その4 中塚先生と木製イーゼル①
美術室は1階で、外廊下に面している。放課後まで閉めていたからか、室内には湿った空気がたまっていた。
「先生、窓開けるね」
花梨はそう言いながら、もう窓に手をかけている。中塚剛志が返事をする前に、運動部のにぎやかな声が流れこんできた。
「珍しいな、バスケ部が外走ってる」
中塚は美術教師で、全学年の授業を担当している。3年前までいた中学は人数が多く、学年ごとの担当だったが、多多理中は小規模なので、すぐに生徒の名前と顔を覚えた。どこの学校にいても、生徒は人数の少ない技能教科担当のことはすぐに覚えて気軽に挨拶してくるので、教師のほうが「誰だっけ」という顔ができない、というプレッシャーもある。
中塚がじっとトラックを走るバスケ部の様子を見ていると、気付いた生徒たちが両手を大きく振ってきた。それに軽く手を振り返し、隣にいる花梨に声をかける。
「カレシ、元気だな」
「違います」
花梨は間髪入れずに否定する。先日の球技大会で卓球個人優勝をした野口祐一郎と、渡辺花梨は仲が良い。
クラスは違うが小学校からの同級生で、最近は1人シュート練習をする野口を見つけると、美術室から出ていって合流したりしている。
美術部も展覧会があり作品作りを進めていかないといけないのだが、楽しそうな生徒を邪魔するのは野暮だな、と中塚は放置していた。
(まあ、おおかた女子バスケがないからウチの部に入ったんだろうしな)
女子の運動部もいくつかあるが、少人数のため人間関係が合わないとやりづらく、辞めたあとに文化部へ移る生徒も多い。しかし大抵が「なにか部活に入っていたほうが、内申にプラスさせる」という理由のため、結局はユーレイ部員の温床になっているのだ。
ふぅ、と中塚は溜息をつきながら肩をコリッと鳴らし、木製の古い椅子に座った。花梨の席だ。
(一応、描こうって気持ちだけはありそうなんだけどなぁ……)
イーゼルに立てかけられたスケッチブックをめくると、意外と真面目に描かれたデッサンが出てきた。技術はともかく、頑張っているのはよくわかる。ただ、展覧会に向けて何を描くかが、まだ決まっていないようだ。
「あ、先生勝手に見ないで下さい!セクハラー!」
「いや美術部顧問が練習チェックするのは当たり前だろが。俺が職務怠慢で怒られるてしまうわ」
中塚は冗談めかして言うが、たしかに、女性は男性に勝手に見られるのは嫌かぁ、と中塚は椅子から立ち上がった。
もぅー!と言いながら花梨はスケッチブックを回収していく。
「そういや、ねえちゃんの絵、そこにあるぞ。なかなか芸術的だよなあ」
ねえちゃんとは、3年生の花梨の姉、沙耶のことだ。沙耶は勉強もいまいちで天然なところがあるが、ピアノが上手い。音楽祭の伴奏も緊張せずに、しかもきちんと、歌をたてる演奏ができる。
沙耶は美術でも、どちらかといえば技術としては下手に見えるが、明るい性格がよく出ていて良い絵を描く。ただ、題目を無視するためどうしてもマイナスになってしまうのだが、表現者として向いてるタイプなのだろう。
花梨は、そんな姉が描いた絵を見て、ゲッと嫌な顔をした。
「これあたしじゃんー、やだもう」
女の子が大口開けてなにか食べている絵だが、どうやらモデルは花梨らしい。
「見ていて笑顔になれるもの、ってテーマだぞ」
「あたしが食べてるとこ見て笑ってるってことなのか」
むう、と花梨は膨れ面をした。姉妹仲は、べったりではないが悪くはないのだろう。沙耶は1年の時から、たまに妹の絵を描いている。ただ、そのテーマを選ぶ感性がちょっとズレているだけだ。そして、打算なく描かれた絵は、傑作となることも多い。
「人じゃなくても良いのに」
花梨は美術室に飾られた、40号の油絵を指す。10年ほどまえの卒業生が描いたという、展覧会の入選作だ。
ここの美術室なのか、窓際に古びた木のテーブルがあり、その上にはこれまた古びた薬缶やコップ、そして花瓶が置いてある。なんてことはないモチーフだが、誰かが毎日きちんと使っており、花瓶の水を変えてあげてるような温かみがあって、花だけでなく花瓶すらいきいきとしている。
(こういうの、小手先じゃ描けねーんだよなあ…)
中塚は、そして俺じゃ教えられねーなあ、と心の中でボヤキながら、ネガ思考を悟られないよう花梨を見た。
「じゃ、俺は準備室にいるから、ちゃんと描けよ」
「はーい」
今日部活に来ているのは、花梨だけだ。描く気がある部員もいるが、塾通いでみな忙しい。
中塚は、椅子に座り直す花梨に手を振り、準備室に入る。様子がわかるよう、ドアは開けたままだ。
小さい頃から絵を描くのが好きだった中塚は、美術部へは高校から入った。中学では部員は女子しかおらず、しかも男キャラ同士の恋愛ものの二次同人誌を作っていたようで、活動中もそんな話ばかりしており、とても男子が入れる雰囲気ではなかった。高校は漫研があったので、同人誌組とは棲み分けができ、中塚はやっと美術部に入部できた。
そのまま美大へ、と考え塾や画材、学費とかなり金をかけてくれた親には感謝しているが、入学早々に自分の実力を客観視できてからは、それが申し訳なさに変わった。
教員になったのは、親を安心させるためだ。そしておととし定年退職した教師と入れ替えで多多理中へ赴任し、3年目になる。
(なかなか居心地は良いけどなぁ……)
多多理町へ異動になった、と当時の恋人に言ったら、あっさり振られた。学生時代のバイト仲間で、2つ下の彼女は会社勤めだ。それまでも異動はあったが、今回みたいな引っ越しを伴う異動は初めてで、伝えた時に、ちょっと考えてから彼女は別れたいと言った。
一緒に引っ越すって、考えられないんだよね。別居なら結婚する意味はないでしょ?
中塚は今年28。結婚願望はそこまでない。だからそこを理由に振られたことが不満でもあった。
(あーあ…)
準備室で、行事についての書類に目を通す。あと、展覧会の出品要項。美術教師としての指導力を買われての異動なら、彼女も別れるとは言わなかっただろうか。中塚は学生時代に賞を取ったわけでもなく、教師としてもまだまだだ。虚しくなり、椅子の背にもたれて天井を仰ぐ。
(せめて生徒が入賞でもすれば、俺の評価も上がるんだがな)
中塚は、花梨の姿が見える位置まで椅子を移動させる。花梨はイーゼルに立てかけてあるスケッチブックと、校庭を交互に見ていた。
(カレシでも描くのか)
それはそれで、青春っぽくて良い絵になりそうだ。そんなことを考えながら、中塚は花梨の横顔を観察した。すると、イーゼルが突然、バタンと倒れた。
「あー……またやっちゃった」
古いイーゼルは、足の一部が少し割れており、安定が悪い。花梨はよいしょとそれを立てるが、まだグラグラしている。
(直さなきゃな)
中塚が添え木でもしたらいいかと思案していると、またイーゼルが倒れそうになった。あ、と中塚は思わず声をあげたが、イーゼルは少し傾いたあと、ぷるぷると震えてもとの角度へ戻った。
「……なんだ?」
ラジオ体操でああいう動きがあったような、と中塚は連想した。生き物のような動きである。
「あ、用務員さん」
花梨が声をかけたのは、外廊下を歩く用務員だ。
「渡辺妹さんか」
「なんですかそれ」
「いやあ、お姉さんは元気そうだねえ。若いっていいなぁ」
「それ、変質者っぽいです」
2人の見た目は親子ほどの年齢差があり、会話も気のおけない雰囲気である。なかなか人と打ち解けられない中塚には、花梨の頭の回転の良さが羨ましかった。
中塚は花梨に促されるまま、なかへ入って古いイーゼルを見た。
「ああ、その足ね。まあ放っておいても良いんだけどなぁ。直されるの、嫌みたいでね」
「嫌って、誰がですか。倒れたら困りますよ。用務員さんなら、ササッと直せるんじゃないんですか?お仕事でしょ」
「仕事ってのはね、自分で選んでも構わないんだよ」
「給料もらってる分は働いてくださいよ」
花梨は大人相手でもズバズバ言う。シングルタスクの沙耶とは違うタイプだが、裏表のなさは、姉妹そっくりだ。
「じゃあ、中塚先生にお願いしようかなぁ。美術の先生なら、美術室の備品の扱いは僕より上手いでしょ」
用務員はそう言い、準備室の中塚を見た。中塚は準備室から隠れて様子を見ており、イーゼルを挟んだ位置にいる。それでもすぐ見つけられたことに驚いて、へっ?と間抜けな声を出した。
「先生、お願いしまーす、お仕事でーす」
花梨もちょっとイタズラっぽい声で言う。中塚は先程見えた不思議現象も気になり、イーゼルの修理をすることにした。とはいっても、日曜大工が得意なわけじゃない。
「先生、工具借りてきたー」
花梨は用務員室から、金槌や釘を持ってきた。用務員を借りてきたほうが、と中塚は思ったが、教え子の手前、出来ないとは言いづらい。
「ええと……課題で使った木切れが確か……」
「はい」
間髪入れずに、花梨が中塚に渡してくる。
(この急かされ方、カレシは辛いな…)
中塚はほとんど喋ったことのない野口祐一郎に同情する。気を取り直し、木切れと、金槌を手にした。
イーゼルを横に倒し、足に木を添え、動かないように軽くテープで止める。花梨が「支えます」と言ったが、万が一金槌が教え子、しかも女子にヒットしたらと思うと怖い。中塚は金槌と釘を構え、イーゼルの足に狙いを定める。
「いざ」
なぞの掛け声をかけ、中塚は金槌を振り下ろした。釘の頭まで、きちんとまっすぐだ。だが、当たる瞬間、イーゼルがスイッと動いた。
「ん?」
空振りした金槌は、床に当たりゴンと鈍い音を立てる。
「先生?代わりますよ」
「いや……」
中塚は再度、金槌を構えた。こころなしか、イーゼルは間合いを取っているかのようだ。
(いまだ!)
気合い一閃、勢いよく金槌は振り下ろされたが、またもやイーゼルは横に逃げた。花梨は中塚が上手く狙えていないだけ、と思ってるようで、同情するような顔をしている。
(なんだコレ…生き物みたいな)
中塚は、ガシッとイーゼルの足を掴んだ。逃げられないように力を込めたその指を、更に剥がそうとする物がある。茶色く、枝のようだが、指があるそれはイーゼルから生えていた。
「止めてくれよぅ……痛いよぅ……」
「……ひぃ!」
イーゼルの指は中塚の手首を掴んでいる。動揺した中塚は、そのまま金槌を持つ手を振り回す。その勢いのまま、金槌は中塚の左手を直撃した。