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それから運命の対局までの一週間、水季は将棋詰めの日々を過ごした。それは澳田も知らぬところであったが、一日起きてる間の約十五時間はすべて将棋。水季はたとえ対局前であろうと「一日絶対八時間睡眠」は守っていた。棋士は脳が商売道具である以上、それをできるだけ常に良い状態に保ち、長持ちするよう守らなければならない。そのためには最低でも八時間睡眠というのは絶対であった。そこに休憩の仮眠や最低限の息抜き兼買い物。それ以外の十五時間は、すべて将棋。とはいえ将棋はプロの長い試合になれば二日間、計二十時間を超える対局くらいは普通にある。そうである以上、練習とはいえ十五時間など彼らにとってはたいした時間ではなかった。将棋自体一局に非常に時間がかかる。それは練習とて同じこと。長い練習時間というのは、将棋の常なのであった。
一方で澳田は、毎日が気が気ではなかった。毎分毎時間、運命の時が近づく。十二月二四日。水季は勝てるのか。自分のループを止めることはできるのか。というかそもそも、水季が勝ったところで自分が何かしらの行動を起こさなければループの解除には至らない。恋人、告白……そんなこと自分ができるのか? それとも万が一あっちからなんてことはありえるのか? そもそも告白したところでそれが成功する可能性ってどれくらいのもんなんだ? 自分じゃ全然わからないけど、この状況可能性はあるのか? そもそも「恋人との素敵なクリスマス」ってアバウトすぎるけどそれは告白とかは必須なのか? などと考えだしたら止まらない。堂々巡り、不安が押し寄せる。考えるほど学校で授業なんて受けてる暇はないと思えてくる。自分も休んで水季の手伝いをするか。といっても自分にできることなど限られている……とにかく少しでも勝率を上げるためにできることをするしかない、と授業中もひたすらに棋譜とにらめっこ。そうして放課後になると頼まれていた買い物をしつつ、ブドウ糖等の栄養を差し入れとして水季の元へ運ぶのであった。
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そして運命の日。十二月二四日、対局当日。
澳田龍馬実に三度目の今年のクリスマスイブであった。何も知らなかったある意味平和な一度目のクリスマス。本当にループが起こるのか疑いつつも、とりあえず次に賭けいた二度目のクリスマス。そして考えうる限りのできることはやりきり、あとはただ祈るだけと不安な時間を過ごす今回、三度目のクリスマス。
とはいえ、ここまで来てしまえばもう澳田にできることはない。すべて水季に託すしかなかった。チャットで応援のメッセージだけ送る。とはいえ一人で家にいても落ち着かず、ゲームをしようと思っても集中できない。いても立ってもいられず、結局は家を出て対局会場の最寄り駅へと足を運んでいた。
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夕方。澳田は水季の対局会場の近くのファミリーレストランにいた。そこでスマートフォンの画面を見つめながら、腕を組み顔をしかめている。
戦況は、非情に悪かった。それなりに指せるとはいえ素人レベルの澳田が見てもわかるほど盤面は良くない。中盤から一気に形勢が動き、終盤に差し掛かり打つ手もないといった様相になりつつあった。ネットのストリーム画面に表示されているAIの判断も水季の圧倒的不利。勝敗はすでに決したか、といった状態である。
そうしてしばらくし、水季が投了した。勝敗を決したのは、やはり相手の奇抜な攻め手であった。
変わらなかった。同じ戦法を使ってきた。奇襲に近い序盤の攻め。とはいえ今回は水季も完全なノーガードではなかったはずだ。万に一つとはいえ、あれだけ散々言ったおかげで頭には入っていた。意表を突かれたとはいえ、すぐに切り替えて対応できたはずだ。
それでもほとんどなすすべもなく負けたのは、やはり実力の差。そしてなにより単なる序盤の奇襲だけではなく、努力と経験に裏打ちされた中盤・終盤力にあった。澳田では決して真似できない領域。少しも練習相手にすらなれなかった、地力の部分。
澳田は一人、天を仰いだ。
(負けた。負けたか……わかってたのに、相手がどうくるかわかってたのに……)
しかしすぐに「いや、あいつは何も悪くない」と考えを改める。あいつはあんなに頑張ってたじゃねえか。俺が足りなかっただけだ。もっと対策を徹底させるにせよ、まともな練習相手になるにせよ、俺にはもっとできたはずだ。自分で足りなかった部分なんて、あいつは嫌というほどわかってるはずだ。俺がとやかく言うことじゃない。
だからとにかく、慰めてやろう。いや、次こそ勝とうって、俺も一緒に戦うって、そう言ってやろう。それくらいしか今の自分にできることはない。
(とはいえ負けた……負けたってことはやっぱりまた一ヶ月前に戻るしかないってことだよな。今あいつがどういう状況かはしらないけど、こんな状況で恋人だのクリスマスだのそんなのはさすがにありえないだろうし……)
でもとにかく会わないことには何も分からねえからな。今後にせよ、今後と言うより「次のループ」に備えるにせよ、しっかり状況を把握してからじゃないと、と澳田は考え、水季にメッセージだけ送り対局会場へと向かうのであった。
*
真冬の夜。芯まで冷える寒さの中、試合の会場である将棋会館の前にいた。メッセージはだいぶ前に送っていたし何度も送っており、読まれているようであったが返事はない。もう帰ったのか、帰るにしても一言くらい言ってからにしろよ、まあ負けてすぐにそんな余裕があるとは思えないけどさ、などと思いつつ体をこすり温めていると、ようやく水季が姿を現した。
「よお水季」
と澳田は声をかける。すると水季は少し驚いた様子で顔を上げた。
「あんた――待ってたんだわざわざ」
「まあな。しかし寒いなー。お前もなんか温かい飲み物いる?」
「別にいいけど……」
「遠慮すんなって。それくらい奢ってやっからさ」
澳田はそう言い、すぐに近くの自動販売機で温かいお茶を買う。
「持ってるだけでも温かいでしょ。帰るまでの間に風邪ひいちまうからなこんなん」
と飲み物を両手で大事そうに握りつつ言う。
「これからもうまっすぐ帰る?」
澳田の問いに、水季はだまって頷き返した。二人はただ、たまたまそこにいるだけといった具合に微妙な距離を取って歩き出す。
そうして駅に向かって歩きこだしていると、駅に近づくにつて徐々に人影が増える。そして当然、どんどんと「クリスマス」の雰囲気があたりに漂い始めていた。
イルミネーション。カップル。BGM。浮足立った人々。
二人はそんな街中の喧騒と比べれば異質な存在であった、はたから見れば、ある種の別れ話を終えたあとの二人。少なくとも何かしらダークな雰囲気があるのは間違いない。とはいえ、それが将棋の対局、その敗北にあることなど通行人には想像もつかなかった。
「そういや今日クリスマスだもんなあ……俺たちもなんかクリスマスっぽいことでもする? チキンとかケーキ食いいったりさ」
「……いらない」
「やっぱ? まあそうだよな、そういう心境でもないし」
澳田はそう言い、ようやく本題へと入る。
「まあほんと、残念だったな……」
「――あんたさ、ほんとでなんでわかったの?」
「え?」
「相手の作戦。あんな、奇襲中の奇襲もいいとこの。それこそ試験問題当てたみたいに完璧に。何したの? ほんとに予知能力でもなんかあるの?」
と問い詰める様子で迫る水季。
「いや、違うよ。んなわけないだろ。今回はほんとたまたまで。たまたま棋譜読んでて遭遇して、今回のケースに近いしもしかして相手もまたこの手使ってくるんじゃないかって思いついただけっていうか」
「それだけなのになんであんなに固執してたの?」
「それは、ほんともう勘としか……いや、こっちもその勘を確証して証明できるだけの物的な根拠示せなかったのが悪いいんだけどさ」
「……まあ今更なんだっていいし別に。どうせ負けたんだから」
水季はそういい、大きく、深く息をついた。
「負け。完膚なきまで、序盤の奇襲みたいな攻めから、中盤から終盤まで全部ずっと。もう全部全然だめだった」
「――まあ、そういうこともあるよ。それが将棋ってもんだろ? お前はあんなに頑張ってたじゃねえか。今回みたいに想定外でそれがうまくいかないみたいなこともあるかもしれないけどさ、それは別にお前が弱いわけでも努力しなかったわけでもないし」
「でも想定外じゃないから」
と水季は言う。
「想定外じゃ、なかったから……あんんたのおかげで。だから何も、言い訳できない……」
「そっか、そうだな……けどまあ、次があるじゃねえか。次こそ勝とうぜ。昇級とかはまた一年無理なのかもしれないけどさ、でも別に終わったわけじゃねえんだし。俺ももっと強くなってちゃんと練習相手になるしよ。一緒に頑張ってこうぜ」
澳田がそう言うと、水季は足を止めた。そうしてそのまま、下を見つめている。
「――水季?」
「……悪いけど、それは無理」
「は? 何が?」
「……一緒にとか、弟子とか、ほんと悪いけど、全部今日で終わり。これっきり」
水季はそう言うと、フーっと鋭く息をつき天を見上げた。
「悪いけど、私にはやっぱりそんなことしてる余裕はない。弟子とか、人に教えるだとか、一緒にだとか弱いくせに、下手なくせにそんなことしてるせいで、一番大事な対局にも負けて……別にあんたのせいじゃないけど、あんたが悪いわけじゃないのに、でもほとんどあんたのせいにしてるようなもんだけどさ……」
水季はそう言い自嘲するように笑う。
「全部こっちのせい。こっちだけの問題。私だけの責任。私が、バカだっただけ。それだけ。だから悪いけど、あんたの相手はもうできない」
「そっか……わかった。それはお前の選択だからな。でもさ、別に見返りとかいらねえから俺にも手伝いくらいはさせてくれよ。学校の勉強教えるだけでいいからさ、俺にも少しくらいはお前の力にならせてくれねえか? やっぱり俺はお前の事応援してるし、勝ってほしいからさ」
「……ありがとう。気持ちだけ受け取っとく」
「いいじゃねえかそれくらい。試験前の勉強くらいさ。実際今回は役立っただろ」
「そうだけど、でももう必要ないから」
「は? 必要ないって」
「学校辞めるから」
「いや、だって」
「言ったでしょ? 余裕ないって。そんな時間ないの。無駄なことに使ってる時間。お金だってそう。勝たなきゃいけないの。プロにならなきゃいけないの学校なんて、言ってる場合じゃないの」
「……けどよ、お前の母親はせめて高校くらいはって」
「そのお母さんが死ぬかもしれないの!」
水季は叫ぶようにそう言い、顔を上げた。その目には、涙が滲んでいた。
「対局のあと、連絡がきたの……お母さんが、病気が悪化したって。手術が必要だって……成功するかもわからない。でも少なくとも今よりもっとお金がいるだけは確か。学校なんて、高校生なんてやってる場合じゃないの! 本当は今日勝ってなきゃ、プロになってなきゃいけなかったのに……それを私は、甘えてたから、たるんでたから。覚悟が全然、足りてなかったから。そのせいで、そのせいでお母さんは……」
「……それはお前のせいじゃないだろ」
「……どっちでも同じ。どっちみちお金がないのもいずれ破産するのも確か。そんな状態で学校なんて行けると思う?」
何かを蔑むような顔で言う水季に、澳田は何も返せなかった。
「学校はやめる。仕事もする。そうすれば少なくとも出費はおさえてお金稼げるから。でも将棋だけは諦められない。これだけは、私の仕事だし、自分の未来だし、お金のためにも、将棋だけは絶対に諦められない。だから私は本当に、将棋のためだけに存在する人間になる。将棋以外のすべてを捨てて、将棋以外何もしない人間になるの。そうじゃないとプロになんかなれないから。お金なんか稼げないから。お母さんのことも、おばあちゃんのことも守れないから」
水季はそう言い、涙を拭った。
「だからお別れ。ごめん。それとありがとう。戦法のことも、あれだけ言ってくれてたのにね。ちゃんと信じて従っとけばよかった。あんたは私なんかよりずっと頭いいし、ヤマだってめちゃくちゃ当てられるのにね」
水季はそう言い、やはり自嘲するような乾いた笑みを浮かべる。
「じゃ、さようなら。元気で。私もさ、あんたの未来が開けるのを、祈ってるから」
水季はそれだけ言い、立ち去ろうとする。
が、その背中に。
「――俺は諦めねえぞ!」
と澳田が言った。
「俺は、絶対諦めねえぞ! そんな、学校辞めるとかお前が全部背負うとか、将棋以外の全部を捨てるとか、そんなの、お前がそんな選択しなくてすむようにしてやる!」
澳田は、吠えた。
「俺が、次こそは絶対、絶対勝たせるから! お前が絶対勝てるよう、次こそは俺がぜってー、ぜってーなんとかしてみせるから! だから待ってろよ! 絶対、やってやるからな!」
澳田はそれだけ言い、駆け出した。
走れ、急げ。残された今日はあと数時間しかない。この数時間で、今日のすべての記録を持ち帰らなければいけない。待ち時間、電車の中、スマホを凝視。棋譜を必死に暗記する。何故負けたのか、相手が何をしてきたのか、どれが悪手だったのか、すべてを知ろうともがく。分析を続ける。
潜れ、潜れ、潜れ。暗記の深海に。分析の深海に。
次こそは、こんな終りを迎えぬよう絶対に勝つために。




