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翌日の朝。澳田は早速紙の束を水季に渡す。それは「一周目」の記憶を振り絞って思い出した前回の期末試験の内容であった。
「これ、例の試験のヤマの部分。まだ全教科じゃないけどさ、とりあえず確認してもらおうと思って」
「ありがと。昨日の今日でなんかごめん」
「いいって。改めて確認になったからこっちも役立ったし」
「そう……ほんとヤマっていうか、かなり厳選してるんだね」
「ああ。まあやっぱ重要な部分なんて限られてるからな。多少奇をてらってきそうな部分もカバーしたけど」
「そう。この量なら確かにいけそうだけど、ほんとにこれだけで半分とれるの?」
「それは間違いない。ちゃんと覚えればな。残りは明日までに作ってくっからさ。それとは別にもしわかんないとこあったら教えるし」
「そりゃ助かるけど、なんであんたそんなやる気すごいの?」
「そりゃお前と将棋指して強くなるためだよ」
「……ほんとにそれだけ?」
「まあそうだけど……実際こういうことやってんのも普通に楽しいし」
「ふーん……まあ別にいいけど」
水季はどこか訝しむように言いつつ、澳田特性の試験対策集に目を通す。
「それとさ、一応棋譜の方もいくつか調べてプリントアウトしといたんだよ。さすがに全部覚えるなんてできてないけど」
「それ私の対局相手の?」
「ああ。ちゃんとインプットしてコピーできるようにならないとだからな」
「ほんとにやるんだそれ……」
「いや、そっちが言ってきたことだろ」
「そうだけど、普通そんなやらないしさ……ていうかあんたそれ試験勉強はできてるの?」
「そっちはいつもやってっから今更特別やる必要ないから」
「すごい嫌味……」
「じゃねえよ! そんなつもりないけど、悪い」
「別に。そうするのが一番いいのはわかってるしね。それで、実際できそうなの?」
「こればっかりはわからんけどまあやるだけやってみるよ。読みまくってりゃ傾向くらいはわかるだろうしさ。まあそれはお前もとっくにやってんだろうけど、俺も一緒にやれば時間短縮になるだろうし、もしかするとお前一人じゃ気づかないところも気づけるかもしれないしな」
「ほんとすごいやる気」
「そりゃな。俺だって絶対お前に勝ってほしいしよ」
じゃねえと一生ループも終わらねえし『シェル伝』できねえんだよ! と澳田は内心で吠える。
「そう……ありがと。なんかそこまで応援されるの初めてだから……」
「そう? お前なんてファン多いからいつでもめっちゃ応援されてるんじゃねえの?」
「いや、そういうのじゃなくて……そもそもそういうのは見ないから知らないけど、こう、同級生とか身近な人にそうやってさ、面と向かってとかは」
「ああ……」
そういやこいつ全然クラスメイトとかとも話してないしな。友達とか一人でもいるのか? そもそもクラスの連中とかはこいつが棋士だってちゃんと知ってんのかな、などと澳田は思う。
「まあでも、実際知らないだけでお前のこと応援してる人はいっぱいいるんじゃない? そういうのいちいち調べて見ろとは言わないし思わないけどさ。やっぱ将棋やってる若い女の人たちなんかからすりゃ希望の星なんじゃねえの?」
「どうだろうね。まあ小さい女の子からファンレターもらったりして、そういうのはやっぱ嬉しいとは思うけど」
「やっぱあんじゃん。そりゃ小学生とかなら憧れるよなー。周りに将棋やってる女子も多くないだろうしさ」
「かもね。私も実際そうだったし」
「だよな。じゃあその子のためにもなおさら次は勝たねえとな。勉強も含めて練習がんばっていこうぜ。俺もやれることはやっからさ」
「そ。まあ、ありがと……私も使えるもんはなんでも使うから、使える限りはあんたのことも使い倒していくから。覚悟できてるよね?」
「そりゃもう。こっちは弟子ですから」
澳田はそう言って胸を張る。
「はは、そういやそっか。弟子なら師匠に絶対服従だもんね」
水季はそう言い、ふっと笑うのであった。
*
それからは放課後教室で勉強しつつ、合間に将棋をやるという日々が続いた。そうすれば勉強と将棋を両立することができたからだ。最終下校時刻まで学校に居座り、その後場合によってはカフェやファミレスなどに移動して続ける。そうして遅くなる前に帰るというスケジュールであった。
「ただいまぁ……」
とすっかり夜も更けた中、澳田は帰宅する。玄関に父親の革靴があるのをみとめ、一つため息をついて居間に入った。
「おかえり。あんた最近遅いけどどうしたの?」
と母親が声をかける。テーブルの上には料理が並んでおり、すでに父母は食べ終えているところであった。
「試験勉強してるからさ」
「だとしてもこんな遅くまで外で」
「友達にも教えてるから」
と澳田が答えると、父親がフンと鼻を鳴らす。
「自分ろくにできないのに人に教えてるわけか。いい身分だな」
「――そっすね」
「どうせ自分より頭の悪い人間に教えて優越感を得たいだけだろ」
「どうですかね……」
澳田は小さく――父親に気取られぬよう本当に小さくため息をつき、椅子に座り食事をとるのであった。
*
金曜日。試験前最後の週末が迫っていた。
「なあ水季、土日の休みはどうする?」
「勉強?」
「ああ。俺はいくらでも付き合うけどさ、でも学校は使えないじゃん。図書館も会話はあんまよくないだろうし、そこで将棋やんのもさすがに迷惑だろうからさ。かといってファミレスとかはそんな何時間も居座れないし金もかかるし」
「ああ、そういう……じゃあ私の家でいいんじゃない?」
「は? え、お前んち?」
「うん。別に声出せるし、将棋もできるし、お金かからないし。買い出しとかはあんたが行けばいいから。こっちもその方が将棋の環境整っててやりやすいから」
「いや、そうだろうけど……ほんとにいいの?」
「というか私がそれがいいって言ってんじゃん。なんか問題?」
「いや、こっちはなんのの問題もないけど……じゃあお言葉に甘えてというか、お邪魔させていただきます」
「ならいいけど。当日場所教えるのも面倒だから今日の放課後はそのままうちでやったほうがいいかもね。いちいち迎えに行くのも時間の無駄だし、それならそっちも家の場所覚えられていいでしょ」
「そっすね……んじゃまあ、そういうことで」
そう答えつつも、澳田は内心で動揺していた。
マジか。マジか? こんないきなり家とか。普通呼ぶか? まあこいつが普通じゃないのは段々わかってきてはいたけど……というかマジかよ。女子の家とか生まれて始めて行くわ。そりゃ「ループ解消」のこと考えりゃこれ以上ない前進というか、ものすごく大きな一歩だとは思うけど、まさかあっちから、別に恋仲でもないのに、しかもこんないきなり来るとはなあ……と心臓をバクつかせていた。
そしてその帰り道。澳田は水季と共に普段とは違う改札を通り、普段とは違うホームに立ち、普段とは違う電車に乗り、普段とは違う、見知らぬ街の見知らぬ駅へ降り立った。
「こっち」
と水季はどこまでもいつも通りに足早に歩いて行く。澳田はその一歩後ろを、大人しく着いていく。
「買い物するからちょっと待ってて」
と水季は道中の弁当屋に入る。その看板を外から眺めながら、
(弁当屋? てことは夕食でも買うのか? 夕食弁当なのか……親が夜仕事でいないとかなのかな)
などと考えていると、ビニール袋を下げた水季が店から出てくる。
「おまたせ。家こっちだから。もうすぐ」
と淡々と言い、歩いて行く。
駅から10分ちょっと。着いた先は、アパートの一室の前だった。水季は鍵を開け中に入る。室内はあまり広くない。扉があるので二部屋はあるようであったが、大勢が住んでいる印象はなかった。そして家具などから見ても生活感はあまりない。殺風景でどこまでも簡潔であった。
「――あの、もしあれなら答えなくていいけどさ、つかぬことをお伺いしますけど、もしかして一人暮らし?」
「今はね。知らなかった?」
「そりゃそんなプライベートな事情まではね。一人暮らしなのに俺来て大丈夫だったの?」
「一人だから大丈夫なんでしょ。他の誰の許可もいらないんだし」
そういうものか、と思いつつ、澳田はちらりと室内を見る。リビングと思しきその小さな部屋にはローテーブルとテレビくらいで他に物は少ない。明けられた扉から隣室を見る限り、おそらくそちらが寝室兼水季の私室であった。そちらにはデスクチェアとPC、それとカラーボックスには将棋の本がびっしりとつまっていた。
「ジロジロ見ちゃって悪いんだけど、なんというか殺風景な部屋ですね……」
「別に将棋しかしないんだから他に必要なものないしね。今は親もいないし」
水季はそう答えて自室に入る。
「あ。着替えるからちょっと外出てて」
「あ、そっすよねはい。出てます」
「寒いのにごめんね。終わったら呼ぶから」
水季に言われ、澳田はすぐさま家の外に出る。十二月の陽は短く、すでに太陽は落ちあたりには暗闇が広がっていた。骨までしみるような寒さの中、澳田は手に息を吐き体をこすりなんとか温めようとする。
「ごめん、おまたせ」
と水季が扉を開ける。中に戻ると、そこにいたのはジャージ姿の水季だった。
「――なんというか、完全に部屋着な部屋着っすね」
「そりゃね。楽だし」
「それ中学のジャージ?」
「そう。もったいないじゃん」
と言いつつ、水季は早速自室の机に向かう。
「悪いけど澳田はそっちのちゃぶ台使ってね」
「了解」
澳田は早速プリントアウトした棋譜を取り出す。スマホでも確認はできたが、紙のほうが暗記のうえでは性に合っていた。小さいスマホの画面をずっと見ていては疲れるということも大きい。
「あ、ていうか将棋盤あったら使ってもいい?」
「は? 机に?」
「じゃなくて駒並べるの。パチンパチンうるさいかな」
「それは気にならないけど、駒並べるって何するの?」
「例の相手の棋譜の。仮想敵としての練習相手になるなら体で覚えとくのも必要じゃん」
「いや、それはいいけど、勉強は?」
「そっちはもう十分やったからな」
「そんな? まああんたが決めることだから口出しはしないけど、でも私のせいで順位落ちたとか言うのはやめてよね」
「ないって。たとえ落ちたとしてもお前のせいになんかするわけないし。全部自分のせいでしょ。全部自分の判断でやりたいからやってんだしさ」
「そう……あのさ、ほんとちゃんと答えてほしいんだけど、なんでそこまでするの? あんたに何もメリットないじゃん」
と水季は言う。
「それは……弟子だから、ってのはダメ?」
「ふざけてんの?」
「ふざけてはいないよ。別にメリットとか考えてないし。メリットで言えばまあ、そうやって応援してるお前が勝ったら嬉しいからじゃない? 少なくとも一人で勉強して一位とってるよりはさ。あとはまあ、単純にこういうのなんか楽しいしな」
「こういうのって?」
「こう、相手がいて、目的があって、対策して、みたいな? もちろん実際戦うのは自分じゃないけどさ、でもそこに少しは関わってるっていうのはなんかこう、経験ないしな」
「ふーん……あんたってもしかして相当お人好し?」
「でもないと思うけど。結局自分が面白くなきゃやってないだろうし。まあなんだかんだ全部自分のためだよ多分。もちろんお前の勝利が目的だけどさ、それはもう俺の目的でもあるっていうか、勝手に共有っていうか、乗っかってて悪いんだけど」
「別に。応援って多分そういうものだろうから」
「かもな。とにかく俺の方はほんと大丈夫だからさ、水季は心置きなくどっちも好きにやってくれよ。勉強だってじゃんじゃん教えるし」
「そう……こっちはまだあんたに教えられるほど余裕ないけどね」
「対局してもらうだけで勉強になるって。それにそっちは二四日勝った後で全然いいしな」
「ほんとお人好しっていうか、もはや不気味」
水季はそう言って笑い、机に向かうのであった。