第34話 返せええええ
ずぶずぶ、ずぶずぶと泥の中を歩いて階段まで戻る。
その距離およそ200mほど。
果てしなく遠く感じていたその距離も、マッド・スライムがいなくなってしまえばなんてことはない。
「とりあえず、階段まで戻ってきました」
適当なアイテムを実体化して、鎧についた泥を洗い流す。
じょぼじょぼとポーションが鎧の上を流れ、眩い黄金色が姿を現す。
》そ、それ……。1本で1万はするやつ……
》うわあ、8本は使ったぞ
》8万円分使ったのか
》回復ポーションの無駄遣い……
》こんなポーションの使い方するやつ、初めて見たよ
「だって、これしかなかったんですもの……」
仕方ないじゃないか。ここには水道もシャワーもないのだ。
私は女子中学生なのだ。泥だらけのままでダンジョン配信を続けるわけにはいかない。
見た目を気にするのは当たり前のことだ。
「よし、ぴっかぴかになりました。さて、上に戻りますか」
》え? 神王の長剣は?
》剣を取り戻さないの?
私はダンジョンデバイスに地下217階の景色を映し出す。
そこにはどこまでも泥の海が広がっていた。
「皆さん、この光景を見てください。ここで戦えばどう見ても泥だらけになります。鎧の中に泥が入ります。武器もなければ作戦もない。私に一体何ができましょうか」
》だって、ほら。お兄ちゃんに怒られちゃうよ
》剣を取り返そうよ
「よく考えてください。もう怒られることは確定事項です。私が無理に剣を取り返そうとして死んでしまったら、神王装備がまるごと失われるわけです。あと、私が死んじゃったらお兄ちゃんが悲しむし、お兄ちゃんの結婚だって延期になるでしょう。何一ついいことはないのです」
》まあ、もっともではある
》死んだら終わりだしな
「何事も、安全第一です。それに私の剣を奪っていったあのモンスター。どう見たって一般モンスターですよ。階層主じゃありません」
》奪われたんじゃなくて、ハルナっちの失敗な
》あれはハルナっちの失態
》どう考えてもハルナっちが悪い
「と、とにかく……、そもそも階層主に遭遇しても、私なんかじゃ絶対に倒せません。次はたぶん地下220階とかですよね。きっと、ドラゴンくらいに大きいはずです。だから、いったん上へ戻って……」
ダンジョンデバイスには私の顔がアップで映っている。
黄金の兜を被った状態。その横には謎の物体が二つ、上からぶら下がるように……。
顔の両脇には、毛むくじゃらの二本の腕が伸びてきていた。
「なんでしょう、これ……」
》ハルナっち、上!
》マッド・エイプがいるぞ!
私が視線を上げると同時だった。
すぽっと私の兜が引き抜かれる。
肩までのセミロングがふわっと持ち上がり、重力に従ってさらりと垂れる。
私は口を開けて唖然としてしまった。
今いる場所は中州のようになっており、階段を囲むように石が積まれている。
階段の周囲は石壁になっていて、そこに器用に足の指を引っ掛けて、逆さにぶら下がっているマッド・エイプがいた。
私の頭上、およそ30cmくらい上。
黄金に輝く神王の兜を手にし、口を横いっぱいに広げたその口角からは二本の牙が覗いている。
やつの目は、まるで私をあざ笑っているかのようだった。
》兜が取られた!
》神王の長剣に続いて、兜まで!!
何が起こったのか、一瞬では判断ができなかった。
少し遅れて、兜を盗まれたのだと気がつく。
私は目を見開いて、猿のようなモンスターに向かって手を伸ばした。
マッド・エイプは私から逃れるように壁を登っていく。
「キキキキイイイイィィィッ!」
獣じみた叫び声を上げながら、マッド・エイプは石壁を天井付近まで登りつめた。
「か、返せえええぇぇぇっ! 私の、私の兜おおおおぉぉぉぉ!!」
正確にはお兄ちゃんの兜だ。神王の兜の市場価格は12億円。
剣に続いて兜まで奪われたら、本当に洒落にならない。
マッド・エイプの背中には、まだ長剣が刺さったままだった。
その状態で、私を挑発するように、神王の兜を頭からすっぽりと被った。
「キキ? キキキ?」
まるで『これ、似合う?』とでも言いたげな口調だ。
兜を被ったまま、首をくねくねと傾げている。
「あなたなんかには、これっぽっちも似合いません!」
私は叫びながらマッド・エイプを追いかけるが、奴は器用に石壁を伝ってあっちこっちへと飛び跳ねるように逃げていく。
とても捕まえられそうにない。
ところが、マッド・エイプは私との距離を一定に保っていた。
捕まえられそうだと思わせる絶妙な距離でこちらを誘い、私が手を伸ばした瞬間、逆に私に向かって飛んできた。
私の背中をぽんと踏み台にして、反対側の地面に降り立つ。
「くそっ。返すんですよ!」
私は勢いをつけて、両腕を広げながらマッド・エイプに飛びかかった。右手にはデバイスを装着した自撮り棒を握っていたから、配信映像は相当ぶれていたことだろう。
「よし!」
捕まえたと思ったが、真上にすり抜けるように逃げられてしまった。勢い余った私は、そのまま泥の海の直前まで体を投げ出してしまう。
「あわわ」
危うく泥に落ちそうになって堪えていたところに、背後から強い力で押されてしまった。
どっぶーんと泥の中にダイブする。
泥水が勢いよく噴き上がった。
「キキキキキィィィ!!」
嬉しそうな声を上げるマッド・エイプ。
私は完全に泥の中へ突き落とされてしまった。
体の前面が泥だらけになり、髪もどろどろだ。
かろうじてかばったデバイスにも泥が跳ね、レンズが完全に塞がってしまったらしい。画面は真っ暗で、そこに視聴者のコメントが流れる。
》ハルナっち、泥に落ちた?
》画面に何も映ってないぞ
》レンズに泥がついた? 何も見えない
私は泥の中で体を起こし、マッド・エイプを睨みつける。
「やってくれましたね……」
「キキ、キキ、キキキィィ!」
マッド・エイプは両手両足をバタつかせて嬉しそうに踊っている。
悔しいけれど、今の私には勝ち目がない。
おそらくは私よりもずっと強くて、機動力も桁違いだ。
カメラのレンズも汚れ、視聴者も状況がわからなくなっている。
ここはいったん引くしかないと判断した。
「とりあえず、階段を上がって、そこで体勢を立て直そうと思います。兜を奪われたのは悔しいですが、作戦を立て直さなければ……」
》逃げるの?
》まあ、勝てそうにないし仕方ないか
》立て直すのが最善策かも
》上の階層までは追ってこれないしな
》さすが、ハルナっち。ダンジョンの特性をうまく利用するのね。
》褒めてる? それしか策がないだけじゃ?
デバイスが汚れているため、視聴者のコメントも一部しか判読できない。
「悔しいですが、上へ逃げます……。あいつは上までは来られないので……」
私は泥の海から這い上がり、そのまま階段を登るつもりだった。
ところが……。
「ウエヘニゲル?」
「マッド・エイプが喋った!?」
マッド・エイプが人間の言葉を発したのだ。
》人間の言葉がわからないフリをしていた?
》まずい、知性があるタイプかも
》言葉がわからないフリをして、こっちの言葉を聞いていたんだ
》ハルナっち、早く階段を登ったほうがいい!
》急がないと手遅れに……
私は階段へ向けて駆けだそうとした。
だが、それより早くマッド・エイプが前に立ちふさがった。
そのまま、後ろ歩きで階段を数歩登る。
5段ほど上がって私を見下ろすと、通さないぞと言わんばかりに口を大きく開き、『さあ、どうするんだ』という表情を浮かべた。
黄金の兜を被った、憎たらしい猿のモンスター。私に勝ち目はないように思えた。
「どうしましょう。マッド・エイプに階段の入口を占拠されてしまいました……」




