナの喉が、乾く。
足が、後ずさる。
だが、遅い。
水面が、わずかに歪む。
それは、浮かび上がるのではなかった。
“そこに在ったもの”が、見える位置に来ただけだ。
輪郭が、定まらない。
長い。
だが長さが分からない。
口がある。いや——裂け目のような“深さ”が開いている。
音も無い。それでも、何かが漏れている。
ムナは、理解する。
——これは、鬼じゃない。
言葉が、追いつかない。
だが、分かる。
違う。
全く、違う。
それは、ムナを見ていた。
目はない。
だが、確かに。
そして、ほんのわずかに——
止まった。
時間が、止まる。
呼吸が、止まる。
次に何が起きるのか分からない。
逃げる事もできない。
ただ、そこにいる。
その存在と、同じ場所に。
そして——
それは、沈んだ。
最後の一言
「お前たちには…借りがある」
消えた。
最初から何もなかったかのように。
水面が戻る。
音もなく。
完全に。
ムナだけが、残る。
立ったまま。
理解できないまま。
だが、確かに知ってしまった。
ここは ───
死ぬ場所ではない。
もっと、深い場所だと。
───
■第七章:淵の声
水は動いていなかった。
風も音もない。
ただ黒い面が広がっている。
底は見えない。最初から、見せていない。
ムナは、その縁に座っていた。
さっきまで、自分はここに落ちようとしていた。そのはずだった。
だが、今は動かない。動けない訳ではなく、動く意味が分からない。
手の震えは、止まっている。
何も感じないわけではないが、形にならない。
思い出が、浮かぶ。
強いのに、強くない記憶。
断片的なものばかりだ。
父の背中。火の前に座っている。何かムナに話し掛ける。肉を裂いている。その手の動きが、はっきりと残っている。
母の声。ただ、呼ばれた記憶だけがある。物事が緊急になった時、頼りになる母だった。振り返った時の、あの時の光の色だけが、妙に鮮明だ。
祖父の手。祖父はムナの小さな頃に死んだ。
だが微かに覚えている。
祖父の手。硬く、乾いている。頭を押さえられた感触。力は強くないのに、動けなかった。
祖母の影。火の向こうに、いつも座っていた。ただ、そこに“居た”という感覚。優しかった。愛があった。暖かい温もりだけが残っている。
友の笑い声。誰だったか、名前は出てこない。
だが、居た。
確かに居た。
隣に居て、何かを言って、笑っていた。
すべてが、薄い。
遠い。
だが、消えない。
ムナは、水を見る。
黒い。
自分の顔は映らない。
そこにあるのは、ただの深さだ。
その時。
水面の一部が、わずかに歪む。
波ではない。
揺れでもない。
“そこにあったもの”が、少しだけ位置を変えた。
ムナは、動かない。
もう、逃げようとは思わなかった。
見ている。
ただ、それを見る。
長い。
それが、最初に分かる。
だが、どこからどこまでかは分からない。
表面だけが、わずかに現れる。
鱗のようなもの。
だが硬質ではない。
光を持っている。
青とも、紫とも言えない、
沈んだ色。
角度によって変わる。
現実の色ではない。
それは、完全には姿を見せない。
ただ、“居る”という事実だけを残す。
そして、声が落ちる。
音ではない。
だが、確かに届く。
「……人は、壊れる」
ムナの喉が、わずかに動く。
言葉にはならない。
「見てきた。何度も」
短い沈黙。
「失うことで、形を失う。内側から、崩れていく」
それは、感情を持っていない様な声だった。
ただ、事実を並べているだけのような。
「……私たちも、似ている」
水面が、わずかに沈む。
それが、呼吸のように感じられる。
「深く沈むものは、戻らない。だが、消えもしない」
ムナは、目を逸らさない。
逸らす理由が、もうない。
「鬼は、違う」
その言葉だけが、わずかに重くなる。
「壊れない。だから、止まらない」
わずかな間。
「どちらが、終わっているのかは……分からない」
沈黙。
そして、
それは、消える。
最初から何もなかったかのように。
水面は、また静止する。
音も波も残らない。
ムナは、動かなかった。
今のものが、何だったのか。
考えようとはしない。
ただ一つだけ、残る。
言葉。
───壊れる
その言葉だけが、内側に沈む。
やがて、ムナは立ち上がる。
足は、まだ動く。
それを確かめるように、一歩踏み出す。
振り返らない。
村へ向かう。
戻る場所ではない。だが、そこしかない。歩く。
焼けた匂いが、また強くなる。
黒い土。崩れた木。変わらない、何も変わっていない。それでも、違う。
ムナは、立ち止まる。
あの場所。
自分の家があった場所。
もう何もない。形も、残っていない。
そこで、初めて
思い出が、繋がる。
断片が、繋がる。
父の声。母の手。祖父の背中。祖母の温もり。友の笑い。
全部が、一つになる。
消えない。消えていない。
ただ、自分の中に残っている。その事実が、重く落ちる。ムナの膝が、崩れる。その場に落ちる。
手が、土に触れる。
握る。
崩れる。
同じだ。
何も残らない。
だが、違う。
中に、残っている。
消せないものが。
涙が出る。
それでも、呼ぶ。
何度も。
何も返ってこない。
分かっている。それでも止まらない。
ムナは、泣いた。
崩れるように。壊れるように。すべてを吐き出すように。
そして───
───
■第八章:底守
ムナは、崩壊したかの様に泣いていた。
声は枯れ、息だけが乱れている。呼んでも返らない名前が喉に残っている。土に膝をつき、指で握っては崩す。
その繰り返しの中で、何も変わらない事実だけが、はっきり形を持っていく。
その時、影が落ちた。
山の上。
黒い稜線に、いくつもの輪郭が浮かぶ。月も風もないのに、そこだけが“動いている”。
一つではない。複数。
ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ降りてくる。
鬼だ。
十。
数えたわけではない。
目が、勝手にそう理解した。
あの形。あの歪み。あの歩き方。間違いない。
先頭の赤鬼が、止まる。地面を見ている。
焼け跡の中に残った、武器の欠片。血の乾いた痕。引きずられた跡。
「……ここだ」
低い声が、他の鬼に伝わる。
「消えた。水へ落ちたか、引かれたか……どちらでも同じだ」
別の鬼が、鼻を鳴らす。
「残りは、いる」
その視線が、ムナに向く。
一瞬だけ、驚きが混じる。だがすぐに消える。意味がないからだ。生き残りは、ただの“残り”だ。
持ち帰るか、ここで処理するか。その違いしかない。
鬼たちが、散る。囲む。逃げ場を塞ぐ。
ムナの足が、遅れて動く。
走る。
向かう先は一つしかない。
水だ。
あの黒い面。あの底の見えない場所。
家はない。村はない。戻る場所はない。
残っているのは、あそこだけだ。
ムナは、縁へ飛び込むように辿り着く。背後で土が砕ける音。
鬼の足音が近い。
腕が伸びる気配。
間に合わない。
─── その時。
空気が、止まった。
音ではない。だが、すべてが一瞬で“間”を失う。鬼の動きが、わずかに鈍る。ムナの視界が、黒に引き寄せられる。
水面が、歪む。
波ではない。広がらない。
局所的に、深さが持ち上がる。
そして ─── 声が落ちる。
「……束ねて来たか」
低い。重い。感情の色を持たない声。
「数を頼りにするのは、貴様らの習いか」
鬼たちが、止まる。初めて、足が止まる。視線が、水へ落ちる。
一体が、呟く。
「……来る」
別の一体が、喉を鳴らす。
「あれは───」
言葉が、続かない。
だが、一体の鬼が言う。
「あれは───」
「底守だ……」
その名が落ちた瞬間、空気が一段、沈む。
水面の一部が、割れるのではなく、“位置を変える”。
長いものが、そこにある。確かに“在る”。
表皮だけが現れる。
鱗のようで、鱗ではない。形を保つ粒子の連なり。青とも紫ともつかない現実のものではない光が、角度ごとに色を変える。
触覚のようなものが、他のヲニよりも多く、ゆっくりと空間を探る。
その背後に、二つの影。
無名の「ヲニ」が二体、控えている。
次の瞬間
─── 背後の一体が消えた。
横に、わずかにずれる。
だがそのまま、鬼が引かれる。
足が地を離れ、胴が折れ、首が後ろへ引かれる。
水に触れたかどうかも分からない。だが、半分が消え、残りも続く。
音が遅れて来る。
骨が、乾いた枝のように折れる音。
それだけだ。
水面は、すぐに元へ戻る。鬼たちの列に、空白ができる。
誰も、声を出さない。
先頭の"ヲニ"の声が、もう一度落ちる。
「……理解していない顔だな」
わずかな間。
「貴様らが束になろうと、ここでは無意味だ」
触覚が、ゆっくりと広がる。
「ここは、貴様らの場ではない」
鬼の一体が、唸る。恐怖ではない。だが、足が前に出ない。距離を測っている。逃げるか、行くか。その間で止まる。
底守が、続ける。
「餌は、選ばれぬと思っているのか」
短い沈黙。
「選ばれているのは、いつも同じだ」
その瞬間。
“深さ”が、跳ねた。
水が上がったのではない。そこにあったものが、前に出た。
一撃。
触れた瞬間、五つの影が消える。
咥えた、という表現は正しくない。口ではない。だが“内側”に収まる。
外に残るのは、音だけだ。
砕ける。
潰れる。
混ざる。
五つ分の骨が、一度に折れる音が、短く重なる。
水面が戻る。
何もなかったかのように。
残りの鬼が、初めて後ずさる。
ほんの一歩。
それだけで、十分だった。
底守が、静かに言う。
「これで半分……」
「……まだ来るか」
間。
「来るなら、来い」
さらに間。
「来ぬなら、去れ」
そのどちらでもない時間が、数瞬続く。
そして、鬼たちは動いた。
前ではない。
後ろへ。
山へ。
振り返らず、散る。
判断は早い。だが、それは“逃げる”という形を取らない。最初から無かったかのように、消えていく。
ムナは、動けなかった。
膝が、地面に触れている。呼吸だけが、荒い。
目の前に在るものを、理解できない。
だが、分かる。
これは───
鬼ではない。
ヲニは ─ 底守は、ムナを見た。
目はない。
だが、確かに。
その視線だけが、重く落ちる。
そして、わずかに近づく。
水際まで。
触覚が、空気を探る。
声が、落ちる。
「……生き残ったか」
それだけだった。
水面が、静かに沈む。
底守は、姿を引く。
最初から、そこに何もなかったかのように。
ムナだけが、残る。
音もなく。
ただ、此処に。
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■第九章:底からの声
水が、応じる。音はない。ただ——“下”が、持ち上がる。そこに在る。逃げ場という概念ごと、押し潰す密度で。形は定まらない。だが、“在る”という事実だけが、絶対として固定される。声が落ちる。「……名を欲するか」間を与えない。「名は、境界だ」「名を持つものは、そこに閉じる」一拍。「貴様は、まだ“人”の中にいる」ムナは答えない。答えられない。底守が続ける。「人とは何か、分かるか」返答を待たない。「記憶の束だ」短く。「連なりだ」さらに。「“己”という誤認だ」ムナの呼吸が乱れる。だが、耳は離れない。「……助けたのか」問いが落ちる。即座に、切る。「違う」「選別した」間。「濁りを削いだ」さらに。「均した(ならした)だけだ」ムナの理解は追いつかない。だが───拒絶もできない。底守の声が、深く沈む。「人間は、自己を保存しようとする」「形を守ろうとする」「連続を欲する」「それが、腐敗だ」断定。「変わらぬものは、死んでいる」ムナの胸が焼ける。「……全部、死んだ」底守は否定しない。肯定もしない。ただ、言う。「壊れたな」それだけで、十分だとばかりに。「壊れることでしか、外へ出られぬ」ムナの指が土を掴む。崩れる。底守が言う。「“人間”とは、閉じた器だ」さらに。「割れねば、外に触れぬ」ムナの呼吸が止まる。理解ではない。侵食される感覚。「……じゃあ」声が、擦れる。「俺は、何になる」底守は、間を置かない。「まだ、何でもない」短く。「だから、削げる」ムナの目が、水を捉える。
映らない。“自分”が無い。
底守が続ける。「削げ」命令ではない。法則だ。「記憶を削げ」
─── 瞬間、ムナの母の声が一瞬だけ遠のく。ムナは一瞬だけ感じた。「それだけは嫌だ」
厳しくも、明るく優しかった父。よくムナに話しかけた。家の前で、家族で肉を食べた。優しかった祖父母の記憶。祖父の優しさ、祖母の温かさ。
声にはならない。
それでも底守は続ける。
「痛みを削げ」「連なりを断て」一拍。「“己”を壊せ」空気が、沈む。「残るのは、核ではない」さらに。「空だ」ムナの思考が止まる。理解不能。だが、離れない。「空は、満たされる」「形を持たぬものだけが、すべてを通す」ムナの喉が動く。「……それが、生きることか」底守は、即座に否定する。「違う」「それは、在ることだ」一拍。「生は、ヒトの概念だ」更に。「在は、境界を持たぬ」ムナの足が、わずかに揺れる。地面との接続が薄れる。底守が、最後に落とす。「壊れたまま、留まるか」「無へ近づくか」さらに。「どちらでも、同じだ」断定。「いずれ、消える」短い間。「だが───」ほんの僅か、間が変わる。「削ったものだけが、選ばれる」ムナの呼吸が変わる。初めて、“選択”が意味を持つ。「……どこへ」底守は、答えない。代わりに言う。「ここで死ぬな」短く。重い。「死ぬなら ───」間。「こちらで消えろ」“死”ではない。“消失”として言い換えられる。「その方が、正確だ」
ムナは、立つ。足が、まだ動く。それを確かめる。振り返る。焼けた村。何もない場所。戻らない場所。「……行く」小さい。だが、決定だ。底守は、応じない。ただ ───沈む。最初から何もなかったかのように。ムナだけが、残る。だが、もう“同じ人間”ではない。削られ始めている。まだ途中だ。戻らない。
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■第十章:ずれムナは、歩いていた。どこへ向かうのかは、決めていない。決める必要がない。足が動く方へ、ただ進む。焼けた村の匂いは背後にある。それでも消えない。皮膚の内側に染みついている。音が、違う。最初に気付いたのは、それだった。足音が軽い。踏んでいるはずの土の感触が、遅れて来る。自分の動きと地面が噛み合っていない。止まる。遅れて、止まった感覚が来る。もう一度、進む。同じだ。一歩、半歩、遅れる。自分の体が、自分から剥がれかけている。ムナは、手を見る。指は動く。握る。開く。だが ─“そこにあるはずの重さ”がない。触れているのに、触れていない。存在が、薄い。腹が鳴る。空腹だと理解する。だが、食べたいとは思わない。水も、欲しくない。体と意識が、切れている。ムナは、進む。森に入る。影が増える。だが、怖くない。怖さが、来ない。“怖いはずだ”という知識だけが、遅れて追いつく。それだけだ。匂いがする。血。新しい。ムナの足が、止まる。音はない。だが、分かる。“いる”木の向こう。二体。鬼だ。こちらに気付いていない。何かを運んでいる。腕を掴み、引きずっている。…人だ。まだ、生きている。喉が動く。声は出ていない。出せないのか、出していないのかも分からない。地面に擦れる音だけが、かすかに残る。ムナは、見ている。逃げるという選択が、浮かばない。隠れるという動きも出ない。ただ、観ている。鬼が進む。迷いがない。一定の速度。一定の方向。止まらない。逸れない。その動きに、違和感が刺さる。“戻っている”どこへ?分からない。だが ─同じだ。あの時も。連れていかれた者たちも。同じ方向へ、消えていった。鬼の一体が、顔を上げる。ムナを見る。視線が、合う。一瞬。空気が、張る。だが ─来ない。襲わない。そのまま、視線を外す。そして、進む。ムナを“対象にしない”。その事実が遅れてムナに落ちる。ムナは、立っている。何もされない。何も起きない。それが、異様だと理解する。だが、恐怖はない。ただ、観測している。鬼たちは、消える。森の奥へ。同じ方向へ。同じ動きで。その後に残るのは、音ではない。“空白”だ。ムナの中で、何かが繋がる。言葉にはならない。だが、確かに。“迷っていない”ムナは、歩き出す。鬼が進んだ方向へ。追うつもりではない。ただ理由もなく、そこへ向かう。それだけで足は動く。足のずれは、まだある。だが、気にならない。むしろ、軽い。自分が、地面に縫われていない感覚。浮いている。それが、自然になる。やがて、匂いが変わる。血ではない。もっと濃い。もっと古い。溜まり続けた匂い。生きたものと、腐りかけたものが、同じ場所で混ざり続けた匂い。ムナは、止まる。理解する。まだ見えていない。だが、分かる。単体ではない。積み重なっている。同じものが。何度も。何度も。ここへ、運ばれている。喉が動く。言葉が、形になる。「……戻ってるのか」小さく。消えそうな声。だが、確かに。「……あいつら」間。「帰ってるのか」その言葉は、空気に溶ける。だが、消えない。ムナの中に残る。まだ、答えはない。ただ、確実に、そこへ向かっている。
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■第十一章:帰るものムナは、匂いを追っていた。自分の意思で追っているのか、それとも足が勝手にそちらへ運んでいるのか、もう分からない。ただ、あの鬼たちが消えていった方向へ進むたび、空気の質が変わっていくのが分かった。湿っている。だが、水辺の湿りではない。血と、肉と、土と、長い時間そこに留まり続けた呼気のようなものが混ざっている。何かが腐っている匂いでもある。だが、完全に死んだものだけの匂いではない。まだ息をしているものと、もう止まったものが、同じ場所に積み重なっている匂いだった。木々の並びが変わる。自然ではない。誰かが通り続けた道だけが、異様に踏み固められている。獣道とも違う。細くない。もっと広い。しかも一筋でもない。何本もある。どれも、同じ方角へ向かっている。ムナは立ち止まり、地面を見る。跡がある。足跡。人のものではない。獣のものでもない。重く、深い。地面を踏み抜くように沈み、それでいて迷いがない。往復の気配がある。行きだけではない。戻りの跡もある。その事実が、胸の奥に沈む。あいつらは、偶然ここを通っていたのではない。来て、戻る。また来て、また戻る。それを、何度も繰り返している。ムナは進む。木の幹に、黒ずんだものが付いている。乾いた血だ。かなり古いものもある。新しいものもある。一本だけではない。二本、三本、さらに奥へ進むほど増えていく。枝が、低い位置で折れている。力任せに折られた跡だ。何か大きなものが、何度も通ったのだと分かる。その先に、布があった。木の根に引っかかっている。細い布切れ。元は衣の一部だったのかもしれない。泥と血で硬くなり、風もないのにわずかに揺れていた。ムナは触れない。触れた瞬間、それが誰かのものになってしまう気がした。歩く。また、布。今度は、もっと小さい。子供のものかもしれない。少し離れた場所には、髪が絡まっていた。黒く、長い。風雨に晒されてなお、そこに残っている。喉が動く。だが、声は出ない。ここは、通り道だ。そう思う。…いや、違う。通り道にしては、残りすぎている。落ちすぎている。千切れすぎている。何かが、ここを“使っている”。木々の奥が、少し開ける。開けている、というより ─ 削られている。本来の森にはない空白がある。そこだけ草が生えておらず、土が黒く踏み締められ、湿り、沈み、長い時間をかけて圧されたように硬くなっている。ムナは、その手前で止まった。音がない。虫も鳴かない。鳥もいない。風も通らない。森そのものが、そこを避けているようだった。そして、ある。骨だ。一本や二本ではない。そこかしこに、半ば埋まり、半ば露出し、白ではなく黒ずんだ骨がある。折れたもの。砕けたもの。噛み潰されたように裂けたもの。人のものとしか思えない形もある。獣のものも混じっている。見分けがつかないものも多い。ムナは、しゃがみ込む。触れない。ただ、見る。その時、低く、鈍い音が聞こえた。奥から。何かを引きずる音だ。重いものが、地を擦っている。ムナは身を伏せる。考えてそうしたのではない。体が勝手に動いた。木の影の向こうを、鬼が通る。三体。そのうち二体が、何かを抱えている。人だ。まだ生きているのか、もう分からない。腕が垂れ、頭が揺れ、足先が地面に当たるたび、小さな音を立てている。鬼たちは、話さない。ただ、進む。同じ速度で。同じ方角へ。そして、その“削られた空白”の奥へ、吸い込まれるように消えていく。ムナの目が、細くなる。見えたのは、一瞬だった。だが、確かにあった。奥に、火だ。村の火とは違う。生活の火ではない。もっと低く、赤黒く、湿って見える火。いくつもある。点ではない。集まっている。さらに、その上。杭のようなものが立っている。何本も。飾りではない。目印でもない。囲いだ。閉じるための。区切るための。ムナの呼吸が、止まる。鬼は、ただ獲物を攫っているのではない。運んでいる。集めている。戻っている。その言葉が、ようやく一つの形を持つ。喉の奥から、かすれた声が落ちる。「……住んでるのか」誰に向けたものでもない。だが、消えない。ムナの中で、その言葉はすぐに別のものへ変わる。住処。群れ。戻る場所。そして ─里。その一語が、遅れて生まれる。「……鬼にも」声が擦れる。「帰る場所が、あるのか」その瞬間、奥の闇が、わずかに動いた。見られた、と思った時にはもう遅い。一体の鬼が、こちらを向いていた。距離はある。だが、確かに、目が合った。ムナは動かない。恐怖がないわけではない。ただ、以前のように体を凍らせる恐怖ではない。もっと冷たい。もっと澄んだ、切断された感覚だ。鬼が、一歩出る。その時 ─背後の湿地が、わずかに鳴った。ぬかるみではない。もっと深い、もっと重い音。ムナは振り向かない。だが、分かる。来ている。“こちら側”のものが。鬼の動きが、止まる。ほんの一瞬だけ。それで十分だった。ムナは、その場を退く。走らない。叫ばない。ただ、木々の影へ沈むように離れる。背後では何も起きない。だが、何かが起きる寸前の空気だけが、森を満たしていた。ムナは、ようやく息を吐く。胸の奥が、静かに冷えていく。見てしまった。知ってしまった。鬼は、山から降りてくるだけの化け物ではない。戻る。運ぶ。集める。そして"棲んでいる"。ムナは唇を動かす。今度は、はっきりと。
「……鬼の里だ」
その言葉は、小さい。だが、一度生まれた以上、もう消えない。
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■第十二章:「気付いたか」
ムナは、森の影の中で止まった。呼吸が浅い。だが、乱れてはいない。胸の奥だけが、静かに冷えている。見てしまったものが、まだ残っている。火。杭。運ばれるもの。そして——戻る動き。あれは偶然ではない。狩りではない。繰り返しだ。積み重ねだ。ムナの唇が、わずかに動く。「……鬼の里だ」その言葉を確かめるように。その時。背後の湿りが音を立てた。小さく。だが、確実に。ムナは振り向かない。振り向く必要がない。もう、分かる。“来ている”水ではない。沼でもない。だが——“下”が、そこにある。声が落ちる。「……気付いたか」ムナの喉が、動く。答えない。だが、否定もしない。底守は、続ける。「戻るものは、場を持つ」短い間。「場を持つものは、絶えぬ」ムナの視線が、わずかに揺れ、森の奥を思い出す。あの火。あの囲い。あの“溜まり”。底守が、さらに落とす。「貯めている」一拍。「積んでいる」さらに。「腐らせている」その言葉で、ムナの中の映像が変わる。ただの“住処”ではない。あそこは ───集積だ。底守が言う。「ヒトは、数で意味を作る」短く。「鬼も同じだ」一拍。「だが、扱いが違う」ムナの呼吸が、わずかに深くなる。「……何をしている」問いが、落ちる。底守は答えない。代わりに、言う。「見ろ」それだけだ。命令ではない。拒否もできない。ムナは、動く。足は迷わない。さっき見た場所へ。あの“奥”へ。戻る。木々の影を抜けると、匂いが、強くなる。さっきよりも、濃い。腐敗と、生の境目が曖昧になる匂い。空気が、重い。肺に入るたび、何かが混ざる。視界の奥に、赤が見える。火だ。低い。揺れている。ムナは、木の影から覗く。そこに、あった。囲い。杭が打たれている。何重にも。逃がさないための構造。そして ─ 中。人がいる。立っている者。座らされている者。倒れている者。動かない者。動いている者。混ざっている。境界がない。腕が縛られている者もいる。そうでない者もいる。縛る必要がないのだと分かる。逃げないからだ。逃げられないからだ。その中央で、鬼が動く。ゆっくり慌てない。焦らない。一体が、何かを持ち上げる。人だ。まだ動いている。そのまま ───地面に、叩きつける。音が、短く鳴る。骨が、ずれる。悲鳴は、途中で切れる。鬼は、それを見ない。次へ行く。別の個体へ。また、持ち上げる。また、落とす。繰り返し。作業のように。意味を感じさせない動き。ムナの視界が、揺れる。だが、目は逸らさない。逸らす理由が、もうない。別の鬼が、座っている者の口を開かせる。無理やりに。そして何かを押し込む。肉だ。生のまま。咀嚼できないまま、喉に押し込まれる。吐き出そうとする。だが、また押し込まれる。呼吸が、止まる。それでも、止めない。その反応を、鬼は見ている。何かを確かめるように。ムナの喉が、動く。音は出ない。ただ、理解が進む。ここは、処理場ではない。屠殺でもない。もっと曖昧だ。壊している。残している。混ぜている。その奥。さらに奥。杭の向こう。影の中に ───更に積まれている。人だ。重なっている。まだ温度があるもの。もう冷えたもの。区別されていない。その上を鬼が踏む。また、戻る。繰り返し。ムナの視界が止まる。壊された人間が何かの形に並べられているのか…?あれは何だ… 鬼は何を持っている…?
ただ、理解が一段深く落ちる。あいつらは ──ただ食っているのではない。使っている。その時。背後の“下”が、わずかに動く。底守の声が、落ちる。「………見たな」ムナは、答えない。答える必要がない。底守が続ける。「ヒトは、壊されると終わると思う」短い間。「違う」さらに。「壊されても、使われる」ムナの指が、わずかに震える。だが、止まる。底守が、静かに言う。「それでも、ヒトで在るか」問いではない。切断だ。ムナは、目を閉じない。見続ける。その光景を。その構造を。そして——ゆっくりと、口を開く。「……違う」小さい。だが、確定している。その瞬間、何かが一つ、削れる。戻らない部分が。
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■第十三章:洒落
湿りが、静かに広がっていた。鬼の里の外縁。
血と土と、踏み潰された何かが混ざり合い、地面そのものが“柔らかく沈む”。踏むたびに、わずかな反発と遅れがある。生きているのか、死んでいるのか、その境目が曖昧な地面だった。
ムナは、その上に立っている。
目線の先 ───
杭。囲い。火。
そして動くもの ─── 鬼だ。
数は、分からない。いる、という事実だけがある。
その時。背後の“下”が、わずかに持ち上がる。底守。完全には現れない。ただ、在る。
声が落ちる。「……どうする」
「ヒトの子」
一拍。
「鬼退治と、洒落込むか」
視線を外さない。
前を見る。
あの中を。
あの構造を。
あの“使われているもの”を。
喉が動く。「……やる」
小さい。
だが、確定している。
底守は、何も言わない。ただ ───沈む。
次の瞬間。
地面が、裂けた。上ではない。“下”が開いた。底守が、出る。全体ではない。だが、十分だった。触覚が広がる。空間を撫でるように。
その瞬間——
鬼が、気付く。遅い。一体の首が、消える。音が遅れて来る。骨が、内側から砕ける音。血が、飛ばない。
吸われる。“下”へ。さらに一体。さらに ─増える。
一体、二体、三体。順番が崩れる。前にいたものと、後ろにいたものが、同時に欠ける。囲んでいたはずの密度に、穴が空く。鬼が詰める。埋めようとする。だが——埋まらない。“減る速度”の方が速い。一体が突進する。腕を振り上げる。触れる前に、腕が消える。遅れて、体が崩れる。
何を失ったのか理解する前に、もう立っていない。別の個体が跳ぶ。その軌道に、触覚が触れる。“触れた”だけだ。頭部が内側から破裂する。叩いたわけではない。引いたわけでもない。内部が、消える。殻だけが遅れて崩れる。鬼の足が、地面を踏む。踏んだ場所が、沈む。
そこにいた別の鬼が——引かれる。叫ぶ間もない。喉が開く前に、消える。音だけが、遅れて落ちる。骨と肉が、まとめて潰れる音。ムナの目が、それを追う。追えない。速さではない。現象だ。
鬼が、吠える。遅れて。怒りではない。理解できないものへの反応。数で押す。囲む。詰める。だが ─底守には“前”も“後ろ”もない。位置だけがある。そこに触れたものが、消える。それだけだ。
矢が飛ぶ。数本。何本も。空気を裂く。底守の表皮を掠める。避ける。滑るように。だが ─一本だけ、刺さる。深くではない。だが、確かに。黒の中に、異物として残る。底守は、止まらない。刺さったまま。"関係がない"。その証明のように——
次の瞬間、密集した鬼の中心が、崩れる。
十に近い数が、一度に消える。囲みの“核”が抜ける。外側だけが残る。均衡が崩れる。
鬼が、初めて“退く”。一歩。わずかに。だが、その遅れが致命になる。触覚が、低く広がる。地面を撫でる。その接触範囲にいたものが——沈む。落ちるのではない。移動する。上から、下へ。見えない層へ。音が、まとめて来る。潰れる。砕ける。混ざる。ムナは、理解する。戦いではない。均し(ならし)だ。多すぎるものを、減らしている。それだけだ。ムナの足が、前に出る。刀がある。握る。一体。来る。鬼。距離が近い。臭い。熱い。だが——怖くない。腕が動く。斬る。止まる。骨に当たる。違う。次の瞬間。押す。引くのではない。押し込む。骨が、割れる。そのまま横へ。形が崩れる。鬼が、落ちる。動かない。ムナの呼吸が、変わる。理解する。斬るという言葉が合っていない。"壊す"。それが合っている。次。また一体。迷わない。中枢を狙う。折る。構造を壊す。動きが止まる。それで十分だと分かる。
ムナの中で、何かが削れる。躊躇。嫌悪。区別。
遅れて、落ちる。
その時。空気が、変わる。鬼たちが、一斉に止まる。残っていた個体すべてが。
視線が、奥へ向く。来る。重さが違う。底守が、わずかに収束する。触覚が戻る。空間が締まる。奥の火が、歪む。そこから ───現れる。
──────
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■第十四章:応
現れたそれは、止まっていた。
動かない。
だが——
周囲が動けない。
空気が、沈んでいる。
鬼たちが、一歩、退く。
無意識に。
命令ではない。本能だ。
ムナは、息を止める。
視界の中心。
赤と、黄色。
発光している。
外からではない。
内側から。
骨格が、透けるように見える。
歪みが少ない。
他の鬼と違う。
“崩れていない”。
それが、分かる。
鬼の大将が、口を開く。
音が、遅れて来る。
咆哮。
空気ではない。
“圧”が押し出される。
地面が、鳴る。
ムナの足が、沈む。
膝が、わずかに落ちる。
立っていられない。
それでも ─
倒れない。
倒れる理由が、もう残っていない。
底守が、動く。
わずかに。
触覚が、収束する。
広がっていたものが、一点へ集まる。
“向く”。
初めて。
明確に。
対象を定める。
その瞬間 ───
底守が、止まる。
完全な静止。
触覚も、動かない。
“在る”という状態だけが、振動しながら固定される。
次の瞬間。
空間が、歪む。
音は、ない。
だが ───
押し返される。
鬼の大将の放った“圧”が、ほどける。
裂ける。
逃げる。
ムナの耳が、遅れて反応する。
それは音ではない。
だが、確かに ───
咆哮だった。
底守の。
鳴らしたのではない。
“発生した”。
存在の密度が変わったことで、生じた歪み。
それが、咆哮として現れた。
鬼たちの動きが、止まる。完全に。
前に出るという選択が、消える。
鬼の大将の目が、わずかに揺れる。
初めて。
その隙で、十分だった。
空気が、裂ける。
音はない。
だが、衝突している。
見えない層で。
鬼の大将が、一歩、出る。
それだけで——
空間が押される。
重さが増す。
近づくだけで、圧が変わる。
ムナの視界が歪む。
距離が、意味を失う。
鬼の大将が、棍棒を持ち上げる。
振り下ろす。
速さではない。
重さだ。
落ちるというより ─
“潰す”。
その軌道に、底守が触れる。
避けない。
受けない。
ただ——
“ずらす”。
底守の輪郭が揺れる。
棍棒が、空間ごと滑る。
地面に当たる。
遅れて、衝撃が来る。
音が、割れる。
地面が、沈む。
周囲の鬼が、巻き込まれて潰れる。
それを、大将は見ない。
次を振る。
連続。
止まらない。
叩く。
潰す。
潰す。
そのすべてが、底守に向かう。
底守は、崩れない。
だが ───
無傷でもない。
棍棒の縁が、表皮を削る。
浅く。
だが、確実に。
先ほど刺さった矢が、揺れる。沈み込む。
ほんのわずか、深くなる。ムナの目が、それを捉える。
底守は、気にしない。
関係がない。
それでも─── “影響はある”。
その事実だけが残る。
次の瞬間。
底守の触覚が、変わる。
広がらない。
集まる。
束になる。
細く。
鋭く。
“刺す形”へ。
鬼の大将が、踏み込む。
距離が消える。
触覚が、触れる。
一瞬。
何も起きない。
次の瞬間 ───
大将の動きが、止まる。
完全には止まらない。
だが、鈍る。
棍棒が、わずかに遅れる。
ムナの喉が、動く。
理解が、追いつく。
毒だ。
触覚から。
流し込まれている。
鬼の大将が、吠える。
さっきとは違う。
乱れる。
動きが、重くなる。
それでも、振る。
止めない。止まれない。
その執着だけが残る。
底守が、初めて“踏み込む”。
前へ。
ではない。
“内側へ”。
距離を無視して、そこに在る。
口が、開く。
形ではない。
ただ、裂ける。
鬼の大将の肩へ。
噛み付く。
音が、遅れて来る。
骨。
砕ける。
厚い。
だが、関係がない。
噛むのではない。
“削る”。
持っていく。
内部ごと。
鬼の大将が、崩れる。
膝が落ちる。
それでも、完全には倒れない。
支える。
まだ、立つ。
その異様さが、残る。
ムナは、動けない。
そして理解する。
これは、戦いではない。
定義の衝突だ。
鬼の大将が、笑う。
初めて。
血を吐きながら。
それでも、笑う。
「……やっと、来たか」
「……私の名は黄魔だ。覚えておけ、ヒト」
声が、酷く割れている。
だが、意味は通る。
底守は、答えない。
ただ、在る。
大将が、黄魔が、続ける。
「俺たちは……上じゃない」
息が乱れる。
だが、止めない。
「もっと上が、いる」
空気が、変わる。
ムナの中で、何かが引っかかる。
「形が、ない」
大将の目が、歪む。
「命令だけが来る」
吐き出す。
「逆らえない」
その瞬間。
底守の触覚が、わずかに止まる。
初めて。
ほんの一瞬だけ。
“判断”が入る。
ムナの目が、開く。
黄魔が、鬼の大将が、笑う。
崩れながら。
「……だから、狩る」
「止められない」
沈む。
完全に。
力が抜ける。
それでも——
まだ、生きている。
終わっていない。
底守が、低く言う。
「……借りはある」
短い。
「ヒトに」
間。
「だが、情ではない」
更に。
「均す」
それだけだ。
ムナの呼吸が、深くなる。
鬼たちが、動かない。
誰も、前に出ない。
ただ ─
見ている。
選ばれるのを。
底守が、動く。
とどめへ。
ムナの中で、何かが決まる。
まだ、言葉にはならない。
だが ─
次へ進むしかない。
━━━━━━━━━━━
■第十五章:均
底守が、動く。
とどめへ。
鬼の大将、黄魔は、膝をついたまま、崩れない。
崩れきらない。
肩は削がれている。
骨は露出している。
それでも——
立とうとする。
その意思だけが、残っている。
ムナは、見ている。
動かない。
動けない。
底守が、近づく。
距離ではない。
“重なり”が増す。
鬼の大将の呼吸が、乱れる。
音が、濁る。
だが─── 笑っている。まだ。
「……殺せ」
吐き出す。
血と一緒に。
「それで終わるなら……楽だ」
ムナの目が、わずかに動く。
その言葉に。
底守は、止まらない。
止まる理由がない。
ただ——
口が、開く。
裂ける。
次の瞬間——
ムナの足が、動く。
無意識に。
考えていない。
理由もない。
ただ、前へ。
「……待て」
声が出る。
自分でも分からない。
なぜ止めたのか。
底守の動きが、わずかに止まる。初めて。
明確に。
“外部”によって。
鬼の大将の目が、ムナを見る。
笑う。
歪んだまま。
「……ヒトが……止めるか」
ムナの喉が、動く。
言葉を選んでいない。
ただ、出る。
「……終わってない」
何が、とは言わない。
言えない。
だが——
確定している。
黄魔が、息を吐く。
崩れながら。
「終わってないのは……俺たちじゃない」
一拍。
「上だ」
何故か、黄魔の声が変わる。
「上」と呼ぶ時だけ。
ヒトの声だ。明らかに。
その言葉で、空気が変わる。
ムナの中で、何かが繋がる。
鬼は、原因ではない。
結果だ。
底守が、低く言う。
「命令か」
黄魔が、わずかに頷く。
「来る」
短く。
「見えない」
さらに。
「形がない」
ムナの背筋が、冷える。
だが、恐怖ではない。
理解に近い。
「……どこから」
問う。
黄魔が、笑う。
力なく。
「上だと言ったろう」
視線が、空を向く。
だが、そこではない。
もっと外。
「ここじゃない」
底守が、沈む。
わずかに。
思考ではない。
“測っている”。
黄魔が、続ける。
「逆らえない」
短く。
「だから狩る」
「止められない」
ムナの拳が、わずかに握られる。
その感覚が、薄い。
だが、確かにある。
底守が、言う。
「従っているだけか」
黄魔が、鬼の大将が、笑う。
血を吐きながら。
「違う」
一拍。
「“従わされている”」
その違いが、落ちる。
重く。
ムナの中に。
底守の触覚が、わずかに揺れる。
初めて。
“判断”が、深くなる。
沈黙。
長くはない。
だが、重い。
底守が、言う。
「ならば」
一拍。
「均す対象は、上だ」
黄魔の目が、わずかに開く。
「悪魔…だ…」
初めての変化。
ムナが、息を飲む。
底守が続ける。
「ヒトに借りはある」
短く。
「だが、それは感情ではない」
さらに。
「構造だ」
鬼の大将が、理解する。
ゆっくりと。
「……共に、か」
その言葉は、確認ではない。受け入れだ。
底守は、答えない。
だが——
否定もしない。
それだけで、十分だった。
周囲の鬼たちが、動かない。
襲わない。
ただ、見ている。
ムナを見る。
底守を見る。
そして——
道を空ける。
命令はない。
声もない。
だが明確だ。
敵ではない。
少なくとも——今は。
ムナの中で、何かが決まる。
言葉にはならない。
だが、方向が定まる。
鬼を斬る対象として見ていたものが、変わる。
違う。
こいつらは——
“下”だ。
使われている側だ。
底守が、動く。
今度は、ゆっくりと。
鬼の大将へ。
とどめではない。
触れる。
触覚が。
その瞬間——
毒が、流れる。
殺すためではない。
止めるための量。
鬼の大将の体が、崩れる。
完全に。
意識が、落ちる。
だが、死んでいない。
残している。
ムナは、それを見る。
理解する。
これは ───
選別だ。
敵ではなくなったものは、消さない。
底守が、振り返る。
ムナを見る。
言葉はない。
だが伝わる。
次へ行く。
ここではない。その先へ。ムナは、頷かない。
だが、動く。
それで十分だった。
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■第十六章:並
鬼の里は、まだ雨が降っていた。湿っているのに火は消えない。
肉と脂が混ざり、燃え続けている。匂いは濃い。逃げ場がない。
ムナは、その中に立っている。さっきまで敵だったものの中に。
違和感はない。あるはずの嫌悪も恐怖も来ない。ただ、鬼がそこにいるという認識だけがある。
数は減っている。それでも多い。
そのすべてが動かない。襲わない。
ただ見ている。ムナを、底守を、そして互いを。
一体の鬼が動く。
倒れている人間の腕を持ち上げる。途中で止まり、落とす。
別の鬼が動く。
別の人間の腕を持ち上げる。同じように止まり、落とす。
さらに別の鬼が動く。掴む。確かめるように持ち上げ、やはり途中でやめる。
それ以上は何もしない。
“やらなくなった”。
その違いだけが残る。
ムナの足元に、まだ息のある人間がいる。
鬼が近づき、首に触れる。
一瞬で折る。
音が短く鳴る。
それだけだ。
苦しみは続かない。終わる。
別の場所でも同じことが起きる。囲み、触れ、順に終わらせる。奪い合わない。急がない。
ムナの心が変形する。
先頃まで共に生きて、活きていた、あの人々が"終わらせられていく"。
心がねじ曲がるのを、必死に抑える。
─── これは救いか。否、ただの均しか。
ムナは理解する。
底守が在る。姿ではなく、圧として。その存在が、全体を揃えている。鬼たちの動きが流れになる。誰も命じていないのに、同じ動作を繰り返す。
ムナはその中に立っている。外でも内でもない。
鬼の大将がわずかに目を開く。完全には起きていない。それでも分かっている。変化を。これからを。
ムナは視線を逸らさない。何も感じないまま見返す。その事実だけが残る。
やがて動くものが減る。完全に動かないものだけが残る。空間が軽くなる。だが匂いは濃くなる。
底守が向く。外へ。海の方角へ。
鬼たちの一部が動く。声はない。だが揃う。理由は示されないが、明確だ。
ムナも動く。止まる理由がない。
一体の鬼が近づく。距離は近い。
だが襲わない。目だけが合う。
そこには何もない。ただ“次へ進むための存在”があるだけだ。
ムナは理解する。
共闘ではない。共存でもない。
方向が一致しただけだ。
列が動き出す。静かに、確実に。森の外へ。海へ。その先へ。
ムナは振り返らない。
終わったものと、始まったものの区別も、もう必要ない。
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■第十七章:渡る
海は、静かすぎた。波がない。
揺れはあるが、それは水の動きではない。下から押されている。何かに持ち上げられている。
ヲニ達が進む。数十、水面すれすれを滑る。
沈まない。浮いているわけでもない。“そこに固定されている”。
その背に鬼が乗る。数体ずつ。
重さは関係がない。均されている。
ムナは底守の上にいる。青とも紫とも取れる鱗が、波のない海に歪む。掴む必要はない。落ちない。“離れない”ようにされている。
列は無言で進む。方向が一つだからだ。
やがて空気が変わる。最初に変化したのは底守だった。
完全には止まらないが、動きが鈍る。
同時に黄魔も顔を上げる。嗅いでいる。
匂いではない。“情報”をだ。
ムナには分からない。ただ内側がざらつく。
海の先に、島がある。黒い。
だが輪郭が定まらない。見ているのに確定しない。
黄魔が低く言う。
「……居るな」
底守は答えない。
ただ“深くなる”。
それが応答だ。
海ではない。
空からだった。
何かが空を横切る。
速い。
鳥の形をしているが、羽ばたかない。
“滑っている”。
影が本体とずれている。
視線だけを感じる。
一体、消える。
底守の触覚がわずかに動いた。それだけだ。
だが消えない感覚がある。“見られている”。
黄魔が歯を鳴らす。
「……覗かれている」
島が近づく。進んでいる感覚がないのに距離が詰まる。
水の質が変わる。重く、絡む。底守の進みがわずかに遅れる。それでも止まらない。
列はそのまま岸に触れる。音はない。波がないからだ。
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■第十八章:門
入口は一つしかなかった。
他は石で固められている。
積まれているのではない。一枚の塊のように継ぎ目がない。
中央に門。“通れる状態”だけがある。
左右に石像。
羽を持つ。
人の形に似ているが比例が合わない。顔は彫られているのに認識できない。見れば見るほど記憶から抜ける。
その瞬間、石像が動く。音はない。
“位置が変わる”。
一体が前に出る。遅いが避けられない。
鬼が一体、前に出る。棍棒を振る。叩く。石が砕ける。
だが次の瞬間、戻る。
壊れていない。“維持されている”。
これは ─── 何かが違う。
ムナが一瞬、自分が何をしに来たのか忘れる。
黄魔は命令を再受信しかける。
底守の輪郭が一瞬、固定される。
石像が手を伸ばす。触れた。それだけで鬼の胸がへこむ。
内側から潰れる。音が遅れて来る。
黄魔が吠える。
棍棒を構え、今度は叩かない。“潰す”。圧で歪ませる。石像の上半身が崩れ、戻りが遅れる。
その隙にもう一撃。
砕ける。今度は戻らない。
だがその瞬間、“中身”が逃げる。見えない。だがそこにいたものが移動したのが分かる。
“物に宿る”。
別の石像が動く。今度は速い。
距離が消える。
鬼が数体同時に潰れる。防げない。
底守の触覚が触れる。変化がない。毒が効かない。通じていない。
初めての事実。
底守がわずかに沈む。“対応”している。
海が動く。
遅れて。渦が生まれる。小さいが深い。底守が引く。水を石像へ。
一体が沈む。水に触れる。その瞬間、重くなる。
動きが鈍る。
さらに引く。
渦が広がる。
巻き込まれる。戻らない。“位置を外される”。
黄魔が理解する。
水に触れた石だけを叩く、砕く。今度は水へ引き込まれ戻らない。
ムナも動く。斬るのではない。“押す”。水へ触れさせる。
その瞬間に鬼が叩く。砕く。
連携が成立する。
数体の石像が崩れる。まだ残る。だが ─ 倒せる。
門の奥は暗い。何も見えない。だが確実に“見られている”。
底守が止まる。黄魔も、ムナも止まる。
全員が理解する。
ここから先は ─
今までと同じではない。
━━━━━━━━━━━
■第十九章:境
門の内側は、音がなかった。
外では確かにあったはずの、火のはぜる音も、骨の砕ける音も、ここには届かない。遮断されているのではない。最初から存在しなかったかのように、消えている。
地面は硬い。だが石ではない。踏めばわずかに沈む。だが戻らない。足跡が残るのではない。“位置が書き換わる”。
ムナは、一歩進む。
その一歩が、重い。
体ではない。
“判断”が、重い。
背後に、気配がある。
振り返らない。
分かっている。
黄魔だ。
気配が近い。
だが、敵ではない。
それも、分かっている。
その状態が、奇妙だった。
「……ヒト」
黄魔の声は、低い。
戦いの時とは違う。
削れている。
「お前は、まだ残っているな」
ムナは答えない。
問いではないからだ。
確認だ。
ムナは、自分の手を見る。
震えていない。
血が付いている。
だが、拭おうとは思わない。
「……何がだ」
遅れて、言葉だけが出る。
黄魔が、笑う。
音は小さい。
だが、確かに笑っている。
「境だ」
一拍。
「こちらにも、あちらにも、落ちきらない」
ムナの喉が、わずかに動く。
理解はできる。
だが、受け入れていない。
まだ。
「……お前は」
ムナが言う。
「どっちだ」
黄魔の動きが止まる。
完全ではない。
だが、流れが途切れる。
その間が、答えだった。
「……選べなかった」
短く。
「だから、削られた」
ムナは、視線を上げる。
黄魔を見る。
その体は、崩れている。
底守に削られた傷。
まだ塞がっていない。
だが、それ以上に——
“形が保たれている”。
鬼でありながら。
壊れていない。
「従わされている」と言った時と、同じ顔だ。
ムナの中で、何かが引っかかる。
「……じゃあ、今は」
黄魔が、答える。
間を置かない。
「選んでいる」
ムナの胸が、わずかに軋む。
痛みではない。
“違和”だ。
その時。
底守が、在る。
現れない。
だが、確定する。
空間が、沈む。
会話が、止まる。
終わるのではない。
“意味を失う”。
底守の声が、落ちる。
「ヒトは、境を恐れる」
断定。
「鬼は、境を持たぬ」
さらに。
「だから、従う」
ムナの視線が、わずかに揺れる。
黄魔が、笑う。
今度は、はっきりと。
「その通りだ」
自嘲ではない。
理解だ。
底守が続ける。
「お前は、まだ持っている」
ムナへ。
「削げ」
短い。
命令ではない。
事実だ。
「残しても、腐る」
ムナの手が、わずかに動く。
握る。
開く。
何を削るのか。
分からない。
だが——
分かっている。
“まだある”。
それが問題だ。
「……全部か」
問い。初めて。
底守は、間を置く。
ほんのわずか。
「核だけ残せ」
ムナの呼吸が、止まる。
核。
何がそれなのか。
誰も教えない。
教えられない。
だから——
削るしかない。
黄魔が、横に並ぶ。
距離が近い。
敵だった距離。
だが、襲わない。
「ヒト」
低く。
「削りすぎるな」
ムナの目が、動く。
黄魔を見る。
「消えるぞ」
短い。
だが、重い。
底守が、否定しない。
それだけで、意味が変わる。
ムナの中で、初めて“選択”が生まれる。
削るか。
残すか。
どこまでか。
その時。
前方の“闇”が、動く。
いや——
“気付く”。
こちらに。
見ている。
ではない。
“認識されている”。
底守が、沈む。
さらに深く。
黄魔が、棍棒を構える。
ムナの足が、前に出る。
迷いは、まだある。
だが——
止まらない。
境のまま。
進む。
それが、今の答えだった。
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