第7話『愛ゆえの命令』
アーシュラ=レイディンは、天璇に仕える主花である。
星の座・天璇の補佐役として制度上最上級の花位を与えられ、陪花たちを指導し、香や衣服、儀礼の監修に携わる立場にあった。
本来、彼女が他の星の座に対して私的な接触を持つことは、制度上は許容されていない。
だがこの日、彼女が密かに呼び出したのは、天權・ヴォルテ=ヴァレリオン。
天璇の星の座ではなく、まったく別系統の星の座である。
帳簿室の裏、小さな控えの間で、ふたりは対面していた。
「ご足労、ありがとうございます。天權さま……いえ、ヴォルテさま」
アーシュラの言葉遣いは丁寧だったが、呼び方には私情が滲んでいた。
この星の庭において、星の座の本名を呼ぶのは、制度を越えた関係性を示す。
ヴォルテは表情を変えずに椅子に座った。
「非公式な呼び出しだ。制度上の報告義務は免除されないと理解しているな?」
「はい。ですが、どうしても、個人としてお伝えしたいことがありました」
アーシュラは手を膝に置き、背筋を伸ばして視線を合わせた。
「白雪──あの陪花が、祭礼の壇上に上げられた件について、私は……納得ができていません」
ヴォルテの目がわずかに細くなった。
「制度上、彼女は天樞の室に登録済みの陪花であり、天の砦における正規登録も済ませている。
祭礼への登壇は、制度的に許されたものだ」
「それは理解しています。ですが、私は、“星の座たちが、あの子を見ていた”その空気に、どうしても……」
アーシュラは言葉を切った。口調を整え、再び続ける。
「私は、制度の内側で最善を尽くしてきたつもりです。天璇の主花として、常に均衡を守ってきました。
それなのに、“藩枝出身で無名だった侍女”が星の座の注視を集め、壇上に立つ。
しかも──天樞だけでなく、貴方まで、彼女を見ていた」
そこに込められた“怒り”とも“哀しさ”ともつかない感情を、ヴォルテは静かに受け止めていた。
「私は、嫉妬しました。
制度に守られてきた私の価値が、誰かの“美しさ”や“偶然の選択”で簡単に上書きされていくことに」
アーシュラの両手が、膝の上で小さく震えていた。
だが、彼女は言い切った。
「……私は、壇上で彼女が倒れた瞬間、胸の奥で“これで終わりだ”と思ってしまったのです」
沈黙が落ちた。
ヴォルテはわずかに体勢を崩した。
彼にしては珍しく、短く息を吐いた。
「つまり──その一瞬で、制度よりも私情を選んだ、ということだな」
「はい」
「では、尋ねる。
例の菓子皿──祭礼当日、侍女控室に置かれていた“記録にない一皿”について。君は関与しているか?」
アーシュラの肩が一瞬だけ、震えた。
答えない。だが否定もしない。
代わりに、顔を伏せて言った。
「主花として、帳簿に従って配膳指示を出した記録があります。以上です」
「制度を利用して、制度に触れずに逸脱した──そういう解釈も可能だ」
「そう取られても仕方ありません」
ヴォルテは席を立った。だが扉には向かわなかった。
しばらく黙ったままアーシュラを見て、静かに告げた。
「君は優秀な主花だった。だが、“選ばれなかった”自分をどう処理するかを、君は制度から学ばなかった。
それが、今の君を壊している」
「……ええ。自分でもそう思います」
「処分は行わない。帳簿の整理と補正は、私が引き受ける。
だが、次はない。次があれば、それは君の記録そのものを削除する対象になる」
アーシュラは黙って頭を下げた。
ヴォルテは部屋を後にした。
彼女の両手は、まだ膝の上で固く握られたままだった。