プロローグ
春が来て、王宮の庭園には花の香りが立ちこめていた。
むせかえるほどの甘い匂いに囲まれながらも、嫌だと泣く幼い少女に、十は年上だろう騎士が片膝をつく。
『……いつか、必ずお迎えに参ります。ですから姫、どうかその時まで――』
泣くのをやめた少女は、こくりと頷いて――そして。
「……っ……」
ぱちっと目を開けたセレネは、幾度かまばたきを繰り返す。
ずいぶんと懐かしい夢を見たせいなのか……いつもはすっきりと起きられるのに、今日に限ってはまだ頭がぼーっとしている。
「いつか、必ず迎えに来る――ですって」
その後、あの年若い騎士はなんと言っただろうか。
自身の立場の危うさも理解していない幼い姫に泣きつかれた彼は、きっとその場しのぎの嘘を口にしたのだろう。
名前も知らない。顔も上手く思い出せなくなった夢の中の騎士に「そうなのでしょう?」と問いかけても、当然返事があるわけもない。
けれど、誰の迎えもないことがなによりの答えなのだ。
セレネは今、都を離れた離島で生活している。
華やかさは都に遠く及ばないが、穏やかで牧歌的な毎日だ。
ここ、エルド島で暮らしてもう十年になるため、今ではもう都にいた頃の生活すら思い出せなくなっている。
――姫と呼ばれていたのは六つの頃、十六歳になる今では、遠い過去のことだ。
この島では、誰もセレネを姫と呼ばずに「お嬢様」と呼ぶ。
それでもセレネが住まう塔には衣食住の世話をしてくれる女性メリッサが、通いで来てくれるので、姫でなくとも恵まれている立場だと思っている。
島民たちは、皆あたたかい人ばかりだとセレネは常日頃から感謝していた。
不貞を理由に処刑された元王妃の娘である自分を、いまだ「お嬢様」などと呼び、嫌な顔一つすることなく受け入れてくれたのだからと。
(わたしが廃されて十年になるんだもの。きっと一生をこの島で終えるのね)
王であった父は、妃であったセレネの母を処刑するやいなや、セレネの姫という立場もとりあげた。
だが、不貞は真実ではない。
セレネの父は、後継者の男児が欲しかった。そして自らの血が絶えないための予備としての男児も欲しがった。
複数の男児が必要……けれど、たとえ王でも、この国では一夫多妻は認められない。だから、男を産まなかったセレネの母を捨て、新しい妻を求めた。
こうして、ありもしない不貞の罪を着せられ、セレネの母は王妃という立場を追われ、汚名を着せられたまま、処刑されてしまった。
セレネを廃位したものの生かしておいたのは、償いのつもりか……あるいは、セレネの外見の色彩が父王そっくりだったせいかもしれない。
血のつながりを濃く感じさせる娘まで処刑すれば、民の悪感情を煽りかねない。そう思い、けれどいずれ生まれる男児のためには手元にいると邪魔で……セレネをエルド島に追いやった――きっと、これらが正解だろう。
セレネは城を出て以後ずっと、このエルド島にそびえ立つ塔で日々を過ごしているのだ。いつか父王が迎えに来てくれるという期待は、もう欠片も残っていない。ある日突然、母を奪われた日に、そんな期待は潰えた。
今さら、都にもどる理由もない。
夢に引きずられるように、しばし物思いにふけっていたセレネだが、窓の外から鳥の鳴き声が聞こえてきたのを皮切りに、ぐっと体を伸ばすと、身支度を調えるため寝台からおりたのだった。
『いつか、必ずお迎えに参ります。ですから姫、どうかその時まで――』
かなわない約束を交わした騎士は、最後になんと言っただろうか?
ふと頭をかすめた疑問。
けれど、いまさら知ってどうなるのだと、セレネは笑って流してしまった。
――だって自分はもう、姫ではないのだから。