三話
夜が来て、セレネの住まう塔には、いつも通りの静けさが戻っていた。
行き倒れの青年は、あの後メリッサに促され塔を出て行った。
メリッサも、今日はそれっきりで、夕飯を作りに来たのは別の女性だった。
女性は、メリッサは急用が出来たと話していたが、言葉を濁しているのは明らかで、何か問題があったのだろう。
それは、おそらくあの青年に絡むことだと察し、セレネは「そうなの」と笑って引き下がった。
夕飯を作り終えると、彼女も足早に戻っていったのだから、もしかしたら島中に話題は広がっているのかもしれない。
(脱獄を示唆したようなものだもの。王の正式な書面がない限り、領主も彼をうかつに解放できないのでしょうね)
事情聴取として、最も近くにいたメリッサが選ばれるのは当然だ。彼が口にした「王命」という言葉は、そのまま聞き流してよい類のものではなかったので、真偽確認のために領主の元へ連れて行かれたに違いない。
けれど、セレネにとっては、真偽などどうでもいい。
書面を示せと言ったとき、彼はなにもしなかった。証明できる類のものなど、なにも持っていなかったに違いない。
(陛下は……あの方はきっと、なにも知らない彼を利用し、わたしを煽動して、今度こそ消してしまおうと思ったに違いないわ。……お母様の時みたいに)
ありもしない罪をでっち上げ、無実の母を処刑した実父を思い出し、セレネはぶるりと身を震わせた。
そして、もしも自分の想像通りだとすれば、あの青年はどうなるのだろうと不安になる。
使命だなんだとおだてられて、ここまで来たのかもしれない。
島民に助けを求めず行き倒れていたのだ、密命だと嘘を吹き込まれていた可能性もある。
(領主様が、彼は被害者だと気付いて、なんとかして下さればいいのだけれど……)
そんなことを考えていると、こんっと窓になにかがぶつかる音がした。
(何かしら? 今夜は風も強くないから、ここまで飛んでくるものなんて……)
ふらふらと自室の窓に近づいて、カーテンをわずかに開く。
大きな木だけは確認できるが、他は暗闇で、なにも見えない。
けれど、もう一度。
コツンと窓になにかが当たったので、おそるおそる窓を開けてみる。
「ご機嫌麗しゅう、姫」
「……え」
向かい合う大木の方から、人の声がした。
「窓を開けてもらえるかどうかは、賭けだったが――オレも、まだ運に見放されたわけじゃないってことだな」
若い男の声。
聞き覚えのある、ふてぶてしい口調。
「あ――貴方、今朝の行き倒れ!」
「ひどい覚え方だな、姫」
「なぜここに? 貴方は自由に歩ける身ではないでしょう」
「どうして? 誰かに何か言われたのか?」
「いいえ。ここの人たちは皆、いい人達だもの。わざわざ、わたしを不安にさせるようなことは言わないわ。ただ、貴方の行動から、そのまま領主様の元へ連れて行かれると考えただけです」
「へえ~」
気のない返事が聞こえた。
自分の立場など、まるで意に介していないようだ。
「はやく戻らないと、あらぬ嫌疑をかけられますよ。……無事に、島を出たいでしょう?」
「いい人達か。その上、領主様とはな。ハッ、よく言ったもんだ」
セレネは、彼の身を案じた。
けれど、会話は成り立たず、嘲るような声だけが暗闇から聞こえる。
眉をひそめていると、木から飄々とした一言が飛んできた。
「なあ、姫様。オレはもう少し、この島にいる」
「はい? ……なぜですか?」
「あんたを連れて帰るのがオレの仕事だが、いささか事情が変わったんでね。――今日は、その挨拶に来た。それじゃあな」
言いたいことだけ言うと、ガサガサと枝葉が揺れる。
「あ、忘れてた。オレの名前は、ノクスだ。間違っても行き倒れ、なんて名前じゃない。訂正しておかないと、また変な名前を付けられそうだからな。以上だ。今度こそ――おやすみ、姫」
そしてそれっきり、周囲は静まりかえり、いつも通りの夜が戻ってきた。
「……ノクス」
教えられた名前を口にすると、なぜだか胸騒ぎが起こる。
知らない名前だ。
だが、なんだろう、この感じは。
(なにかしら、これ。前にもこんな……いいえ、気のせいね。色々あって、神経が過敏になっているのかも)
セレネは、その感覚を振り払いたくて、しばらく夜風にあたっていたのだった。




