16
将棋会館にたどり着く。水季の姿はない。しばらくそのままそこで待つ。寒さは興奮で気にならない。人の視線も気にならない。だってやったのだ。ついに勝ったのだ。
勝った、勝った。運命を変えた。過去を、未来を変えた。ずっと勝てなかった相手に勝った。そしてなにより、プロの切符を、確実に掴んだ。
こんな素晴らしい勝利が、他にあるだろうか。
とはいえ日付は十二月二四日。日も沈んだ真冬。さすがに興奮だけで忘れられるような寒さではない。徐々に寒さも「思い出」し、体がガクガクと震えてくる。
そんな時に、水季が姿を現した。
「水季!」
と澳田は思わず声をかけていた。
「ああ、澳田。来てたんだ」
水季はそう言ってふっと微笑む。その表情には、どこか憑き物が落ちたかのような穏やかさがあった。
「そりゃな! やったな! ほんとおめでとう! てかめっちゃさみい!」
「はは、耳真っ赤だしね。ずっと外で待ってたの? どっか入ってればよかったのに」
「いても立ってもいられなくてさ。結構待ったけどやっぱ勝つとインタビューとか色々あった?」
「うん、それもそうだけど、ちょっと病院から電話があってさ」
「あ」
と澳田は声を漏らす。そうだ、忘れていた。この日は、対局のあとは、母親の容態が急変して……
「それでね、お母さんの状態がかなりよくなったんだって」
「――え?」
「奇跡的な回復とかで、退院の目処も立ってきたって。ほんと、正直勝ったことより嬉しかったなあ」
「そっか……そうだな……ほんとによかったな!」
前回との違い。それは勝ったから未来が変わったのか。それともそもそもこの十二月二四日がこれまでとは違うものだったからなのか。それは澳田にはわからない。わからなかったが、分かる必要も別になかった。
大事なのは現実だった。絶対勝たなければならない対局に勝利した。母の体調が良くなった。そういう現実だけがすべてであった。
「とりあえずどっか入って暖まらないと。相当冷えてるんじゃない?」
「まあそうだけど、確かに――あっくしゅん!」
とくしゃみをし鼻水を垂らす。
「やば。風邪引いたら大変でしょ。せっかくの冬休みなのに。とにかく行こ。というか私夕飯もまだだし」
「そういやそうだな。俺もだわ。じゃあ夕飯がてら温まりにどっかファミレスでも行くか。というか打ち上げだな打ち上げ」
そう言い、二人は並んで歩き出した。
*
二人は駅前のファミリーレストランに入る。中は家族連れや中高生程度のカップルの姿などが目立っていた。内装、BGMで嫌というほどクリスマスであることを意識させられる。
「そういや今日クリスマスだったっけ」
と席につきつつ水季が言う。
「知らなかったの?」
「というよりそんな意識じゃなかったから。二四日はクリスマスより対局だったし」
「そりゃそうだよな。そのために毎日あんだけやってたんだし。まあとにかくさ、打ち上げだし、ほんとおめでとう。それとお疲れ様」
「うん、ありがと。でも乾杯のコップもないね」
「ああそっか。とにかく先に注文しないとな。あんだけやったらそっちも相当腹減ってんだろ」
「そりゃね。一応間食はしてるけど全然」
注文も終え、二人とも飲み物片手に再度席につく。
「んじゃようやく。今日の勝利、ほんとにおめでとう。それにお母さんのこともほんとに良かったな」
「うん。まあまだ詳しくはわからないし油断はできないけど、ほんとよかった」
「だよな。ま、ほんとさ、あんだけがんばって……ほんと、ようやく、ようやく勝てて……ほんと良かったよほんと。ほんとにさ、もう、おめでとう!」
と澳田は涙ぐみながら言う。
「なんでそっちが泣きそうになってんの」
「だってさあ、そりゃめっちゃうれしいし、なのになんかお前はいつも通りクールなままだしよお」
「それはまあ、一応ひとしきり一人では喜んだっていうのもあるしね。それにまだはっきり実感があるわけでもないし……もちろん嬉しいしこのためにやってきたけど、でもやっぱりこれは別にゴールじゃないから。通過点で、まだまだ続いていって、むしろこれからなわけだし」
「そうだな……その通りだしなんかそれでこそ水季って感じがするよな!」
「はは、なにそれ。どこが?」
「どこまでもストイックっていうかさ。歩みを止めないっていうか。まあでも今日くらいはパーッと行こうよ。打ち上げなんだし、そもそもクリスマスじゃんか」
「そうだね。でも澳田は反省会しないとでしょ。今日の感想戦」
「は? なにが?」
「あんだけ予知だとか大口叩いといて全然だったじゃん」
「それは、ほんとごめん! そういうこともある! でもお前が俺なんか信じないで自分とデータを信じてやってくれててほんとよかったよ。実際どうだった今日の対局? ずっと見てたけどいかんせん素人に毛が生えた程度だからさ」
「うん、まあ、練習の成果が出せたかな。AIのおかげはあるよ絶対。あれはすごい練習になったし。けどやっぱり積み重ねかな。これまでの研究とか、分析で、ちゃんと相手の手も読めてたし。もちろんあんたのおかげでもあるしね。あれだけ色々見てがんばってくれてたからさ」
「そっか……そりゃよかったわ。ほんと、勝ったんだよなあついに……」
「なんかあんたのほうが嬉しそうだよね。感慨ひとしおって感じで」
「そりゃなあ」
だってこっちはそれに二ヶ月以上費やしてるんだから当然だろ、と内心思いつつ澳田は笑う。
「ほんとよかったよほんとに……あのさ、お前学校辞めるとか考えてたりする?」
「は? なにいきなり」
「いやだってさ、俺も詳しくは知らないけどこれでようやく念願叶って『プロ』になったわけじゃん? 今よりお金稼いで。それはお前の夢だったわけだろうしさ、もう就職決まったようなもんなんだから見方によっちゃ学校なんてもう行かなくてもいいわけじゃんか」
「まあそうかもしれないけどね……でもとりあえずはまだ行くよ。この先のことはわからないけどさ。お母さんからもちゃんと高校だけは出なさいよって釘さされたから。負担かけといてなんだけどこっちのせいで行けないなんてことにだけはしないって」
「そっか……ならまあよかったよ。お前いなくなったら寂しいもんな」
「あんた他に友達いないしね」
「お前に言われたくねえよ」
そう言い合い、二人は笑った。
「けどまあ、忙しさは変わらないからね。むしろ今までよりもと大変になるし。だから勉強、これからもよろしくねお弟子さん」
「任せとけって。もう予知能力も消えたからあんな完璧なヤマは無理かもしれないけどさ、でもいくらでも教えるし。雑用だろうとなんだってするしな。そこは弟子だからさ。代わりにこれまでの分まで将棋ちゃんと教えてくれよ師匠」
「そりゃね。でもそっちも少しはこっちの練習相手になるくらいは上手くなってよねさっさと」
「善処しますしそれこそ師匠の仕事じゃん」
澳田はそう言って笑い、ジュースを口に運ぶのであった。
「そうだね、今まで師匠らしいことなんてひとつもやってないし。まあ師匠だの弟子なんて形だけだけどさ。別にただ将棋打つ友人なんだし……ちょっと席外すね」
水季はそう言って席を立ち化粧室へと向かう。一人残された澳田は背もたれに体重を預け、ふーっと一つ息をついた。
――勝った。勝ったんだ。ほんとに勝った。勝ってクリスマスをやっている。これでようやく、ようやく終わりが……
いや、終わりなど来ない。これだけでは終わりではない。勝つか負けるかがループを左右しているわけではない。それはあくまで過程。最重要条件の一つにすぎない。
「恋人と素敵なクリスマスを過ごす」。あくまでそれが成仏の条件。だからこれでは足りない。足りないはずだ。「素敵なクリスマス」はギリギリとして、「恋人」はどう考えたってクリアしていない。
恋人。澳田はこれからのことを考える。当然今日も、十二月二四日クリスマスイブも時間は多く残されていない。まだ高校生である以上なるべく早く帰らないといけない。
いや、それ以前。そういうことの前に、恋人にならなければならないのだ。付き合わなければ。そしてそのために、告白しなければ。
澳田はそのことを改めて考え、身震いする。告白など当然、したことはない。男女交際の経験だってない。そもそも誰かを好きになったことなどない。ずっと勉強、すべては受験のため。それに敗れれば現実逃避。人を好きになる余裕など、そもそも他人を見る余裕など、どこにもなかった。
そう、好き。人を好きになるということ。本来告白する上では最も大事なこと。というより、普通それがなければできないこと。
自分はどうだ? と澳田は考える。自分の気持は。成仏だとかループだとか、そんなことのために告白するのか? そんなことのために告白なんかしていいのか? 相手の気持ちを弄ぶような真似をしてもいいのか? そういう考えが、澳田にはあった。
でも今は違った。澳田自身。とっくにわかっていたことであった。
――俺は水季薊が好きだ。気づいたら、好きになっていた。でも当然だ。あいつを好きにならないやつなんているのか? こんな近くでずっと見てきて。あの強さ、気高さ。将棋に打ち込む姿。意志の強さ。ひたすらに努力する姿。あれだけ過酷な環境にいて、泣き言一つ言わず戦い続ける、その凛とした佇まい。
気づいたら惹かれていた。この人間をもっと見たいと、知りたいと思うようになっていた。この人間と、もっといたいと思うようになっていた。少しでもこの人間の近くにいたいと思うようになっていた。そうして一緒に将棋を指し、たまに見せるあのクールでどこか見透かしたような笑みを向けられたら、それだけで十分な気がした。けれども、何より。
彼女の力になりたかった。これからもずっと、彼女の努力を、戦いを、勝利を支えたかった。そのための手助けをしたかった。彼女の勝利を見たかったし、一緒にその勝利を喜びたかった。そうして、少しでも自分も強くなって、今よりもっと役に立って、そして少しでも彼女に近づいて、並んで……
水季薊という驚くほど強い同級生の女性と、少しでも並びたかった。ただ、彼女と少しでも対等に、なりたかった。
好きだからそうだし、そうだから好きだ。自分でもそれがちゃんとした「好き」なのかどうかなどもうわからない。なにしろ随分と久しぶりの感情であった。多分昔、幼稚園や小学生のころは自分も誰かを好きになっていた。でもその理由は「顔が可愛いから」とか、そういう理由でしかなかった。
けれども今は違う。その顔は、もはや入り口ですらない。入口で言えば将棋であり、そして将棋を通して知った彼女の内面、魂に強く惹かれたのだ。ただ、この人間と少しでも一緒にいたいと。
それが澳田の本心であった。理由があるから、他の目的のために告白をするのではない。好きだという気持ちがあるから。そして何より、それを伝え、願わくは共有し――そう、共有できたら。もしも、相手も同じ気持ちでいたとしたら。そうして二人で、生きていけるとしたら。
それほどの幸福と幸運はあるだろうか。
――こんなんならループだの成仏だのない方がマシだったな……
澳田はそんなことを思う。邪念がある。別の理由が、あってしまう。ただ純粋に、好きだからと告白できたら。
(もちろん好きだけど、でもとっかかりとか、結局理由は別にあるんじゃないかとかいう邪推とか、今ひとつ自分を、自分の気持を信じきれないというか……)
疑うというのはもはや澳田にとっては日常的な行為であった。疑う、考えるというのは勉強、試験というものの本質で、それだけで生きてきた。それでありながらつねに「答え」が存在し、その答えはいつだって外部にあった。
しかし今回は違う。答えは、内部にある。そしてそれを誰も証明してくれない。
自信がない。それはあらゆる点でそうであった。自分の気持ちを信じ切るということ。今まで経験がない以上、自分の気持ちが正しいのか、本当なのかわからない。その気持ちを信じてもいいのか、わからない。
自信のなさは他にもある。本当に告白なんてことをしていいのか。告白なんてして、本当に「成功」するのだろうか。
それは同時に恐怖でもある。もし失敗したら、断られたら。そしたらこの関係は一体どうなってしまうのだろう。友人関係、師匠と弟子。それを継続させることすら危うくなってしまう。一体どういう顔をして、どんな気持ちでその先生きていけばいいのか。顔を合わせればいいのか。
もう、失敗は嫌だ。負けるのは。受け入れられないのは。拒絶されるのは。それは散々、嫌というほど経験してきた。
けれども、というかそれ以前に。告白に失敗したら、断られたら。その先はおそらくまたループだ。
振られた相手にまたアプローチして、告白して、しかもその記憶が相手にないって、それは一体どういうことだ?
振られたのにもう一度やり直すなど、自分にできる気がしてこない。それ以前に「なかったこと」にして、ある意味で相手の記憶を消去して再びやり直すなど、あまりにも卑怯で不誠実すぎると思う。
ここに来て気づく。一番の、最大の問題は自分にあった。水季の勝利など問題ではない。その後の自分。結局最後にやりきるのは、成功させるのは自分。
全部自分にかかっていた。
「おまたせ」
と水季が席に戻ってくる。
「どうしたの? なんかすごい顔してるけど」
「え? ――ああ、ちょっと考え事っていうか」
「そう? なんかすごい汗かいてるけど。もしかして寒い中待ってて体調崩した?」
「え?」
水季に言われ、澳田は自分の額に手をやる。言われた通り、いつの間にか額や首筋には汗を書いていた。
「いや、そういうんじゃないよ多分。風邪とかは全然。ちょっと暖房で暑かったかな」
「これで? 暑がりなんだね。でも実際風邪かもしれないんだから早く帰ろっか」
「いや、大丈夫だってほんと。全然そういうんじゃないから」
と澳田は慌てて手を振る。
「それよりちょっとお前に聞きたいんだけどさ」
「なに?」
「その――お前っていうか、棋士って職業の人は何回も何回も対局するじゃん。それで何回も何回も負けたりして……でも何回負けてもまた戦うじゃん。お前だってさ、それは同じで。今日だってまさにそうっていうかさ、一度も勝ったことない相手に、ずっと負け続けた相手と戦ったわけじゃねえか。その、そういう戦いの前って、負けるかもとか負けたらどうしようとかって、考えたりしてた?」
「……ちょっと違うけど、対局、戦いであって勝敗を決める以上、負けるっていうことは絶対ありうるし、そういう意味では『負けることもある』っていうのは、考えてるっていうかわかってる」
と水季は言う。
「そっか……そういう時ってさ、怖くなったりとか、負けることしか考えられなくなったりとか、そういうことってないの?」
「前はね。最近でも、たまにはそういうこともあるし。というよりは勝つイメージがあんまりできてなくて今日は負けるかもとかそんな感じだけど。でも今日は別。全然」
「それはどうして?」
「……色々あるでしょ。理由は色々。練習とか、努力とか、そういう積み重ねたものもあるし。でもそれよりはやっぱり、自分が勝ちたかったから。勝って、欲しい物があったから。目的があったから。目指してる未来が、はっきりあったから。
だからそれしか見てなかったし、見えてなかった。だからもう勝ちとか負けとかそういうんじゃなくて、そういうのも超えてさ、その先にある、勝つことで手に入れるものだけをはっきり見てて。もちろん昇級とかプロとかもそうだけど、それより喜びとか、嬉しさとか、そういう未来がはっきりわかってて……だから多分、負けるとか全部何も考えずに、ただ打てたんだと思う」
「そっか……」
――そうか、そうなのか。勝つこと、成功すること。それだけが目的ではない。それそのものが目的ではない。
それによって得るもの。手に入るもの。未来。喜び、幸福……
同じだ。俺も同じなんだ。ずっと同じだったはずなんだ。いつしか見失っていたけど、勝利そのものが目的なんじゃない。勝利そのものが喜びなんじゃない。勝利そのものに、用があるわけじゃない。
その先にある未来。喜び。掴みたいもの。
自分には何もなかった。いや、ほんとはあったのかもしれない。最初は。でもいつしかそれを忘れていた。受験が、合格が、それだけが目的になっていた。その先にある未来なんて、自分の喜びなんて、想像もしていなかった。ただ親の命令で。ただ恐怖一心で。そんな気持ちで、勝てるわけなんてなかったんだ。
それは別に自分が悪いわけではない、と澳田は思う。昔の自分を、今より幼い自分をそう慰めたくなる。お前が何もわからなかったのは、何もお前が悪かったわけじゃない。お前のせいなんかじゃない。仕方なかったことだ。タイミングだ。幼くて、まだ世界も知らなくて。出会いもなくて。
「――俺はもっと早くお前に会いたかったよ」
気づいたらそんな言葉が漏れていた。
「え?」
「あ、いや、こっちの話」
そうだ。もし、もっと早く水季に出会えていたら。彼女の戦う姿を、努力を、ひたむきな姿を。何よりその、夢を見据えて走る生き様を見て、知ることができていたら。自分のこれまでの人生も、まだ少しは変わっていたのかもしれない。
でもそれはありえない過去であった。そうでなかった以上、そんな夢想をしても意味がない。過去は変えられない。けれども、未来は変えられる。
そうだ、未来は変えられる。未来は、手に入れることができる。まだ終わったわけじゃない。まだ手遅れなわけじゃない。俺は、運良く水季に出会えたじゃないか。それを知ることができたじゃないか。
こんな幸福、逃すわけにはいかないじゃないか。
遅かったなんてことはない。人生にはタイミングがある。今、水季に出会えた。それを知ることができた。そして、好きになることができた。
確かにループだとかそういうありえない超常的なものの結果だし、それは反則的な行為かもしれない。けれどもそれがなければ自分は水季に出会うこともできなかった。ただの話すことのないクラスメイトのままで終わっていた。何一つ知ることもなく、変わることもできず、ずっと一生、このままだったかもしれない。
理由がなんだ。動機がなんだ。そもそものきっかけなんてどうでもいい。不純であるかなんて関係ない。
だって始まりがなんであろうと、今のこの自分の「好き」という気持ちは本物なのだから。
「うわっ、雪降ってきた」
と水季が窓の外を見て言う。
「マジ? 降るって言ってたけどマジで降るんだ」
「そりゃね。そういうもんでしょ天気予報って」
そう言って水季は笑う。
「さすがにもう行かなきゃね。電車止まったりなんかしたら最悪だし」
「そうだな。行くか」
そう言い、澳田は立ち上がった。




