十五話
朝の光が差し込む、塔の一室。
もぬけの殻の寝台は、触れると冷たく、長時間主が不在だったことを伝えてくる。
そして、開け放たれたままの窓は、吹き込む風できいきいと揺れていた。
「……警備の者は、なにをしていた」
エセルスは、扉の前に控える部下たちに問いかける。失態をおかした者達以外まで、あまりの冷ややかさに固まった。
「無能の処分は、本国に戻ってから下す。縛り上げて船倉にでも転がしておけ――と、言いたいところだが、挽回の機会を与えてやる。……廃王女を探し出し、私の前に連れて来い。邪魔する者がいたら、排除しろ――分かったのなら、全員さっさと動け」
一斉に返答があり、部下たちは先を争うように階下へ向かう。
「世間知らずの甘ったれが、気まぐれでも起こしたか。――あの時のように」
エセルスは、苦々しく呟く。
彼が思い返すのは、幼い姫の姿。愚かにも、戯れに迷い込んだ犬を餌付けしていた過去だ。
周りはみんな忙しくしている。
自分も父と顔を合わせていない。
久しぶりに顔を合わせても、厳しい言葉を言われるだけ。
そんな中、なにも知らずに呑気に過ごす姫の姿は、当時のエセルスを酷く苛つかせた。
折しも、エセルスが姫の婚約者にという話が浮上していた時期だ。
考えなしの姫の姿は、大人びた考えを身につけた少年にとって、ただひたすら失望感を抱くだけの存在だった。よりにもよって、こんなのが……と。
――過去の苛立ちに引きずられているエセルスを、ウォルターの声が引き戻す。
「ですが、廃王女はか弱き女子。……いくら奴らが油断していたとしても、気付かれずに塔を抜け出すことが出来ますかな」
唯一の残った腹心の部下の言葉に、エセルスは分かっていると頷いた。
「やはり、出しゃばってきたか――愚王の犬め」
「いかがなさいますか、エセルス様。あの男が廃王女を拐かしたのならば、易々と引き渡しはしないでしょう」
「……かまわん。こちらはセレーネレシェンテの身柄さえ確保できればいいのだ。あとは、誰が死のうと、知ったことではない」
吐き捨てて、エセルスは酷薄な笑みを浮かべる。
「そうでもしなければ、あの娘には自分の立場を理解してもらえないだろうからな」
「では、その通りに」
恭しく頭を下げるとウォルターもまた部屋を出て行った。
ひとりになり、エセルスは主のいない部屋をぐるりと見渡した。
「――結局、貴方は昔のままか。自分がどういう存在か、まったく理解していない。さすがは……愚王の血を引く者。今も昔も愚かな娘だ」
最後に嘲りの言葉を呟いて、エセルスは部屋を出たのだった。
+++ +++
「おー、ぞろぞろ出て行くなぁ」
塔の最上階から地上を見下ろしたノクスが、愉快そうに笑う。
「…………」
「なんだ、まだ怒ってるのか姫?」
「いいえ。ただ、こうして塔にこもるのなら、わざわざあの時、わたしを抱えて外に飛び出さなくてもよかったのに……と思っているだけです」
「いいんだよ、あれで。連中は、完全に姫が外に出たと思ってる。実際は、気絶したあんたを、オレが背中に背負って壁伝いに登っただけなんだけどな」
意識のない人間を背中に、壁を登る。
もはや、でたらめな身体能力だ。
「……貴方、本当に人間ですか」
歴戦の強者でも難しいかもしれないことを、セレネが気絶している間にやってのけたノクスはただ者ではない。
すると、ノクスが自信満々で頷いた。
「そうだな。オレは獣だ」
「……え?」
「昔のオレは、力だけで世の中を生きていた、獣みたいなガキだったから」
セレネは、さーっと青ざめた。
もしかしなくても、自分はとても酷いことを言ってしまったと思ったからだ。
「ごめんなさい。わたし、無神経に……」
皮肉のつもりだったのに、肯定されてしまって逆に慌てる始末だ。
だが、ノクスは気にしていないと首を横に振る。
「事実だから、そんな青い顔をするなよ。――別に、昔の自分を悲観しているわけでもないからな、オレは。あの頃あっての自分だから……戻りたいとは思わないが、消し去りたい訳でもないんだ」
あるがままを受け入れているノクスに、セレネは憧憬に似た思いを抱く。
自分とは正反対だと。
「……貴方は、とても強いのね」
「強い? オレがか?」
ノクスは不思議な言葉を聞いたかのように目を丸くした後、少年のように屈託のない笑みを浮かべる。
「そうか。あんたは、そう思ってくれるか」
「ええ」
見惚れていた自分を悟られないように、平然を装って返事をしたセレネだったが――。
「嬉しいよ、姫。あんたの言葉が、なにより嬉しい」
「…………」
「姫? おい、どうした。顔、真っ赤だぞ」
「赤くありません!」
脆くも崩れ去った平静。
わざわざ指摘され、セレネは慌てて否定する。
「いや、赤い。絶対に、赤い。ほら、見せてみろ」
「ちょっと……!」
顔を両手で挟まれたかと思うと、ノクスの顔が近づいてくる。
コツンと額がぶつかる程の距離で、彼は満足そうに笑った。
「ほら、やっぱり赤いじゃないか」
「~~っ!」
誰のせいだと言いたいが、そうすると更なる追撃をくらいそうだ。
(なんなの、この距離感! 近いでしょう、近すぎるわ! どこまで無自覚なの!?)
また、顔が赤いだのなんだの言われたら、羞恥心でどうにかなりそうで、セレネはノクスの手を強引に外そうとした。
すると、察知したようにノクスが眉を寄せ――手が、ピクリとも動かなくなる。
「ちょ、ちょっと……! いい加減に、離れて……!」
「なんで?」
「近すぎるでしょう……!」
「そうか? オレは、もっと近くても構わないくらいだが」
もっと近かったら、ふたりの距離は無いに等しくなるではないか。
想像して、セレネは声にならない悲鳴を上げる。
「あ、また赤くなった」
面白がっているのが分かる声。
動揺しているのも、意識しているのも、自分だけなのが腹立たしい。
(……え? ちょっと待って……意識、している?)
ふと脳裏をよぎった考えに、セレネは戸惑った。
一体、誰が誰を意識しているのだと思い、間近にある顔を見て、また赤面する。
(そんな、まさか……)
目の前にいる青年を、自分は意識しているのだ。
認めてしまうと、この近距離で直視するのは拷問に等しかった。
パッと目をそらしてしまう。
「姫、なんで目をそらす」
「な、なんでも!」
「じゃあ、こっちを見ろ」
「それは無理です……!」
「なんで」
「なんでも!」
埒があかない、子供じみたやり取りだ。
それを、自分は必死に、ノクスは大真面目に交わしているのがおかしい。
端から見れば、滑稽だろう。
「い、いい加減に、手を離してください」
「あんたが、ちゃんとオレの目を見るなら離す」
「うっ、それは無理です」
「……なんで?」
「ち、近いですから……!」
「…………」
すると、ノクスがようやく離れてくれた。
ホッと気を抜いた瞬間、再びノクスが近づいてきて――額に、柔らかいなにかが触れた。
「――え」
「よし」
「あ、ああ、貴方、今、なにを……!」
「減るもんじゃないだろう、許せ」
「貴方は、誰にでもこういうことをするんですか!」
たしかに、減りはしない。
たかが、額に口づけられただけだ。
しかし、あっけらかんと言われると無性に苛立つ。
自然と言葉尻が強くなってしまったセレネに対し、ノクスはきょとんとしていた。
それから首を傾げ――徐々に意味を理解したのか、渋面に変わっていく。
「心外だぞ、それは」
低い声と鋭い視線が、逆にセレネを咎めるように向けられる。
「人を節操なしみたいな言い方しないでくれ。オレが尻尾を振る相手は、あんただけだ」
意味が分からないと、セレネは弱々しく首を横に振った。
「オレがなにをするにしても、理由は全て、あんたってことだ」
「……嘘。だって、貴方は言ったでしょう。自分が命令を聞く相手は、たったひとりだけだって」
以前、彼はたしかにそう言ったとセレネはしっかり記憶している。
だが、ノクスは不可解そうに首を傾げた。
「ああ、言った。あんただって、分かったって言ったじゃないか」
「ええ。だって――貴方は騎士。騎士が命令を聞く相手なんて、言われるまでもなく、陛下だけでしょう」
「――は?」
セレネの発した言葉。
それを聞くなり、ノクスは顔をしかめた。




