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十一話 


 ノクスが来てから、自分の周辺は急に騒々しくなった――セレネはひっそりため息をついた。

 というのも、穏やかな時間がずっと続けばいいと望んだ翌日に、島に本国からの使者達が上陸したと聞いたのだ。


 塔の一階に設けられた食卓で、紅茶を飲みながら聞いた知らせは、朝からセレネを憂鬱にさせた。

 メリッサ曰く、たいそう立派な船で、降りてきた者達もパリッとした上等の衣に身を包んでいたらしい。


 皆、すぐに領主の屋敷へ向かったというが、誰も彼もが厳しい表情をしており、どこかピリピリした雰囲気だった――語るメリッサの顔には、不安が滲んでいる。


「……大丈夫よ、メリッサ。ただ、島の様子を見に来ただけでしょう」


 意識して、ゆっくりとした口調で語りかけると、幾分が表情が明るくなった。

 そうすると、いつものメリッサらしいお喋りが戻ってくる。


「視察だかなんだか知りませんがね、なにもあんなにゾロゾロと来ることないのに! しかも、あんな大きな船で! こっちだって漁に出るのに、小舟は寄せられちまって、まったく邪魔だったらないですよ!」


 メリッサは、早く帰ってもらいたいらしい。大きな船が停泊しているせいで島民の船が制限され、思うように漁に出られないようだから、当然のことだろう。

 だが、続いた言葉はセレネが想像していなかったことで、驚いた。


「ノクスさんも、こんな時にどこへ行ったんだか! こういう時こそ、お嬢様のおそばについていなけりゃいけないだろうに!」

「え?」

「本当に、男ってのはどんなに男前でも、女心が分からない連中なんだから! ねえ、お嬢様!」


 憤慨するメリッサについていけず、セレネは曖昧な笑みを浮かべ誤魔化すことにした。

 すると、ゴホンとわざとらしい咳払いが聞こえ、顔を上げると泥だらけになったノクスが窓の向こうに見えた。


「まあ、ノクスさん! 今度は、いったい、どこで、なにを、してきたんだい!」

「ちょっとな」

「ちょっとって……ああ、こら! 泥だらけで中に入るんじゃないよ!」

「わかった、じゃあ、ちょっと待っててくれ」


 ノクスは素直に窓から離れた。


 どうにも嫌な予感がする。

 メリッサとセレネは顔を見合わせ、ふたりそろって窓枠から身を乗り出す。


 すると――案の定、ノクスは井戸から汲んだ水を、頭から被っているところだった。

 ざばーっと、豪快に桶を傾け、その勢いで泥を落とす。

 たしかに、泥は落ちるだろうが……。


「よし! 綺麗になったぞ! これなら、姫に会ってもいいだろう、メリッサさん!」

「いい訳ないだろう! 問題大ありだよ! 床が濡れて滑るだろう! お嬢様が転んだりしたら、どうするつもりだい!」


 新たなる注意を受けたノクスは、今度はまるで犬のようにブルブルと頭を左右に振り水気を飛ばし……ニカッと笑った。


「まかせろ、そうならないように、オレがちゃんと抱き留める。だから、中に入ってもいいだろう、姫?」

「え、わ、わたし?」

「ああ。オレがあんたの後ろに控えて、危なくなったらすぐに支えてやる。どうだ、それなら床が濡れてようが、滑ろうが、絶対的に安心だろう?」

「……その前に、体を拭くという選択肢はないのですか?」


 どうだとばかりに胸を張る男に、セレネは苦笑を交え答えた。

 横でメリッサが大きく頷き、すぐにタオルを取りに奥へ引っ込む。


「ん~……抱き留める、は……ダメなのか?」


 ノクスはぼやきながら、自分の黒地の服の端を掴み、ぎゅっと絞る。

 ボタボタと、大量の水が地面に落ちた。セレネはますます苦笑の色を濃くした。


「乾かした方がいいのではないですか?」

「その間、オレは素っ裸だぞ。姫は、全裸の男がそばにいて平気なのか?」

「……はい?」

「おお、快く許可してくれるか。さすがは姫だ。心が広い。――ならば、遠慮なく……」

「どうしてそうなるのです!」


 衣服に手をかけたノクスを慌てて止める。


「どうしてって……この塔に、男の物の服なんてないだろう?」


 塔にはセレネしかいないのだから、当然そんなものはない。


「た、たしかに、ありませんけど……!」


 頷けば、ノクスはなぜか安心したように笑う。


「そうだろう、そうだろう。……逆に、あったら嫌だぞ、オレ。――それにな、姫。あんたの服はオレには入らない。そして、似合わない。となれば、全裸しかないだろう」

「着替えをもっているでしょう!」

「あー、まあ、たしかに。でも、荷物は滞在中の宿屋に置いてきた。――厄介なのが上陸したからな」


 それまでの軽妙さが嘘のようにノクスの声が、一段低くなった。

 セレネが首を傾げると、彼は真剣な眼差しで見つめてくる。


「どうせ、着替え程度の荷物だ。たいしたものは持ってきていない。わざわざ戻るほど惜しいものでもないし……今、戻るわけにはいかない」

「あの、どういう意味ですか?」

「メリッサさんに聞いてるだろう。本国から使者が来たって。……あんただって、口では視察なんて言ってたけど……本当は違うって分かっているはずだ」

「…………」


 どうやら、メリッサとの話はしっかりと聞かれていたようだ。


「だから、オレはあんたのそばを離れるわけにはいかなくなった。着替えろ、乾かせというのなら……その程度のことでそばを離れるくらいなら、オレは全裸ででもそばにいる」


 セレネは眉を寄せる。

 最初こそ冗談だと思ったが――どうやら、からかっている訳ではないらしい。


「……どうしてですか? たとえ、本国から来た方々が、わたしを含めての視察だとしても、後ろ暗いことなどないのですから、放っておけばいいでしょう」

「――姫、忘れたか? オレは、あんたを連れ帰りに来たんだ」

「……わたしは、ここから出る気はないとお伝えしたはずです」

「ああ、そうだな。あんたの島民を案じる気持ちも理解は出来る。だけどな、姫。このままだと、あんた死ぬぞ?」


 吐き出された言葉の冷たさに、セレネはぶるりと身震いした。


「死ぬ……?」

「はやく選べ姫。オレは待った。あんたがよしと言うまでは……と、そう思ってギリギリまで待ったが、刻限だ。これ以上は……許されない」


 ――セレネはただ、穏やかな日々を望んでいた。

 廃された身なればと、このまま、ただ静かに残された生を過ごすのだと思っていた。

 それなのに、ノクスと出会ってからは、平穏がかき乱される。


「……わたしが、ここを出ることはありません」

「…………」

「貴方が、どれだけここに留まっても、答えは決して変わりませんので――わたしを連れ出すことは、諦めて下さい」

「……それが答えか、姫」


 セレネは頷いた。

 いまだ髪から水滴をたらすノクスが、眉を寄せる。


「――わかった」


 王の命を受けて、セレネの元へやって来た彼は拍子抜けするほどあっさりと頷いた。


「貴方の身に罰がいかないように、わたしが陛下に手紙を書きます」


 船旅に耐えられない身だといえば、もともと自分に興味がなかった父だ。この騎士が罰せられることはあるまい。


「必要ない」


 セレネなりに考えた気遣いだが、ノクスには素っ気なく断られた。


「あんたの考えは、たった今、よく分かった。――邪魔したな」


 びしょ濡れの青年は、興味を失ったかのように、ふいっとセレネに背を向けた。

 足取りに迷いはなく、どんどん遠ざかっていて行く。


 その後ろ姿に、セレネは彼との日々が終わったことを悟った。

 タオルを持って戻ってきたメリッサは、なにも聞かなかった。そのかわり、セレネの顔を一目見るなり、ただ黙って抱きしめてくれた。

 忘れればいいと、セレネは無言で目を閉じる。


 ――これで、今まで通りの波風のない静かな日々がもどってくるのだからと。


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