第8話『抱擁』
白雪──天樞の陪花として制度登録された少女。
彼女は、祭礼の壇上で倒れた直後から、天樞の医務室に移され、イーヴによって治療・観察下に置かれていた。
倒れた原因は、祭礼当日に侍女控室に置かれていた「菫の花びらの砂糖漬け」と推定されている。
その菓子皿だけが、帳簿から消されていた。
イーヴは、そのことを報告の一部としてカミーユに提出していたが、今は目の前の彼女を看ていた。
薬効の反応は落ち着いてきており、痙攣や熱も引いていた。
だが、深層神経への毒の影響は長引いており、意識の回復にはなお時間がかかる見通しだった。
彼は静かに彼女の額に手を置き、呼吸のリズムと脈を確認した。
そのとき──
「……イーヴ、さま……」
かすれた声が、唇から漏れた。
イーヴはすぐさま身を起こし、顔を覗き込んだ。
「白雪さま、目を開けていただけますか?」
彼女の睫毛が微かに揺れ、瞼がゆっくりと開かれた。
光に目を細めながら、彼女は焦点を合わせようとする。
「……ここは、……お部屋?」
「はい。天樞の館の医務室です。倒れた後、こちらにお運びしました」
「……わたし、また、なにか……失礼を?」
その声音には、まだ眠りの残響があった。だが、自責の色もあった。
イーヴは、静かに首を横に振る。
「何も間違っていません。むしろ、耐えてくださいました。
……あの毒は、“意図的に人格を壊す”ことを目的とした調合式でした。
ですが、白雪さまは壊れなかった。それは、あなたの心が健やかだった証拠です」
彼女の目が、ほんの少し潤んだ。
イーヴの手をそっと握る。
「……夢を、みていました。
たくさんの声がして、何かを叫んでいて、でも、どこにも行けなくて……。
最後に、イーヴさまの声がしたから、帰ってこられた気がします」
イーヴは、静かに微笑んだ。
「私の声などより、ご自分の意思で戻ってこられたのです」
白雪は、しばらく何かを考えていたが、やがてぽつりと言った。
「……戻ってきて、いいのでしょうか。
また、ここにいていいのか、不安になります」
それは“天樞の室”という立場についての問いだった。
陪花として制度登録されたとはいえ、藩枝出身である彼女は、制度の中では常に“異物”と見なされる危うい立場にある。
イーヴは答える前に、そっと彼女の手を取った。
「白雪さま。制度がどうであれ、あなたをここに迎えたのは、天樞さまご自身です。
そして──私は医務担当として、ここにいてほしいと願っています。
……あなたが戻る場所を、守る人間がいる。それだけは忘れないでください」
その言葉に、白雪は小さく頷き、目を閉じた。
そのまま、彼の手の温もりを握ったまま、再び静かに眠りへと戻っていった。
イーヴは、ふたたび脈を確認し、軽く頷いた。
あとは時間と、彼女の意志が整うのを待つだけだった。