1.夫の帰宅
夫が宰相様の代わりに隣国へと赴いたのは一年以上前のこと。
『一週間だけだから。なるべく早く帰ってくるよ』と笑顔で言った夫に私も笑顔で見送った。
だが彼は帰ってこなかった。
隣国から帰る途中で彼の乗っていた馬車は崖崩れに巻き込まれ、彼だけでなく同乗していた全員が落石ごと川に流された。
そのままみな行方知れずとなり、誰も見つかった者はいない。
激流はすべてを飲み込み、必死の捜索にも関わらずなにも発見できないまま一年が経過してしまった。
周りの誰もが彼の生存を諦めている。
『マリア、必死の捜索にも関わらず見つからないのよ。もうそろそろ現実を認めて前に進みなさい。このままではあなたのほうが倒れてしまうわ』
『君はまだ若いんだ。人生をやり直すことは出来るよ』
親切な人達が口々に慰めてくる。
彼らは本当に私のことを心配して善意からそう言ってくれている。
それは分かっているけれど私はその言葉に頷くことは出来なかった。
何らかの事情で生死の確認が取れない状態が一年以上続くと貴族は死亡手続きを取ることができる。
領地経営や跡継ぎの問題など放置したままでは争いの火種になってしまうからだ。
だから親族達は手続きを促してくる。
夫とともに行方知れずになった者達の家族は一年掛けて気持ちの整理をつけ、行方知れずとなった一年後に死亡手続きを行った。
それは貴族であれば混乱を防ぐために当然のことで、薄情なことではなかった。
誰もが必死に探し生存を願っていたのは知っている。
でも手掛かりのひとつも見つからないということは生きていないと考えても仕方がない状況だった。
だからみな私にも夫の死を受け入れるべきだと進言する。そこには善意しかない。
分かっている、…分かっているわ。
でも、もしかしたら。
…生きているかもしれない。
私は夫であるエドワードの死を頑なに受け入れなかった。
彼と私は貴族では珍しく恋愛結婚だった。夫であるエドワード・ダイソン伯爵との出会いは友人に強引に誘われて参加した夜会だった。
喧騒から逃れてバルコニーにいる私に彼は話し掛けてきた。
『珍しいですね、こんなところでお一人ですか?』
この人も軽い人だろうなと警戒する私は返事を返さなかった。失礼な態度だと承知していたけど、迂闊に返事をして彼のペースに巻き込まれたくなかった。
『…っ…、い、いや、そんなつもりはなくて。
私はただ困ったことがあるなら大変だと思っただけで。驚かせてすまなかった。
だが下心とか全然ないから俺は、いや私は…』
キツイ眼差しを向ける私に彼は慌てていた。
素が出てしまった俺を慌てて私に言い直す様子が叱られた子供のようでおかしかった。確かに下心がある人はこんな風に慌てたりしないだろう。
『ふふふ、失礼しました。私はマリア・クーガーと申します』
『あ、名乗っていませんでしたね。私はエドワード・ダイソンです』
こんな出会いから始まった私達だけれど、この出会いは運命となった。
お互いに愛を育み、彼から求婚され私はそれを受けた。家柄も伯爵同士だったので、周囲からも反対されることもなく婚姻を結んだ。
幸せな結婚生活を送り、二人であとは子供を待つだけだと笑い合っていた。
それはきっとあと少しで現実となると信じていた。
それなのに隣国へ行った夫はいまだ帰ってこない。
周囲は私がダイソン伯爵家を出て新たな人生を送ることを望んでいる。
私の両親も『帰ってきなさい』と言ってくれ、娘の傷が癒えるまで見守ろうとしてくれている。
義父母も義弟も『もういいから、有り難う』と言ってくれる。その表情は『息子』『兄』の死を受け入れたうえ、『義理の娘』『義姉』である私を心から心配してくれるものだと分かる。
だけど私は優しい彼らの言葉を聞き流す。
私まで夫の死を受け入れてしまったら彼が本当に死んでしまう気がしたから。
頭では分かっている。もう行方不明のまま一年が経ったのだからきっと彼は…。
でも心はそれを受け入れることはない。
『なるべく早く帰ってくる』と言っていた夫の甘い声音を忘れられない。
『愛しているから離れるのが辛いよ』と囁いて抱きしめてくれた彼の温もりがまだ残っている気がする。
だから…彼は私のもとにきっと帰ってくる。
生きて戻ってくれるわ。
きっと『遅くなってごめん』と謝ってくれる。
そうよね、エドワード…。
社交界では夫の死が既成事実のようになっていた頃、私達のもとに嬉しい知らせが舞い込んできた。
それは彼の生存の知らせで、こちらにすでに向かっているということだった。
知らせを届けてくれた者も詳しいことは何もわからないようだけど『ご本人が生きていることは間違いありません』と断言してくれた。
エドワード…、生きていてくれた…。
彼の生存の知らせを誰もが喜んでいた。
そして彼がいつ隣国から帰ってきてもいいように準備を整える。
彼が好きな食材を揃えていつでも調理できるようにし、まだ傷が癒えていないのかもしれないから医者にも待機してもらった。
隠居している義父母と義弟と一緒に王都にある屋敷で彼の帰宅を今か今かと待っている。
そしてその日はすぐにやってきた。
屋敷の前に停まった一台の粗末な馬車から質素な身なりの男性が降りてくる。
それは紛れもなく夫であるエドワードだった。
ああ…神様、有り難うござい…ます。
「エド!」
彼の名を呼びながら傍に駆け寄る。
私はいつも彼の帰宅を抱擁で迎えていたから、久しぶりの再会も温かい抱擁で迎えるつもりだった。
だけど私は彼を抱きしめることができなかった。
彼は駆け寄る私に背を向け、馬車から降りてくる人物に手を差し出していた。
そして彼の手を借りて降りてきたのは質素な身なりの女性で、その腕には生まれたての赤ん坊が抱かれていた。
『ふぎゃ…ふぎゃ…』と泣く赤ん坊に優しく声を掛けるエドワード。
「ほらほら泣くな。大丈夫もう着いたから馬車は終わりだぞ」
「よしよしいい子ね。お父様がそう言っているんだから泣き止みましょうね。ねえあなた、早くこの子をベッドで寝かしてあげたいわ」
「ああそうだな。君もこの子も長旅で疲れただろう」
その会話は三人がどんな関係なのか物語っていた。
…どうして…。
エド、…こっちを見て。
私はここ……よ。
私は愛する夫が目の前にいるのに声を掛けることは出来なかった。
誰もが立ち尽くしたまま動けなかい。
視界が暗転しその場で崩れ落ちていく。薄れゆく意識のなかで義父母や義弟や使用人達の声が聞こえてきた。
「マリア、マリアしっかりして」
「義姉上、お気を確かに!」
「奥様、奥様!」
みな心配する余り、叫ぶように私に呼び掛けている。
だが愛する夫の声だけはなぜか聞こえてこなかった。
いつも『マリア』と優しく呼んでいてくれたのに。どんな時も私の名を一番に呼ぶのは彼だったのに。
彼は私のもとに帰ってきてくれたはずなのに、どうして私の名を呼んでくれないのだろう。
それとも…これは夢なのだろうか。
夢ならもっと優しい夢を見たかった。
こんな残酷な夢はいらないのに…。