第147話 犬なのです
エリはセルゲイの手でダンジョンに突き落とされた。その音をミリアは聞き取っていた。泣いていたミリアは顔を上げる。
「今の音は? お姉様?」
春菜が助けに来てくれたと思い、ミリアは泣き止んだ。だが、春菜がダンジョンに入ることは死を意味していた。
ミリアにとって、それはあってはならないことだった。
「クンクン……」
ミリアは鼻を鳴らす。
犬並みの嗅覚を持つミリアは、漂ってきた匂いを鋭く嗅ぎ分ける。
「これは、春菜お姉様の匂いではない……。この匂い……これは……。あの、ライバルの匂いなのです!」
ミリアはエリの匂いを感知した。ダンジョンに落ちてきたのが春菜ではなく、エリだと確信する。
一度は安堵したミリアだったが、その感情はすぐに焦りへと変わった。
「これはまずいのです。まさか、ライバルがダンジョンに入ってしまうとは……。ミリアより先に『ほーしゃーせーぶっしつ』を見つけられてしまうのです……」
狼狽しながら、その場でくるくると歩き回るミリア。
「でも、ミリアは迷子なのです。右に曲がって左に曲がって、右右左右までは覚えていたのです。その逆に戻ればいいのですが、左に行って、右?……ええっと……わからなくなったのです……」
再び泣き出しそうになるミリアだったが、涙を拭って歩き出す。
「どうしたらいいのでしょう……。ミリアはどうやって入り口に戻ったら……」
直後、懐かしい感覚が呼び起こされた。
嗅ぎ慣れた匂いがどこからか流れてきたのだ。
「これは……」
ミリアの心に一筋の光が差した。
「お姉様の匂い!」
ミリアは四つんばいになり、勢いよく走り出す。
「ミリアは犬なのです! 犬になるのです!」
右だ左だと考えるのをやめ、ミリアは本能に任せて駆けた。四つ足で凄まじい速さを発揮して疾走するミリアに、モンスターたちは道を開けるしかなかった。
やがて宝箱が視界に入り、エリの姿が見えた。ミリアは最短経路で入り口へと戻ることに成功していた。
壁に刺さっているのはミスリル製の刃。ミリアはこのミスリルカッターの匂いを辿って戻ることができた。
そこには決まり悪そうな顔で立ち尽くすエリの姿があった。
四つ足の状態から、ミリアはすっくと立ち上がる。
「やはり! あなたは、ミリアのライバルだったのですね!」
「ミリアちゃん……」
この環境で人間が生存できるはずがない。生き残っていることが、何よりの証拠だった。
「ミリアの女の勘は当たったのです!」
ミリアはエリに向かって、ビシッと指を突きつける。
宝箱の蓋は開いたままだ。
エリは無言のまま、静かに宝箱の蓋を閉めた。
「あの……。私からの提案なんだけれど……」
「提案? 提案とはなんですか?」
「私が落ちてきたときには、すでにミリアちゃんがこの宝箱の蓋を閉めていたってことにできないかな?」
エリの言葉の意味を、ミリアはすぐには理解できなかった。
「つまりね、私がサキュバス・クイーンだってことを秘密にしたいの」
「ミリアは馬鹿じゃないのです。エリが人間のふりをしていることは、薄々わかっていたのです。同じモンスターとして、同じ匂いを感じていたのです。でも、お姉様には黙っていました。きっと何か理由があると思ったのです」
「じゃあ、黙っていてくれる? この宝箱はミリアちゃんがすでに閉めていたってことにしてもらってもいい?」
「もちろん内緒にするのです。しかし……」
ミリアは少し考え込む。
「宝箱の蓋と、どう関係が?」
ミリアはまだ宝箱の中身については理解していなかった。
「だからさ。私が落ちてきたときには放射性物質の影響はなくなっていたってことに……」
「そうだ! 『ほーしゃーせーぶっしつ』を探さなければならないのです! エリよりも先に見つけるのです! ライバルに負けるわけにはいかないのです!」
くるりと振り返り、走り出そうとしたミリアの襟首をエリが掴んだ。
ミリアはその場でジタバタと足を回転させる。
「待って、待って。ミリアちゃん。放射性物質はこれ。これだよ。ここにあるんだよ」
ミリアを掴んだのとは反対の手で、エリは閉じた宝箱の蓋をコンコンと叩いた。
ミリアは足踏みをやめ、エリの動作を注視した。
「それが『ほーしゃーせーぶっしつ』?」
ミリアは宝箱をまじまじと見つめる。
「そうそう。階段を降りたところに置かれていたんだよ」
「つまり、宝箱が『ほーしゃーせーぶっしつ』で、これを排除しないとお姉様が危ない?」
「違う違う。宝箱の中身だよ。今は蓋を閉めたから、とりあえずは安全。でも蓋が開いたら大変だから、紐があったら縛ってしまいたいね。ミリアちゃん、紐を持っていないかな?」
「ダンジョンデバイスでアイテムを実体化すればいいのです」
ミリアは胸を張って答える。
「私のデバイスは放射線で壊れちゃったんだよ」
エリがミリアにダンジョンデバイスを見せた。その画面は真っ暗だった。




