第31話 スライムのお約束
私はやっとの思いで、右足だけを泥の表面付近まで持ち上げた。
神王スキルを使い、全力で動かしてようやくこれだけだ。
今は左足一本で、かろうじて立っている。
もしも、ここでバランスを崩して倒れてしまったら……。
泥だらけになるとか、そんなレベルの問題ではない。
全身を泥の手で掴まれ、二度と立ち上がることはできないだろう。
私は泥の中で窒息してしまうはずだ。
「デバイス解析します!」
片足でバランスを取りながら、ダンジョンデバイスを足元に向ける。
――――――――――――――――
マッド・スライム(仮称)
粘体系
未発見個体・詳細解析前
推定LV 2~4
推定能力・不明
ドロップアイテム・不明
討伐履歴・なし
――――――――――――――――
レベルの表示は2から4の間で揺れ動いている。おそらくこの数値は当てにならない。マッピングアプリをごまかすために偽装しているのだ。
めずらしく、もりもりさんが長文のコメントをくれた。
》【もりもり】春菜さんが深層まで潜り、未知の情報を多く提供してくれたおかげで、現在ダンジョン管理協会が新しいマッピングアプリを開発中です。更新すればモンスターの本当のレベルが分かるはずです。ですが、完成にはまだ時間がかかります。それまでは、どうか安全な場所で待機していてください。
「わかりました……。なんとか対処したいとは思いますが……」
》【もりもり】ダンジョン管理協会もハンター事務局も、あなたを助けるために動いています。それと、あなたのお兄さんも。
「え、お兄ちゃん……」
ああ、やっぱり知られちゃったのか。
そりゃそうだよね。
管理協会や事務局が動くほど、私の動画はバズってしまった。
お兄ちゃんの耳に届かないはずがない。
》【もりもり】絶対に助けに行きます。私の命に代えてでも。だから、諦めずにがんばって。
もりもりさんは、どうしてそこまで私のことを気にかけてくれるのだろう。
けれど、お兄ちゃんやワールドランク1位のミランダさんが到達しているのは地下165階。事務局が公式に発表している人類の到達限界はそこまでだ。
誰であれ、この階層までたどり着けるだろうか?
私が来れたのだから不可能ではないだろうけれど、それには神王装備と同等の装備が必要だと思う。
お兄ちゃんはワールドランク2位で、デバイスをこっそり覗いたことのある私は知っている。本当の到達域は、公表されているより、もっと下の階層だ。
事務局も管理協会も、対外的な情報と秘匿している情報は別物。
もしかしたら、ミランダさんクラスであれば、あるいは可能かもしれない。
》【もりもり】私はこの先、しばらくコメントができなくなります。なんとか切り抜けてください。
「わかりました。ありがとうございます」
ずっと左足一本で踏ん張っているせいで、疲労から筋肉がぷるぷると震え始めていた。
いつまでもこの体勢でいるわけにはいかなかった。
》【ぽんた】一般的なスライムなら、炎が有効なんやけどな
》【アクゾー】マッド・スライムやったら、泥だけに炎耐性ありそうやね
》【ぽんた】弱点が克服されてそうやね
》【アクゾー】残念やなあ、倒せそうにないなあ
「くっ……」
この二人は相変わらず当てにならない。でも、以前もそうだったが、意外なところで情報に詳しかったりもする。
完全に無視することもできず、使えるものは使って、利用できるものは利用し、なんとか打開策を考えなければならない。
とにかく、まずは階段まで戻ることだ。
こいつらを倒す手段はなにかないものか。
いや、必ずしも倒す必要はないのだ。
リビングデッドのときと同じように、まずは状況を分析しよう。観察することが必要だ。
今の私にできることをやる。それしかなかった。
「それにしても、左足一本で立っているのは本当に辛いです……」
想像以上にこの体勢はきつい。
右足首を掴む手は、強烈な力で泥の中へ引き込もうとしてくる。どうやらスライムが自身の体を手の形状に変形させているようだった。
私はダンジョンデバイスの画面を操作し、マッピングアプリをピンチアウトして拡大する。
最大まで拡大してようやく、細かなドットが視認できた。スライムは無数の微小な個体に分裂しているのではないだろうか。
「もしかしたら、デバイスの表示を偽装するために体を細かくしているのかもしれません。だから、これ以上の強力な攻撃ができない。今、奴ができるのはこれが限度で、目的は私を泥の中に引きずり込むことにあるのでは……」
他の視聴者さんたちがコメントを書き込んでくれた。
》お、ハルナっちもだんだん学習してきた
》成長がたのもしい
》分裂してるなら、個々の能力は高くないかもね
》おそらく、泥の中に引き込んで襲うのだろう。そこからが怖いところ
》つまり、泥に埋まったら終わりってことか
「少なくとも、私がここに踏み込むまでは何もしてきませんでした。獲物が来るのを待ってから行動を開始する程度の知性はあるようです」
》リビングデッドほどの高度な知性があるのかな?
「そうですね、それが重要です。私の言葉を理解しているのかどうか。それを確かめてみたいと思います」
私はデバイスのカメラを、右足を掴んでいる泥の手へと向けた。
「みなさん、こちらがマッド・スライムです。現在は手の形をして、私の足首を掴んでおります。さあ、私の言葉は理解できていますか? このまま配信を続ければ、視聴者の皆さんに弱点を分析されてしまいますよ。どうしますか?」
マッド・スライムは相変わらず、力任せに泥へ引き込もうとするだけだ。特に反応に変化は見られない。
「反応はありませんね……。そこまでの知能は持ち合わせていないようです」
デバイスを操作し、リビングデッドとの戦いで入手したアイテムリストを検索する。
「いい加減、左足一本で立つのも限界ですし、マッド・スライムから不意の反撃を受ける恐れもあります。なんとか対処してみます」
アイテム生成で、現状を打破できるものが作れないか探る。
「リビングデッド戦の戦利品で、油と火打ち石を生成してみます。ぽんたさんの情報ではスライムは火に弱いとのことですので」
私は神王の長剣に油を垂らし、火打ち石で火を灯した。火打ち石を使うには両手が必要だったが、長剣を脇に挟むことでなんとか火を起こした。
剣が勢いよく炎をまとい、赤く燃え上がる。
「神王の長剣が炎を宿しました。これでマッド・スライムを攻撃してみます」
私は足首付近の泥に剣を押し当てた。泥の手は熱を避けるようにわずかに動いたが、致命的なダメージを与えられたようには見えなかった。
「うーん、期待したほどの効果はないようですね……」
》スライムって、具体的に何を溶かすのかな?
視聴者から疑問が投げかけられた。
「どうなんでしょう。とりあえず、私の装備は今のところ無事です。リビングデッドから獲得したアイテムをいくつか落としてみましょうか」
そう言って、私は価値のなさそうなアイテムをいくつか実体化させた。
それらをボトボトと泥の中へ落としていく。
「ガラスの瓶も、木の杖も、まったく溶ける気配がありませんね。これなら直接触れても大丈夫なのでしょうか?」
その時、私はちょっとした失敗をした。
「あ、しまった……」
ついうっかり、貴重な布製品を落としてしまったのだ。寝る時の毛布代わりにできそうだったのに……。
すると、そのアイテムはみるみるうちに形を崩し、消えていく。
「布が溶けていきます……すごい勢いで……」
》ま、まさか……
》服だけを選択的に溶かすやつか?
》溶ける速度がとんでもない。
》これ、状況的にかなりまずいんじゃないか?
》ライブ配信だよな、これ……
》まあ、神王の鎧を着てるんだし、全裸にはならんだろ
》でも、転んで、鎧の中にマッド・スライムが入ったら?
》中に入り込まれたら、出すために鎧を脱ぐしかないよな
》そうだな、着たままでは取り出せんしな
》結論として、鎧を脱ぐしか方法はないわけだ
》大丈夫だ、ハルナっち。俺たちはちゃんと目をつぶっておくから
》そうか、俺たちが目をつぶればいいのか! お前、天才だな
》そうそう、絶対に見ないよ
》俺たちを信頼してくれ。見ないようにする。絶対に何も見ないから!
ダンジョンデバイスのワイプ画面には、自分の顔が映し出されている。
そこに映っているのは、まるで能面のように冷え切った真顔。
自分でも驚くほど、感情の消えた無表情。
死んだ魚のような目をしている私だ。
》よし、みんなで協力だ!
》服が溶けても、俺たちが見なければいいんだ!
》みんな、目をつぶれ!
》了解、つぶった!
》もうつぶってる。何も見えない、真っ暗だ!
》俺もつぶった! よし、いつでも大丈夫だ。信じてくれ!
》おい、まだ目を開けてる奴はいないか?
》誰もいない! 完璧な連携だ!
》さあ、これでいつ転んでも安心だぞ! 信じてダイブして!
》泥に突っ込んでも平気だから! ハルナっちは俺たちを信じてるくれるよね!?
》もちろんだ!! きっと、俺たちの誠意が伝わっているはず!!
……。
……。
……。
「…………配信、切ってもいいですか?」




