七話
『おとうさま……』
セレネの記憶の中で、父はいつも背中を向けていた。
決して振り返ってはくれない父と、その後ろ姿に呼びかける幼子は、一体周囲にはどう映っていただろう。
心ある者は不憫がり『陛下は今お忙しいようですから、また後で参りましょうね』と、もっともらしい言葉で、幼いセレネをその場から連れ出した。
野心ある者は、値踏みするような目でその様子を観察し、これから自分たちがどう動くべきか算段を立てていたに違いない。
セレネは……幼い頃のセレーネレシェンテ姫は、寂しさを抱えた子どもだった。
だから、迷い込んだ老犬を父に内緒でこっそりと保護し、話し相手にしていたのだ。
――実際は、周囲の大人達にばれていただろうが、誰もがなにも言わないでいてくれた。
いつもは厳しい母すらも、見て見ぬ振りで通してくれていたのだ。母である前に王妃という立場にある彼女は、自分だけでは娘の寂しさを埋めてあげられないと分かっていたから。
『あのね……おとうさまは、きょうもおいそがしかったの』
小さな姫は、老犬に持ってきた食べ物を差し出しながら話しかける。
それが、常だった。誰も、一人と一匹の邪魔はしない。
けれど、その日は例外が起こった。
挨拶もなく、本当に突然、声をかけられたのだ。
『貴方は、その野良を餌付けして、どうするつもりだ』
『え?』
『飼うのか?』
『あ、あの……?』
『そうやって、後先を考えずに餌を与え、他の野良犬共が忍び込んできたら、どうするつもりだ? またへらへらと笑ってなにも考えず、餌を与えるのか?』
突然現れた子ども。セレーネレシェンテより年上の子どもだったが、初対面であるはずの相手は、かなり怒っているようだった。
不穏さを感じ取ったのか、普段はおとなしく行儀のいい老犬が身を起こし、ぐるぐるとうなり声をあげる。
『しつけもされていない、野良だ。こんなのが増えたら、どうしてくれるんだ』
『食べ物は、この子にしかあげないわ』
『なに?』
『だって、この子はわたしが見つけて、わたしのそばにいてくれる子だもの。特別だから』
『――露骨な特別扱いか。……王家の姫が、聞いて呆れる。……こんなのが僕の――だなんて――』
『え?』
子どもは、怖い顔のまま言った。
『そんな犬は、さっさと追い払え。空いていた穴は、明日には塞がれるといっていたからな。城に、姫自らが汚い野良犬を招き入れていたなんて、なんてことだ』
そう吐き捨てて、子どもはさっさと行ってしまった。
なんだか、とても酷いことを言われた気がして、セレーネレシェンテは涙した。
すると、生け垣がガサガサと音を立ててゆれる。
『なんだ、せっかくオレが脱走用に空けた穴、塞がれちまうのか』
にょきっと生えた頭が、のんびりとした口調でそんなことを言った。
『ひどい奴だな、あいつ。そう思わないか、じーさん』
ウォンと老犬が鳴く。
それはまるで、相づちのようだった。
セレーネレシェンテは涙を忘れ、生け垣に生えた生首にキラキラした視線を向けた。
『すごい! くびだけお化けさんは、どうぶつとおはなしできるのね!』
『え? いや、オレは胴体も普通にありますが……』
『まあ! くびだけじゃないお化けさんなの!』
『そもそも、お化けではありません』
『あら、そうなの? わたし、とつぜんくびが出てきたから、おどろいてしまって、ごめんなさい』
『うわ、素直!』
言いながら相手は生け垣から出てきた。
あちこちに葉っぱをつけたその人は、騎士の衣に身を包んでいた――。




