店を後に、心を前へ――
私は手作りのクッキーを鞄に忍ばせ、少し重みを感じる扉をゆっくりと引く。
コーヒーの匂いがふわりと香る、誰も居ない喫茶店。
光は窓からだけで、薄暗い店内だ。
窓際の席に座った私は、ふと視線を下ろす。
床を見てみれば、何もないのに影のようなものがあった。
「コーヒーをお願いします」
何もないところへ、誰かと話しているかのように声を出すのは恥ずかしさもあったが、意を決して注文するとカウンター席の奥で物音がし始めた。
――この喫茶店には幽霊が居る。これは噂ではなく事実だ。
目の前にコーヒーが現れ、否応なしに幽霊がそこに居るんだと自覚する。
「……おいし」
そう呟くと、店の空気がふわっと暖かくなった気がした。
話によるとこの喫茶店に訪れた者は皆、心が洗われるんだそうだ。
会社で何度も失敗して、直そうと思っても直らない自分に嫌気がさし、高校時代の友達に愚痴っていたらこの喫茶店の話が出てきた。
今のところ居心地は悪くない。
薄暗い店内だけど、おかげで外の光をよく感じられる。
暖かくて、草木が風に揺れる音をガラス越しに聴く。
『ありがとう』
『また来てもらえるように、がんばるね』
気付けば誰かに頭を撫でられて、誰かに褒められていた。
心まで温まって、これまでの私が楽しいと感じた出来事をずっと誰かに話していた。
しばらくしてコーヒーを飲み干すと、その誰かは喜んでいるようだった。
『今度はケーキも食べてね。自信作なんだよ』
『あなたが元気になってくれてよかった』
そんな声を聞いて、私は鞄に忍ばせていたクッキーをカウンターに置く。
するとクッキーが一枚、また一枚と消えていき、『おいしい、おいしい』と楽しげな声が聞こえてきた。
頑張って生きてみよう。そして、またここに来よう。
今度はチョコクッキーがいいかな? 次が楽しみだ。