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翌日、日曜日。試験前最終日。とはいえ、やることはこれまでと、昨日と何も変わりない。澳田は昨日同様早起きし、電車に乗って見慣れぬ街へ向かう。しかしもうそこは見慣れぬ街でもなんでもなく、水季薊が住んでいる街であった。戦いの日々の、舞台であった。
澳田が家に向かうと当然水季は準備万端で待っていた。そして始まる、試験勉強と将棋練習の時間。両者とも持ち前の目を見張る集中力で没入し、それぞれの仕事を進めていく。将棋の対策にしても、二人で棋譜を読み込むことで徐々に特徴というのもわかってきたし、澳田の練習相手としての制度も多少は上がってきていた。
とはいえやはりそれは序盤だけ。中盤以降を応用させながら「対戦相手として」打つには程遠い。そういう意味では水季からすればまったく練習相手になっていないのかもしれない。それでも水季は何も言わず、多くも望まない。棋譜から得られる対策、その知見、視点だけでも十分。たとえまだまだ素人然としていても、それでも自分ひとりでは気づけぬこともある。役立つことはある。
何より、自分は一人ではないということを思い出させてくれる。
二人の時間は――その姿勢、態度、在り方は、昨日とはどこか違っていた。言葉は少ないが、自然である。互いに打ち明けあったことで表には出ぬ信頼関係が生まれていた。何故だかわからないがそこにいる、よくわからないが一緒にいるという存在ではない。互いに互いの秘密を、傷を共有し、ともに目的のため、未来のため、勝利のために戦う「師匠」と「弟子」。
だから時間は無駄にはならない。時間を凝縮させられる。二人だから二倍。1日が2日。そういうふうになっていく。
勉強、対局、棋譜、相談。数分間の僅かな買い物。あまりにも凝縮された、濃密な時間。
それを終え、いよいよ二日間にわたる中間試験の日がやってきた。
*
前日三教科。翌日二教科の全五教科。それは生徒たちにとっても年末年始前、冬休み前の最後の壁であった。辛いが、これさえこえてしまえばあとはもう冬休みを待つだけ。年末年始、クリスマスに大晦日に正月、お年玉と一年の中でも待ち遠しイベントがいくつも待っている。なにより水季にとっては、二四日の対局前の最大の邪魔者。これさえいなければもっとずっと対局だけに集中できたのに。けれども進級のためには絶対に避けて通れないもの。なんならなんの憂いもなく、ただ死力を尽くしてぶつかるのみ。全部出し切って、やり切って、
そうして運命の対局に、向かうだけ。
*
二日目。試験が終わる。チャイムがなると同時に学校中にどっと安堵の声が漏れた。これでもうあとは遊ぶだけ。冬休みまで適当に過ごして年越しを迎えるだけ。教師もさっさと採点を終わらせたいという思惑もあるのか、試験後は授業もなく放課後となる。部活や帰宅。各々が好き勝手に自分の生活に散っていくのであった。
澳田は一つ息をつき、振り返る。
「終わったな」
「ほんと……よし」
水季はそう答え前を向いた。
「これでもうなにも気にせず対局だけ見れる。行くよ澳田」
「行くってどこだよ」
「練習。ようやく全部できるんだから。時間なんてもういくらあっても足りないんだし」
「そうだけどさ、昼飯くらいはゆっくり食わない? 打ち上げじゃないけど、ようやく試験終わったんだし少しくらいはパーッとハメ外してもいいだろ。ずっとカンヅメだったんだしさ。腹が減っては戦はできぬだし、今日ここしっかり食って次の準備するのも悪くないんじゃない?」
「そうだね……まあ別に一時間の食事くらいはいっか。さすがに私もここしばらくは根詰めすぎて疲れたし、少しは発散しないとね」
「だろ? じゃあファミレスでも行くか。色々言ったけど俺も全然金ないからそんな贅沢できないし」
そういう流れに決まり、二人は駅の近くのファミレスへと向かった。普段の弁当から比べればいくらか豪華な食事をし、ドリンクバーで居座る。店内には澳田ら同様に試験の打ち上げといったところか、制服姿の同校生の姿もちらほらと見えた。「美人すぎる女流棋士」という有名人が男子と二人きりということで、時たま視線が注がれる。
「やっぱファミレスとかはやめといたほうがよかったな」
「は? なんで?」
「いやまあ、お前も色々人に見られるしさ」
「ああ、別にどうでもいいし。今更だからね。プロになったらもっと視線の中でやらなくちゃいけないんだし」
と素っ気なく答える水季。澳田は「そういうことじゃねえんだけどなあ。というかそういう返しってことはやっぱ俺と一緒だろうと全然問題なしってことか。そりゃそうだよな今更。平気で家にまで入れるくらいどうでもいい相手なんだし」などと思いつつ、苦笑いしてホットコーヒーをすする。
「それで、テストどうだったんだよ実際」
「ああ……」
と答えつつ、水季は少し警戒するように周囲を見回すと、身を乗り出し顔を近づけつつ声を抑えて言った。
「あんたさ、あれ試験問題盗んだりしてないよね?」
「するわけないじゃん」
「だよねさすがに……いや、あまりにもあんたのヤマがドンピシャ過ぎてね……どうやったのあれ?」
「だからそもそも誰が作ろうと絶対出るほんとに重要な部分と、あとは学校と教師の癖とか傾向だって」
「にしてもさすがにあれはもう読心術のレベルでしょ……多分過去一点数取れたし。ほんとにやったところしか出てこなくて」
「ならよかったわ。じゃあ赤点は回避か」
「それは多分。こんな手応えあるの高校はいって初めてだし……まあでも、ほんとにちゃんと証明したね。勉強の方では約立つって。ほんとにメリットあったじゃん」
水季はそう言ってニッと微笑む。
「だからそれは絶対だって言ってたじゃねえか。自信じゃなくて事実だって」
「ほんと。さすがに約束通りちゃんとこっちも将棋教えないとね」
「それはありがたいけど対局後でいいよもちろん。この一週間はほんとそれだけに集中してな。他のことは後回しで」
「そうだね……でも今こんな普通に休んでるけど」
「こんな一時間くらいバチあたんないだろ。一時間でそんな変わるわけないしさ。土日はほんと詰めてたんだから数時間将棋から離れるくらい問題ないって」
「どうだろ。数時間も将棋から離れるなんて寝てる時くらいだからなあ……それでそっちは大丈夫だったの? あれだけ全然試験勉強しないでさ」
「多分な。点数でいえば多少は落ちただろうし、場合によっちゃ順位も下がるだろうけど別にそんなのどうでもいいしね。親にだって今更なんも言われないし、それよかこっちのほうが大事だし。大体こんなの高一にやる学校のテストの一つでしかないんだから。そんなもの一つにどうこう左右されるつもりはないって」
「はっ、ほんと嫌味。その試験一つに必死になってる人だっているのにね」
と笑って答える。
「それはまあ悪いとは思うけど……けどお前ができたんならそれでいいだろ。こっちだってそれでいいしよ。それで、実際どうだよあと一週間。試験勉強もあったけど順調っていうか行けそうか?」
「やるだけだけど、もちろん足りてるとは思わない。澳田がもう少し使い物になってくれたらいいんだけどね」
「つっても流石にプロでもないのに人の特徴真似して打つなんて無理があんだろ。もちろんできる範囲ですげえがんばってやっけどさ、そもそもの実力が棋士と比べりゃ全然なんだから」
「わかってるって。さすがに本気でそんな贅沢言わないしね。分析やってもらってるだけで大助かりだからほんと」
「そっか……まあ素直に受け取っておくよ。ほんとに少しは役立ってるって。これからの一週間の予定は?」
「明日から学校は休むかな」
「ああ、確かに試験も終わったし行く必要はないか……冬休みまであと少しだし。けど出席大丈夫なの?」
「計算してるし今回の試験行けそうだからぎりぎり大丈夫そう。試験あれだったらほんとに結構やばそうだったけど」
「結構休んでんもんな。対局はともかく練習でも休んでた感じ?」
「まあね。場合によっては遠征連泊とかもあるし。なに、弟子志望前からそんなに見てたの?」
と水季はどこか意地悪な笑みを浮かべて言う。
「別に見てはいねえよ。話す前からそっちは有名人だし、ちょくちょくいねえからまたいねえのか、将棋なんだろうなあとか考えてた程度で」
「ふーん……ま、とにかくこの一週間がほんとに勝負だからね。学校なんて行ってられないから休んででも徹底的に練習しなきゃ」
「それやっぱ対局って言って先生から許可もらうの?」
「言いはする。嘘ついたり無断で休んで心証悪くしても進級とか不利になるだけだしね。許可って意味では別にもらってるわけじゃないし、もらわなくたって休むけど。だからまあただの報告」
「そっか、わかった。さすがに俺は何でもないのに休んでるわけにはいかないからな。どうしても必要な時は言ってくれよ。そん時は休んででもそっち行くからさ。そうじゃない時はまあ放課後くらいしか付き合えないけど」
「大丈夫だって。今まで付き合ってもらっただけでも十分すぎるし。それに放課後だけでも十分だからさ。ただまあ、相手の分析くらいは授業中もやっといてよね。授業なんてちゃんと受ける必要ないんでしょ学年一位くんは」
水季はそう言って笑い、立ち上がる。
「じゃあ行こっか。さすがに十分休んだし、これ以上はもう時間も無駄にできないしね」
「そうだな。やるかあと一週間」
「うん、あと一週間。死ぬ気でね」
そう言い、二人はファミレスをあとにして戦場たる水季の自宅へと向かうのであった。
*
その日の練習を終え自宅に戻った澳田は、一冊のノートと向き合っていた。正確にはその最初の数ページに書かれた棋譜。「この世界」、今回の十一月二四日に来て始めてしたこと、向き合ったもの。
それは前回の十二月二四日の水季の対局の棋譜であった。水季が負けた対局の棋譜。何度となくひっぱり、目を通してきたそれ。それはある意味での最終兵器であった。
とはいえ、それはあくまで前回のもの。今回も同じような対局になる保証はどこにもない。試験問題とはあまりにも違う。相手がどういう作戦でくるかなど、直前になるまでわからない。というより、相手がどのタイミングで決めるかなどわからない。たとえ序盤が同じ作戦であっても、互いにその都度打つ手が異なるのだから棋譜もまったく異なったものになる。使えたとしてもそれは本当に最序盤だけであり、途中からはほとんどなんの意味もなかった。
とはいえその棋譜がもたらすものもいくつかあった。澳田はこれまで散々対戦相手の棋譜を読んできたため、そこにある違いにも気がついた。クリスマスの対局、相手はかなり普段とは異なる稀な手を打ってきていた。ある意味奇抜といっていいかもしれない。そうした手はこれまでにはほとんど例がなかった。序盤の作戦にせよ、普段とは真逆のものであり、完全に「裏をかいた」というものである。
その証拠に、棋譜を見る限り水季の方もだいぶ戸惑いがあるようであった。奇策のような戦法に、自分の研究がついていけず戸惑っているような指し手が目立つ。相手の意図がわからない、様子見、といったところだ。そのせいでかなり後手になり、序盤は特に悪かった。敗因の大きな要素といっても過言ではないかもしれない。
澳田はそれを、さり気なく伝えていた。いくつもの情報の中に混ぜつつ、「もしかしてこんな奇襲に打って出てくるかも」と水季に提案していたが、それを一考されることはほとんどなかった。水季は良くも悪くもデータを、数字を重視する傾向があった。それは彼女の立場が「負けられない」ものであるため、より安定志向をとらせるという部分もあったが、それ以上にデータは絶対という部分があった。
対戦相手は、これまでは非情に堅牢な守りを得意としていた。堅守から活路を開き終盤で逆転するというものである。その相手が、クリスマスの水季戦では非情に好戦的で素早い手を打ってきたのだ。普段あまり動かさない飛車も大胆に動かし、それが水季の「データ」に基づいた手を惑わせた。
とはいえ、そんなことはデータ、確率を考えれば万に一つも起きないようなこと。素人でしかない澳田が説得しその対策を打たせるのは容易ではなかった。たとえ納得させたとしても、そんなあるかないかもわからぬ一か八かのような作戦のために割く時間はない。堅実に、これまで通りの相手に合わせた対策をするのが一番無難であり、当然であった。
いっそこれを見せたらどうか、とも澳田は思う。自分が「未来からやってきた」と明かし、当日の対局の棋譜を見せる。しかし、そんな話を水季が信じるとも思えない。信じて対策を打つなどなおのことありえないだろう。そもそもなんらかのペナルティがないとも限らない。第一それでは「ループを脱却するために恋人になる」云々も遠のくように思える。そもそも、水季本人がそれを参考にするという保証がどこにもなかった。
それはいわば禁じ手だった。カンニングのようなものだ。それを水季が、果たして良しとするか。いや、よしとしない。少なくとも澳田はそう思った。これまで約二ヶ月見てきた水季は、そんな卑怯な手を選ぶような人間ではない。自分の力で、自分の努力で勝利を掴み取ろうとする人間だ。それを見て知っているからこそ、自分もそんな卑怯な手は使いたくない。
それでも、せめてその可能性をあいつの頭の片隅に残すくらいは……というのが澳田の考えであった。
「なあ、やっぱりあれについてもう一回再考してほしいんだけど」
と澳田は、水季に改めて「考え直してもらう」ためにも切り出す。
「あれって?」
「相手が当日振り飛車でガンガン攻めてくるって来るって話」
「ああそれ……だって根拠があんたの勘しかないんでしょ?」
「まあそうだけど……でも今回は絶対そういう奇襲でくると思うんだよなあ」
「そんな根拠もない虫の知らせみたいなのを参考に貴重な時間使ってられるわけないじゃん。いい? データ上そんな手で来るのは2%もないくらいなの。棋譜残ってる限り一回だけ。そんなのを今回に限ってやってくるなんてほとんどありえないじゃん」
「でもゼロじゃないってことはありうるってことだろ?」
「そうだけど比重がぜんぜん違うでしょ。もちろんありえないなんて思わないしゼロだとも思うわない。万が一にあり得るって頭の片隅に置くくらいはしとく。でもそれはあくまで片隅でね。もちろん対処ゼロでそうなったらお手上げなんてことにはしないけど、でも相手が得意な戦法、こっちも勝ったことのない相手のベストに当たって倒せるようにしとくのが一番でしょ。あっちだってそれでずっと勝ってるんだから一番確実な手なわけだしさ」
「まったくもってその通りなんですけどね……んじゃま、俺とやる時だけはさ。俺はもうそれしかしないから。どのみち強い相手の真似なんてできないから万が一の奇襲担当ってことで」
「……好きにしたら。試験問題だってあれだけ当たったんだしね。もしかすると本当に予知能力でもあるのかもしれないし。こっちも可能性を切り捨てないくらいには付き合うから」
水季はそう言い、澳田の「対策」に付き合うのであった。