03 早乙女聖子の最悪な一日
ぬめぬめした何かに目をふさがれて何も見えない。
もともと動きづらい用具入れの中、隙間なく入り込んだ肉の塊のようなもののせいで一切の身動きができずにいた。
「んん!!んうんんん!!」
助けを求める声さえ、胸を圧迫され、口元まで及んだ肉塊のせいでままならない。このままではいずれ呼吸もできなくなるだろう。その事実に涙を流し、叫ぼうとしてもその声は誰に届くこともなく、滝のように流れる汗も、恐怖のあまり失禁をしてしまっても、そのすべてを肉塊が吸収した。
「んん!!!ん、…んうんん…」
いよいよ脳に酸素が回らなくなってきた。何も見えない何もできない誰も助けてくれない。
うっすらとした意識の中、周りから粘液のようなぬめぬめした液体が自分を包み込むのが分かった。そして、その液体が触れている部位がひりひりすることから、おそらくそれが消化液なんだろうと理解した。理解してしまった。
(いやだよ、死にたくないよ、ママ、パパ、助けて…食べられたく…ないよう…)
しかし、もともと人のあまり来ない4階の教室。もう自分が助からないことは、すでに分かっていた。
最早あがくのをやめ、思考を放棄し、子の肉塊に体を預けた。
もう、いいいや。どうせ、今までも一人だったんだから。誰も、助けてくれなかったんだから。
走馬灯のように浮かぶのは、幸せな記憶より、いじめによるつらい記憶ばかりだった。
クラスのみんなが避難したであろう校舎の中、その騒動に気づかなかったわけでもない彼女が一人非難に遅れたのもそのいじめのせいである。
もういい。もういいんだよ。自分に言い聞かせるように、呼吸ができない苦しみに気づかないように、そう、頭の中で繰り返す。
そんな諦観の中、ふと、中学生の時の、親友との約束を思い出す。
(あぁ、そうだ、一人だけ。彼女にだけは、ミーナちゃんにだけは、最後にちゃんと謝って、前のように楽しくおしゃべりできたらよかったなぁ。)
その願いはもう、叶うことはないだろうけど、次があるならきっと。
意識が遠のく先に、光が見えたような気がした。
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「おーいせっちゃん、おはよ」
「あ、あ、お、おはy」
「おーい腹から声出そうね、せっちゃん」 「「アハハハ」」
いつも通り最悪な朝。私はいじめっ子たちに絡まれていた。
「朝から暗いじゃん、ちゃんと上向いて歩かなきゃっじゃんっ」
「い、痛い!!やめて!!」
誰とも目を合わせたくなかったから下を向いて歩いていたらうしろから髪を引っ張られた。
「あっれーせっちゃんこれ新しい眼鏡?」
「最近割ったばっかなのにねー」 「これで何個め?」 「3個じゃないっけ?」
「マジ―?もう眼鏡で破産すんじゃねw」
「い、いや、これはお父さんが買ってくれた
「大切な眼鏡バーン!!」
「イヤアァアッ!!」
眼鏡を無理やり取られ、そのまま地面にたたきつけられた。これで4個めだ。
いままで割られる度に自分のお小遣いで買っていたが、遂にお小遣いが尽き、仕方なく親に言うと、
「もう、聖子はドジっ子なんだから、もう割っちゃだめよ?」
そう言って買ってくれた大事な眼鏡だった。
「そんな、あ、あ、あんまりだよぉ、あ、うあ、あ、ん、んむ、むがっ」
あんまりにあんまりだったので泣きそうになったら口をふさがれた。
「泣くなよめんどくせーなー、せっちゃんが不細工な眼鏡のせいでいじめられないように壊してあげたんだよ?」
「ひっどーw」 「さっちゃん優しーw」 「よかったじゃんwいじめられないで済んで」
泣いたらまた何をされるかわからないので、ただ、耐える。早くこの時間が過ぎるのをただ願うばかりだった。
授業のチャイムが鳴る。
「あ、授業だ」「一限って体育じゃなかったっけ?」 「やっばー着替えなきゃじゃん」
さっきまでのことがなかったかのようにいじめっ子たちは走り去っていった。
「あ、その破片ちゃんと片付けといてねー誰かがけがしたら大変だからw」
私は一人取り残された。
放課後、私はまたいじめっ子たちに絡まれないようにそそくさと帰りの支度をして帰路についていた。
廊下を抜けて下駄箱についた。
「あ、」
「あ…」
そこにはミーナちゃんがいた。中学までは大の仲良しだった。それが、高校になって少しづつ疎遠になっていき、あることをきっかけに全くしゃべらなくなってしまった。
私が悪かった。だから、謝りたかった。
「あ、あのミーナちゃんあ、あの」
「ご、ごめん!!部活に行かなきゃいけないの!!」
あれ以来、こんな風に避けられているせいで、まったく謝ることができない。
もう、前のように親しくならなくていい。ただ、謝りたいのに。
シューズを脱いで、靴に履き替えようとしたときだった。
「せーっちゃん」
「あ、あ、あ、あ、」
まだ今日は終わらないらしい。
「あのさーあんたさーいつになったらわかるの?ミーナにさぁ、近づくなってさぁ、いったよねぇっ!!
バァン!
顔のすぐ横を蹴られる。ここは4階の教室の一つ。今は使われていないため、道具室として使われている。他の教室や部屋からは離れているため、助けを呼んでもどうにもならない。
「い、や、そんなつもりは」
「そんなつもりがあってもなくても、近づくなって言ってんのわかる?」
「ぐ、偶然なんだよ、会おうとなんて、してないんだよぉ」
「偶然でも駄目だって言ってんのがわかんねえのかよアァッ?」
ひぃ、無茶苦茶だよ
「ま、どんくさいせっちゃんには無理か。いってもわからない子にはバツを与えたいと思いまーす。」
「い、いや「抵抗するってことはこれよりひどーいバツが必要ってこと?」
その言葉に私は抵抗をやめざるを得なかった。
誰か助けてよ…
「ん、んんん、ウっ、んん、ヒック」
私は今用具入れに体を縛られて入れられていた。口も閉じられていて、そもそもここの近くには誰もいない。そのうえ用具入れは内側から開けることはできず、本当に、何もできない状態だった。
『部活が終わったら解放してあげるから。まーあと2時間くらいかなwそれまで反省しときな』
そう一言残して去って行ってから何分経っただろうか。どれだけ騒いでも無駄なのでもうただ一人で泣いていた。
用具入れの隙間から外を見るが誰かが通りかかるような気配はない。
どうにかなりそうだった。
どれだけ経っただろうか。泣きつかれて、しかし体制ゆえに座って休むこともできず、途方に暮れていた時だった。
…きゃー!!……みんな逃げろー!!…く、くるなー!!…イヤァァア!!
外が騒がしい。よく聞くと逃げろだとか悲鳴の声が聞こえる。
(何が起こってるの?)
用具箱の隙間から見える情報では何が起こっているかわからない。
しかし、もし、不審者が来ていたり、火事になっていたとしたら、今自分は逃げることも助けを呼ぶこともできない。何とかして助けを呼ばなければいけない。
そのとき、誰かが4階に上がってくるのが隙間から見えた。
「んん!!!んうんんん!!」
誰かが私を助けに来たのかもしれない。何とか気づいてもらおうとしたが、口をふさがれているためうまく声が出ない。しかし、かすかな音に気付いたのだろうか、その誰かが教室に入ってきた。
(………え?)
やっとここから出られる。ほっとしたのも束の間、入ってきた人物の姿に言葉を失った。
入ってきたのは大柄で太った男のような体型をしていた。皮膚は全身緑色で、耳の先は尖っている。
そして何より体の所々に返り血を浴びていた。口元には何か肉の管のようなものが垂れている。
そして、何より、その手には無理やり引きちぎったかのような人の首が握られていた。
何が何だかわからない。
一瞬パニックになりかけたが本能がそれを押さえつける。
いまあいつに見つかってしまえば殺される。必死に震える体を押さえつけ、洩れそうになる嗚咽を飲み込む。
「ギャギャ?ギャギャギャギャ!!」
私を探しているのだろうか、そいつは何かを喚き散らしながら机やロッカーなどを破壊して回った。
助けを呼びたかった。逃げ出してしまいたかったしかし、今それをしてしまえば確実に殺される。
いじめられているときと一緒。ただ、嵐が過ぎるのを待つだけだった。
「ギャギャ!!」
探していたものが見つからなかったのが気に触れたのか、最後に盛大に床を蹴りつけた後、あの化け物は去っていった。
しばらくして、あいつがいなくなったことを確認した私は一人、静かに泣いた。何が起こっているかわからない。あいつはなんなの?どうして私ばっかりこんな目に合わなきゃいけないの?
あいつが持っていた首。あれは作りものじゃない。つまりあいつがその首の持ち主を殺したということ。
あそこで見つかっていたら私も…
自分が首だけになった姿を想像して、吐き気がした。できるなら吐いてしまいたかったが口をふさがれているうえにこんな狭い場所ではいてしまえば大惨事になるので何とか耐えた。
とにかく、あいつが来る前にここから逃げなければならない。
幸い、手の拘束が緩くなってきている。あと少しで出られるかもしれない。
「…ん?」
そのとき、何かぶにぶにしたものを踏んだような気がした。しかし、用具箱の中は狭いうえに暗い。足元は全く見えなかった。
気のせい…?
そう思って手の拘束を解くことに専念した。
早く逃げて、助けを呼ぼう。今はとにかくお父さんとお母さんに会いたい。割られた眼鏡のこともちゃんと謝ろう。そうだ、次からはコンタクトにしてもらおう。少しお金はかかるけど、割られるくらいならいいだろう。
これで今日は終わり。最悪な一日はもう終わりにしよう。
きっと、大丈夫。