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「水季さん、将棋やらない?」
と澳田が携帯将棋盤片手に後ろの席の水季に声をかけたのは休み時間だった。
「――は?」
という水季の反応は、ある意味当然だった。それまでろくに話したこともないクラスメイトが、いきなり将棋を指そうなどと言ってきたのだ。とはいえ澳田もその反応は織り込み済み。まあ当然そうなるよな、と思いながらもゲームのことを考え前へと進む。
「いやさ、できたら将棋を教えてほしいなーって。別に教えてもらわなくてもいいけど、対戦してもらうだけでいいし」
「……忙しいから無理」
「なにも今指そうってんじゃないよ。そりゃこんな10分しかない休み時間じゃ無理だし。昼休みとか放課後とか時間ある時さ、指してくれない?」
「時間ないから無理」
「あーそう……やっぱ将棋の練習とかで忙しい?」
「そうだけど、というかいきなり何?」
と水季は怪訝な顔を澳田に向ける。その恐ろしく整った顔でまっすぐに睨まれると、澳田もさすがに直視はできず、思わず視線をそらしごまかすようにメガネを上げた。
「いや、最近将棋ハマっててさ。前からやってはいたけどネット対戦とかやってて。それでやっぱ強い人とやると勝てなくて悔しいからさ。でも水季さんに教えてもらえば上手くなるかと思って。弟子入りみたいなもん? もちろん対戦してもらうだけでいいんだけどさ。それにやっぱりほら、水季さんがどれだけ強いかも実際やって体験してみたいってのもあるし」
「あっそう。けどそれ私に何かメリットある?」
「それは、やってみないとわからないけど……もちろんこっちだけ頼み事聞いてもらう気はないよ。こっちもさ、何でも頼み事聞くから。取引っていうか交換っていうか。どうよ?」
「興味ない」
「ですよね……俺が練習相手になるってのはどう?」
「あんたが練習相手になる保証がない」
「確かにそうだけど、一応それなりには指せる自信あんだけどな。ネットのCPUとかとは一番上のレベル相手でも勝ったりしたことあるし。まあやってみないことにはわからないんだしさ、一局くらい頼むよ。この通り!」
と澳田は手を合わせ頭を下げた。
「――どっちにしたってあんたがほんとに指せるかわからない以上時間の無駄じゃん」
「その通りだけど、じゃあなんか試してくれよ。なんでもいいからさ」
澳田の懇願に水季はため息をつき、紙の束を取り出して差し出した。
「じゃあこれ」
「え? ――これ棋譜ってやつだよな多分」
と澳田は紙を見て言う。棋譜というのは将棋の試合の一手目から最後まですべての手、すべての過程を記録した表のようなものである。
「それくらいは知ってるんだ。これ全部暗記してきて」
「――へ?」
「暗記。棋譜全部。一局分最初から最後まで。とりあえずそれくらいできないと話にならないから」
「暗記できたら将棋指してくれるってこと?」
「……考えはする」
「よし、わかった! 任せとけって!」
「そう。ああそれと、ただ暗記するだけじゃなくてその通り実際駒動かせるようにね。じゃないと意味ないから」
「了解!」
澳田はそう言い、水季に背を向ける。そうして一人ふっと笑った。
(よし、よしよしよし! 最初からうまくいくなんて思っちゃいなかったけど、最初の最初でこれなら大前身じゃねえか! 水季のやつ、当たり前だけど俺のことなんも知らねえみたいだな。まあ当然だけど。しかし「暗記」なんて俺の一番の得意分野で勝負を挑んでくるとは……儲けすぎて笑いが出てくるぜ!)
澳田はそう言い、早速棋譜の暗記に取り掛かるのであった。
*
翌日。
「水季さん覚えてきたぜ!」
と澳田は水季の机の上に棋譜の束を置くのであった。
「は? ――いや、嘘でしょ。昨日の今日で」
「ほんとだって。今から証明すっから」
澳田はそう言って携帯将棋盤を開き、駒を並べる。
「じゃあやっから。ちゃんと確認してくれよ」
「いや、時間」
「10分もありゃ余裕だって。んじゃ行くぞ」
澳田はそう言い、暗記してきた棋譜の通り駒を動かしていくのだった。
そして数分後。
「――で相手の投了だな。どう? 途中で止めなかったってことは全部合ってただろ?」
その問いに、水季は眉間にシワを寄せたままこくんと頷いた。
「よし! 暗記はマジで得意だからな」
「それにしたって一日で……あんた頭いいの?」
「どうだろ。まあ暗記は自信あるけど――自慢にしかならないけど一応学年一位だからな」
「は? 成績?」
「そう。試験」
その言葉に、水季は少々絶句する。
「どうよ。これで将棋指してもらえるよな」
「……悪いけどさすがにまだ無理」
「え?」
「確かに悪いけど、でもこれただの暗記だしさすがにこれだけであんたの実力わかるわけじゃないから」
「だからそれは実際指してみないと」
「時間ないし。とりあえず一日待って。明日持ってくる」
「……何を?」
「課題」
水季はそれだけ言い、また自分の将棋の勉強に戻っていくのであった。
*
翌日。
「これ」
と澳田が水季から手渡されたのは数冊のノートであった。
「何これ」
「中見ればわかる」
そう言われ澳田はノートを開く。中に書かれていたのは、大量の「詰将棋」の問題だった。
「詰将棋?」
「そう。全部私が作った問題」
「マジで? お前詰将棋の問題まで作れんだ」
「普通でしょ。将棋やってる人ならみんなできるし。作るのだって練習になるから」
「ていってもなあ……」
澳田はそう言い、すべてのノートをパラパラと開く。書かれているのはすべて詰将棋の問題であり、その量は膨大な数に上った。
詰将棋。それは簡単に言えば「ある特定の盤面から王手をかける」という問題であり、将棋の基礎力の向上にも非常に役立つものであった。ある意味で算数の計算ドリルに近いが、難易度は実に様々である。当然駒や手数が増えればそれだけ選択肢も増え難易度は上がる。何にしても重要なのが何手も先の未来を読み切る力であった。
「それ全部解いてきて」
と水季がどこまでもクールに言い放つ。
「へ?」
「全部。解けたら相手してあげる」
「……マジで?」
「今度はほんと。それ全部出来るなら確かに練習相手くらいにはなるだろうから。一応言っとくけどそのノートには書き込まないでよね」
「そりゃもちろん。ちなみに期限は」
「さあ? あんたがギブアップするまでじゃない?」
「――了解。やってやるよ。その代わり約束だからな! これ終わったら絶対将棋するぞ!」
澳田はそう言い、早速詰将棋に取り掛かる。その背中を見ながら水季は「一体何がこいつをそこまでさせるんだろう……そんな将棋好きなのか?」などと思うのであった。
*
放課後。自宅に帰った澳田は早速詰将棋の問題に取り掛かる。そこへ例の「死神」に声をかけられた。
「何やってるんだ?」
「おおっ、びっくりした。いきなり出てくんなよ」
「注文の多いやつだな。慣れろ」
などと「死神」は無茶を言う。
「何してるんだそれは? やつを成仏させるのに必要なことか?」
「間接的にはな。少なくとも今の俺にはこれ以外のルートなんて思い浮かばねえし。あいつが棋士である以上将棋で近づく以外に何があるんだって話だしよ」
「なるほど。共通の話題というやつだな。なんにせよやる気が出たみたいでなによりだ。貴様も延々と同じ一ヶ月を繰り返してはいられんからな」
「そりゃな。というかなんでそんな他人事なんだよ」
「私にはどうにもできんからな。とはいえこっちもいつまでも終わらないのはさすがにめんどうだからな。まあ何かあれば言え。できることであればやってやるぞ」
どう考えても当然の提案だけど、なんでそんな偉そうなんだこいつ……などと思いつつも、
「じゃあ例えばどんなことできんだよ」
と澳田は尋ねる。
「盗聴監視は得意だな。霊だからバレない」
「犯罪だし罪悪感あるわ。いくら法に触れないつったって」
「細かいことを気にするやつだな。あとは取り憑いてる霊との交渉、会話は可能だな。やつの要望を聞くくらいはできる」
「別に俺が相手にするのそいつじゃねえからなあ……」
「あとは一応禁断だが、相手の心も読むことができるぞ」
「は? 相手ってそれ水季だよな」
「あの女だ」
「そんなことまでできんの?」
「一応な。全部読めるわけではないが。お前の心も何度か読んでるだろう」
「あれやっぱそうだったんだ……声に出してねえのに返事されてるとか思ってたけど」
「ああ。心、記憶や思考というものは部分的に霊体にも同期している部分だからな。幽体であれば我々もいくらかは干渉できる。まあ記憶の盗み見のようなものだ」
「そういうのか。けどさすがにそれはなあ……」
「なんだ、やらないのか?」
「いや、あっちだってさ、そんなとばっちりで自分の知らないうちに取り憑かれてんのに、その上自分の知らないうちに他人に勝手に心読まれてたんじゃかわいそうっつうか、やっぱ倫理的にもダメだろっては思うからなあ……」
「こんな状況なのに真面目だな。そのうちそんな事も言ってられなくなるかもしれんぞ」
「かもしれないからそれは最終手段に取っといてくれよ。盗聴だの監視だのにしたってさ、相手のこと考えたらとりあえずは手段としちゃダメだからなあ」
「本当にくそがつくほど真面目だな」
「普通だろ。世の中が他人のこと考えたない人ばっかなだけじゃない?」
「かもしれんな……ま、成り行きとはいえこうして関わったのも何かの縁だ。私に原因はないとはいえ、私とて貴様には多少の同情もある。非情な手段を使う場合は気にせず私に言うといいい。それをするのも貴様ではなくあくまで私だ。だから成仏を最優先に気兼ねなくな」
「非情ねえ……やっぱ死神だからそんな薄情な感じなの?」
「死神ではないがな。すべては私の役割にすぎん。役割だからやるだけだ」
「そっか……そういやお前名前なんていうの? 未だに聞いてなかったけどさ」
「名前はないぞ」
「は? え、ないの?」
「ないな。我々には個体の区別というものは存在しない。この姿も別に私の姿ではない。人間と関わる以上便宜的に人間の姿を借りているにすぎないからな」
「マジか。でも名前ないんじゃ呼びづらいな」
「なら好きに呼べ。名前などどうでもいいからな」
「そう? んじゃ……死神だからガミ」
「それでいいぞ。厳密には死神ではないが」
「つっても名前があるとやっぱ楽だからな。認識しやすいし」
「確かに人間はそういうものだな。しかし悪いな。今もどうにも助けにはなれそうもない。詰将棋などというものはまったく知らないからな」
「いいよ別に今更。こっちだって自分のためにやってんだし」
「そうか。それにしても随分楽しそうに見えたが」
「そう? まあ実際面白いからな。将棋自体は遊びでやってたし、まあ好きなほうだし。こういう詰将棋も学校の試験と似たようなもんだからな」
「貴様は勉強が好きなのか?」
「……好きというか、面白いとは思うよ。答えがあるし、できた時は快感だし。あとはまあ、一応できるもんだからな」
「なるほど、ガリ勉というやつか」
「はっ、確かに。俺なんかずっとガリ勉だったようなもんだからなあ……」
澳田はそう言い、一人黙々と詰将棋の問題を解くのであった。