第一話 夜
昔から夜が好きだった。
昼間の喧騒からかけ離れて取り残された人が残すうわ言。それを飲み込む静寂。
申し訳程度に灯る街頭。一つ角を曲がれば、それすらなく暗闇に包まれる。
昼間は人で溢れていた道を、今は僕一人が歩く。
まるで、世界に僕一人取り残されてしまったような感覚。
あるがままの世界が静かに浮かび上がる、そんな夜が好きだった。
----------------
親の転勤は突然だった。
正確には単身赴任で、親と話し合い、僕はこの街に残ることを決めた。
友達がいなくなるのが嫌だった…いや、違う。正直に言えば、学校の環境が変わるのが嫌だった。
友達が変われば、話す内容も、振る舞いも、変えなきゃいけなくなる。これを自覚してやる人は少ないだろう。
僕も実際無自覚でやっている。でもそれをするには体力がいる。転校初日に疲れ果てて家に帰る姿は想像に難くない。
疲れることは嫌いだ。誰だって好きな人はいないだろう。だから僕は変化を嫌ってこの街に残ることにした。すごく消極的な理由だ。でもそれでいいと思っていた。周りに変化がない停滞。いつも流されている僕のかすかな抵抗。まるで急流に揉まれる一粒の小石のようだ。
そのわずかな社会への抵抗は、どうやら許されたらしい。
結果、僕は一人暮らしをすることになった。
家も、部屋も、置いてある家具も、何も変わらない。
だけど、親がいなくなったと思った瞬間、空間が急に広く感じられた。
それだけ、人は人に圧を与えているのだろう。
それが例え家族だったとしても。
僕には、それが息苦しかった。
学校でも、家でも常に圧を与えられている。休める場所は帰り道くらい。
一人暮らしを始めてようやくわかった。僕がいつも見ていたのは人の顔ではなく、人の顔色ばかりだった。
圧迫感とストレスだけが積もっていく毎日。たまに行くカラオケや散歩でどうにか爆発することを抑えていたけれど、限界が近かった。
そんな世界の中で、ようやく―僕に自由が訪れたのだ。
----------------
一人暮らしを始めて、初めての夜。眠れなかった。緊張している部分があったのだろう。
眠れない中、ふと外を見てみた。変わらぬ星空。誰もいない街道。いつも通りの景色だ。
だけど、なぜだろうか。いつも通りの景色のはずなのに、なぜかいつもとは見え方が違った。
僕はそれを確かめるために夜の街に繰り出すことにした。
夜の空気は冷たい。だけどそれがどこか心地いい。
昼間にあった喧騒はなりを潜め、静けさが支配する。世界が眠り、僕だけが取り残されてしまったようだ。
街中に僕の足音だけが響く。コンビニの明かりが照らす道を通り過ぎ、僕はそのまま真っ暗な道へと歩みを進める。どこを目指すでもなく、当てのない道を夜の静かな空気を感じながら進んでいく。
この夜の前では誰もが誰もに関心を寄せることがない。ただひたすらそこにあるだけである。
人のいない街は、僕にとって初めて圧を感じない、誰にも合わせなくてもいい、優しい世界だった。
学校では誰もが、「あの子は優しい」なんて言うけれど、どれもほんとの優しさではないのだと、夜の世界を歩いていて思う。
本当の優しさはそんな自分を見つめさせてくれる何かなんじゃないかと思う。人の言う優しいってのは結局、自分に都合がいい、と置き換えられる。
こんな考えに至れたのもこの夜の世界に足を踏み出せたからだろう。夜の世界は不思議だ。今まで無意識に感じていたことを考えて言葉にできる。いろいろな考えがまとまる。やはり僕は夜が好きだ。昔から好きだったけれど、今回夜に外に出て改めてそう感じた。これからも夜は時々散歩をしよう。そう思うほどに。
そんなことを考えながら歩いていると、どこかから鼻歌が聞えてきた。透き通るようなきれいな音。
僕はその音に誘われるように歩いていく。
そうやって歩いていくと、遠くに公園が見えてきた。暗い道に等間隔に並ぶ街灯が公園の入り口だけを照らし出している。きっとこの鼻歌を歌っている人物はその公園にいるのだろう。
公園の入り口にたどり着いた僕はざっと公園の中を見渡す。そこまで広い公園ではない。入り口からすべてを見渡せるくらいの広さしかない。遊具は滑り台とブランコのみ。後はベンチが並んでいるだけだ。
並んでいるベンチの一つに人影が見えた。ちょうど街灯の下にあるベンチだ。そこにはまるでスポットライトに照らされているように少女が佇んでいた。僕と同じ学校の制服を着ている。きっと僕と近い年齢なんだろう。あんなところで何をしているのだろうか。気になった僕は公園の中に入り、少女へと近づいて行った。
僕が少女に近づくと彼女は鼻歌を止め、ベンチの上で少し身構え、警戒を露わにする。
「…何か用?」
「…いや、特に何か用があるわけではないんだけど」
「だけど…何?」
「こんな夜更けに君一人でこんなところにいるから何してるのか気になって…」
「私はただ…何でもない。君には関係ないこと」
突き放すような言い方だった。僕とは…いや誰とも関わりたくないと言っているようだ。僕はその理由が無性に気になった。
僕自身誰かと関わることは怖いし疲れる。いつもの僕ならこの状況でも関わろうとはしなかっただろう。だけど、この夜の不思議な感覚が僕を狂わせた。気の迷い。気まぐれ。言葉にするならそんな感じだろう。
「確かに僕には関係ないね。ならさ、僕の話を聞いてくれない?今ここで座っているだけってことは暇なんでしょう?」
「…勝手にすれば」
そう言いながら彼女は少しだけベンチの端に寄る。僕は彼女の隣に腰かけて、最近あったことを何気なく話す。それは他愛無いことで、「今日親が単身赴任に行って、一人暮らしになった」だとか、「学校でバカなこと言いだしたやつがいた」だとか。笑い話にすらならない他愛ない話だった。
そんな僕の話を聞いていて、彼女はきっと僕がどんな人間か悟ったのだろう。唐突に
「君って…周りに流されてるだけで何も考えていないんだね」
そんなことを言ってきた。ほんとに唐突だった。なんせ僕が他愛無い話をしている途中にぼそっと呟いただけなんだ。だけどなぜだろうか。その時の僕にはその言葉がぐさりと心に刺さった。
図星だったから。周りの顔色を窺ってただ流されているだけ。きっと僕の話の端々ににじみ出ていたのだろう。楽しそうに話していたつもりだけど、それでも少しつまらないと思っていた自分の感情が。
驚いて彼女の顔を見た。だけど彼女は僕の方を見ず、ただ膝を抱えて下を向いている。
「君は…人と関わる時、顔色を窺わない?嫌われることが…怖くない?僕は正直怖いよ…。だから人の顔色を窺って…嫌われないよう立ち回って…君はどうなの?」
僕の唐突な質問。彼女は少しだけ驚いた顔をこちらに向けた後、再び下を向き僕の質問に答えてくれた。
「私は…私は怖かった。嫌われることじゃなくて一人になってしまうことが…。でも、結局一人になっちゃった。だから私はもう誰の顔色も窺わない。もう…窺う人がいないの…」
そう言って彼女はベンチから立ち上がり、公園の入り口へと歩いて行った。
あとに残された僕は、まるで夢でも見ていたかのように、しばらくその場で呆然としていた。
気を取り戻し、家へ帰ろうと歩き出した僕の足取りは、行きとは打って変わって重かった。