聖女を救う、10年前 〜異世界に落とされた少年と聖女の手紙〜
(*単独で読んで頂けます。その為、聖女sideの短編と手紙の内容と終盤の会話が重複します)
俺は、ぽとりと、落とされた。
まるで一つの異物が紛れ込むように、見知らぬ世界で一人尻餅をつく。
顔を上げると、驚愕するような光景が広がっていた。
(ここ……どこ?)
見たことのない乗り物が行き交う。何かの騒音。高過ぎる建物。人人人。着ているものも見たことがない。
「あっぶねーな!」
「きゃ!汚い」
「ぼうや?迷子……?」
ふらふらと彷徨い歩くと、罵声や、訝しみ、戸惑いの言葉が掛けられる。
――『神の言葉』で。
聖女である母しか知らなかったはずのその言葉が、世界に飛び交っている。
「……お母さん?」
死んだ母を呼ぶ。
けれど返事が返ってくることはない。
「お母さんの国なの……?」
まだ10歳。
母が死んでからは孤児院で育った俺は、身の回りのことは出来るけれど、一人で生きて行くことまで出来ない。
(確かに神殿に居たのに……)
無理やり連れて来られて、逃げ出そうとはしていたけど、逃げられなかったのに。
神官が手を振り上げた直後、景色が変わったのだ。
彼はあの時なんと言っていた?
―― 『神の国のお力を分け与えてくれる聖女様を、どうか、神の血を引くこの子供と引き換えにお送りください』
(引き換え……?)
ぞわりと寒気がした。
とてもとても、嫌な予感がした。
神事の最中に、見知らぬ土地に飛ばされた。
まさか、と思う。
けれど愕然と辺りを見回しても、ここはどう見ても自分の生まれた国ではなかった。
(……白い?)
何か白いものが視界を遮る。
空から、綿のような塊が降ってきていた。
体にあたるとヒヤリと冷たく、溶ける。
「わぁ、雪だね」
「あ。雪!」
(ゆき……)
おそらく、この白い塊のことを言うのだろうと思う。
呆然と空を見上げていると、体も、心も、冷えてゆく。
ゆきが降る。
降り続ける。
まるで俺を消すように、世界を、白く染めて行く。
そして数日後、道端に倒れていた俺は、この国の役人に保護された。そして知る。ここは真実神の世界で、生まれた世界とは別の世界だと。
日本、という、かつて聖女だった母が生まれた国であるのだと。
そしてこの日からずっと――
心に、冷たい雪が降り続けている気がしている。
小さな俺は母に聞いた。
「どうして神の言葉を僕に教えるの?」
神の言葉は、聖女であった母が引退するまでの間、神に祈りを捧げるために使っていた特別な言葉だ。ただの子供である俺には必要のないもの。
「月人はいずれこの言葉が必要になるからよ」
「僕が?」
母は体が弱く、ほとんど寝たきりだった。
けれどベッドの上に懸命に起き上がると、俺を抱きしめながら、言葉を一つずつ教えてくれた。
「覚えたらきっと、いつか大切な人と、この言葉で想いを伝え合えるようになれるわ」
「ふうん。お母さんも?」
「……そうね。私は、月人と伝え合えるわ」
俺は幼少期、父の姿をほとんど見たことがなかった。
体の弱い母と俺は、屋敷の離れに閉じ込められるように暮らしていた。
「後どれくらい、あなたに教えられるのかしら……」
母はきっと知っていた。
自分の命は長くないこと。子供の俺が、いつか新たな聖女を呼び出すための生贄にされるだろうこと。
「愛してるわ、月人……。覚えて置いてね。お母さんはあなたに会えて幸せになれたの。でもね、月人も幸せなら、お母さんはもっと嬉しい。いつかお母さんが居なくなっても、あなたが幸せでいてくれたら、お母さんも幸せなんだって、忘れないでね」
「嫌だよ、居なくならないでよ」
「ふふ、そうね。でもね、誰でも親の方が先に亡くなるのよ。忘れないでね。あなたが大人になっても、月人の幸せがお母さんの幸せなんだって、覚えていてね」
母は俺を愛してくれていた。
世界で一人、俺を慈しんでくれた人。
そして7歳の10度目の月。母は死んだ。
母が亡くなった後は父は俺を領内管轄の孤児院に預けた。母に愛がなければ子供にもなかったらしい。
俺はそこで他の子供たちと同じように育てられ、母がいない寂しさ以外には、孤児院には不満など何もなかった。
院長や世話役の女性は、穏やかで思慮深い人たちだった。この世界で黒髪であることは忌み嫌われるのに、彼らは戸惑いながらも受け入れてくれていた。
「院長たちは俺が怖くないの?」
そう聞いたことがある。
「怖くはありません。たとえ怖かったとしても、それはあなたが怖いわけではありません。私たちはいつも、神に心を問われているのです」
院長は、祈りの時間をとても大切にしていた。
心を無垢にするように、熱心に祈る彼の姿をよく見ていた。
そんなある日のことだった。
「なんだよ!お前らは!!」
神殿からの使いがやってきた。
神官の衣に身を包んだ者たちが、俺の両腕を拘束して連れ去ろうとする。
「お待ちください。一体どういうことでしょう?」
「神事を行うにあたり、前聖女様のお子の立ち合いが必要になりました」
「そんな……手荒な……」
引き止めようとする院長が俺たちに追い縋るように駆け寄って来たけれど、俺は無理やり馬車に乗せられた。
そして神殿にたどり着くと、神事はすぐに行われたのだ。
「これより、聖女様召喚の儀を行います――」
「なんだお前変なヤツー」
「なんでこんなことも分かんねーんだよ」
日本、という国に来ても、以前と同じように孤児を育てるための施設に連れてこられた。
言葉は母から教えられていたから分かるはずなのに、なぜか意思疎通が難しかった。
施設の他の子供たちは、俺を異物のように扱った。
俺はそこで暮らしながら、小学校という場所に通った。
俺のことは記憶を失っている身元の分からない子供ということになっているようだった。
端的に言うと、いじめにあった。
棒切れのように体が細く、表情に乏しい子供だった。
体が小さく、親もいない、半分異国の顔立ちをした俺は、何もかもが浮いていた。
彼らの常識も分からず苦労した。
そして、次第に級友の当たりが強くなり、物がなくなったり、殴られたり蹴られたりするようになった。はむかっても、力では勝てなかった。
注意してもボロボロになって帰る俺を、施設の人たちは学校の教師と話し合いながらも、初め少し距離を置いた。
沢山いる子供たちの中でも、飛び抜けて異色の、常識を分かり合うことも難しい子供、それがこの世界に来たばかりの子供の評価。
俺は世界に馴染めない。
この世界がまだ分からない。途方に暮れた。
魔法に縛られない世界でも、別の何かが社会を縛っているようだった。その中に入っていけない者は、きっと俺のように弾かれるのだろう。
結局俺は、聖女の子供でなくとも、どこの世界でも弾かれるだけだった。
それでも、体が大きくなっていった。
11歳になるとだいぶ背が伸び、ある日いじめっ子を見下ろせるようになった。
12歳になると、少しだけ顔立ちが大人びていく。
小学6年のクラスの中で、目立たぬよう柔らかな笑みを浮かべ過ごしていた。
そんな俺に、委員会で話すようになった女子の集団が味方をしてくれた。
俺をからかう男子の心ない言葉を女子が封じていく。
礼を言えば、頬を染めて喜ぶ女子もいた。
施設の大人たちも、俺の性格が、素直で大人しく、大人たちに従順だと知ってから以前より優しくなった。
世界と社会と、そして人間関係を学んで行く。
俺は機嫌を損ねないよう細心の注意を払って彼らに接した。
辛かった日常が、少しだけ楽になっても、なぜだか俺の心は冷えて行った。
まるで雪が降るように。
心に雪が降り続けて止まない。
後になって思う。俺の心はたぶん、この時かなり屈折していた。
表に出すことはなく、静かに、爆発しそうな怒りを抱え込んでいた。
母は痩せ細り惨めに死んだ――。
ここが母の祖国であるなら、この豊かな場所から、聖女として無理やり連れ去られていたのだろう。
(お母さん……)
俺はそんなことも知らなかった。
(許せない)
母を連れ去り、今度は俺を捨てたのだ。
使い捨ての道具のように。
なぜ、人生を踏み躙られ続け、人の尊厳など微塵も顧みられることもなく、苦しみに耐えながら生きなければならないのか。
(どうしたら……復讐出来る)
どうしたら、どうしたら、奴らを陥れられるのか。
気が付くとそんなことばかりを考えていた。
13歳。
中学に入ると、俺は以前とは違う意味で少しだけ目立っていた。
ハーフのような顔立ちが、はっきりとして来ていた。
施設で暮らしていることを知っているせいなのだろうか。まるで貢物のように女子からの差し入れが渡される。
断っても、遠慮しなくて良いのだと渡させる。俺の立場では強くも断れなかった。
「月人くーん、試合頑張ってね」
「ありがとう」
「いっぱい食べさせてあげるからね!」
時々、幼い少女の言葉は、思春期の俺の心を刺していく。
どう振舞おうと、孤児の俺の立場は変わらないことを自覚させるように。
彼女たちも結局、俺を、自分たちとは違う境遇だと分かっているのだ。
異国風の顔立ちの異性の優位に立て、礼を言われれば少しの優越感を持てる、それはさぞや幼い少女の心を満たすんだろう。
心に雪が降っている気がした。
しんしんと、降り続けて止まない。
いつか埋もれて、息が出来なくなるのではないかと思う。
人々から弾かれぬよう、気を使い続け、心が休まる時などなかった。
優等生らしくあるように振る舞い続けた。そうでなければ、いつでも世間の目は俺に厳しかった。
体が、冷えて行く――。
俺はこの年、自らの中に抱えた感情を持て余していた。
ある日教師に呼び出された。
俺が委員会で居なかった間に事件がおきていたのだ。
教室で男子生徒の財布が無くなった。その生徒は俺を疑い、荷物を調べようとしたが、それを女子たちが止めて喧嘩になっていたのだと言う。
身に覚えがなければ、その財布もとっくに落とし物として発見されているらしい。けれど女子たちが過剰に泣き叫び、混乱を極めていたと言う。
「お前の態度が誤解させたんだろう?困るんだよ。いいか、問題を起こすな。あの子たちに散々物をもらってるんだろう?疑われても仕方がないじゃないか。もっと客観的に自分を見ろ。そんな生き方をしたままじゃ、まともに生きてなんていけない。社会で生きる術を少しは学んでくれ」
中年の教師は、俺の意見など聞かずに俺を叱咤した。
「クッソ……!!」
それでも優等生のような受け答えを演じた学校の帰り道、路地裏でゴミ箱を蹴上げる。そして感情を吐き出すように、勢いよく壁に手を打ち付ける。
「俺が何をしたんだよ!!」
感情が溢れた。
ずっと抑えていた。悔しさも悲しさも、仕方がないのだと、誰も悪くないのだと諦めていた。
「くそ……!!」
けれど一番憎いのは、教師でも、クラスメイトでも、少しの欲を満たそうと俺の周りを羽ばたく蝶のような女でもない。
「あいつら……神官ども……復讐してやる!!」
俺がここにいることも、母が不幸でいたことも、今ではあいつらのせいだと確信していた。
母はこの世界から連れ去られて来ていたのだ。見知らぬ世界で、愛もない結婚をさせられ俺を産んだ。
なのに……母は俺を愛した。この世界の言葉を教えてくれていたことが、何よりその証だと思えた。
「……母さんっ」
心から母を呼んだ。
瞳に涙が滲む。
「母さん……」
会いたい。
俺はどうすればいい。
俺は、生まれてくるべきではなかった。
俺の存在自体が間違いだった。
どうして、俺をこの世から消してくれないのか。
母さんに会いたい――……。
その時、通りから人の影が落ちてくる。
背の高い、ガタイの良い親父が俺をジロジロと見つめていた。
「……ああ、お前だ」
「……」
男は派手な色のシャツを着崩した、見るからに怪しい風貌をしていた。
俺をじっと見つめると、痛ましそうに表情を歪めた。
「悪かったなぁ、こんなに長い間、探し出してやれなくて……」
「……え?」
「お前、召喚の儀で来たんだろう?」
そいつは、にいっと笑顔を浮かべると言った。
「奇遇だな。俺も、召喚の儀で、聖女と交換でこっちにやってきたんだよ」
小さな古いアパートの一室が彼の家だった。家具は少なく、意外にも小綺麗にしていた。
彼は俺にコーラを差し出すと、自分ではビールを飲み出した。
どう見てもカタギの男ではない。腕にも額にも傷がある。歳は30過ぎぐらいだろうか。
……そう思い付くと、心がざわつく。母親と同じくらいの年頃だからだ。
「俺の名前は、飯村真二だ。まぁ、こっちにきてから付けた名前だが」
男はそう言ってから、自らの生い立ちを語り出した。
「俺は、12の歳まで、魔法が使えたんだよ」
「……え?」
この世界には魔法などない。
前の世界の話なのだろうけれど、向こうの世界でだって、魔法が使える人材は貴重なはずだ。
「300年前だったかな?前に召喚された聖女の子供の末裔が俺だったんだ」
聖女の末裔――。
「ああ、300年前の聖女は幸せに生きて死んだらしいぜ。ご先祖さまのことだからな、家の記録に残ってるんだよ。血を引き継ぐうちに、魔法が使える家系のものと子を作り、最後には俺の両親も魔法使いだった」
「……この世界では使えないのか?」
そう聞くと、飯村はにぃっと笑った。
「使えるよ」
「!」
「まぁ、でもなぁ、大したことには使えん。俺の傷を見れば分かるだろう。下手に使っても返り討ちに合うだけだ」
飯村は遠くを見るようにして言う。
「大変だったなぁ。この世界で生きるのは。まともに生きていけんかった。よく今まで俺生きてたよなぁ」
「……」
「お前も、大変だろう?苦労してないか?」
「……どうだろう」
「本当はなぁ、俺がお前を引き取ってやりたいんだけど、たぶん無理なんだ。俺ぁ前科があるからなぁ。そう言う奴には無理なんだろ?」
「……」
大柄な飯村が眉尻を下げながら言うのを見ると、本心から言っているようにも思えた。
「でなぁ、俺は多分、25年前の召喚の儀で聖女様を引き寄せるために、引き換えに使われたんだよ。お前もそうなんじゃないか?」
25年前――それは間違いなく、母が聖女になった年だ。
「……俺は3年前だ」
「ああ、気付いたよ。大きな聖力が動いた。すぐに、取り替え子を探しに行きたかったんだが、遅くなって済まなかったな」
取り替え子と彼は言う。
「聖女召喚の儀って?」
「あ?お前……知らないで来たのか!?」
「ああ」
「あー、ったく、しょうがねぇなあ。何も知らないで放り出されたのか!」
飯村はぐしゃぐしゃと髪をかきむしりながら言う。
「そうか、何も知らないのか……」
「……」
熊のような男が、泣きそうな顔をする。
「ここと向こうは、世界が違う。分かるか?」
「ああ」
分かってはいたけれど……それでも、この瞬間に、確信に変わった。
「あっちの世界は、魔法が使える。魔力の根源は……聖力と呼ばれるものだ。それが、枯渇していたんだよ」
「聖力?」
「そう。聖力は、神に祈る人々の心が生み出すものらしい。実際は分からねーけどな」
聖女の勤めは確かに神に祈ることだったと、母が言っていた。
「聖力が減って来た、そんな世界に、かつての落ち人が現れた」
「落ち人?」
「ああ、こっちの世界からの、訪問者だ。言ってみれば聖女の元祖だ」
聖女の元祖……。
「あの世界に教えてしまったんだ。他の世界には聖力が有り余っていると。そしてその聖力を引き寄せられるのだと」
聖力を引き寄せる――。
「落ち人……最初の聖女が、祈った。すると、世界に聖力が増した。その力はどうやら落ち人の元の世界のものだった。こっちの世界のことだが、実際に有り余っている。誰も魔法など使えないからな」
聖力が有り余っている!?
「ならお前は魔法を使い放題じゃないのか?」
「あー、そう上手くはいかねぇ。元の世界でならそうだったかもしれないが、ここでは違う。魔法を使うのは良いが、この世界で使うと実際には命が削られていく。魔力の元となるものは余っているが、肉体が耐えられない。使えば使うだけ、俺の寿命が短くなる」
「……」
「だから俺だって、使わないようにしてんだよ」
「役に立たないな」
「立たないんだよ」
ビールを飲み終わった彼は2本目を開けていく。
「俺は12歳だった。聖女召喚の儀式を手伝うように言われた。嫌な予感はした。すると彼らは言った。俺を向こうに送り、代わりに300年ぶりの聖女を呼び寄せるのだと。ふざけるなと暴れたが、まぁ、気が付いたらこの世界に落ちていた」
彼はふぅ、とため息を付いた。
「一度保護施設に入ったんだけど、そこが酷いところでさあ、最後には逃げ出したんだよ。拾ってくれた親父が居たんだけど、まともな商売をしてないところで、俺は生きるためになんでもやってきたさ」
俺の前の生贄にされた子供が飯村真二だったのだ。
彼が語る半生は、まるでこれからの俺の人生のような気がする。
「母が」
「ん?」
「母が、その時の聖女でした」
「……えぇ、ええ!?」
飯村はまじまじと俺を見つめる。
「……え?もうこんなに大きな子供が……?」
「……」
「え?聖女の子をまた召喚に使っちゃうの?酷い話過ぎないか……」
ひとしきり驚いてから、飯村は生まれた家で知っていた知識を俺に教えてくれた。
先祖の聖女は、度々、荷物を引き寄せることが出来たと記録が残っていたこと。
「元の世界からもって来た荷物と引き換えに、元の世界のものを持ってこれたんだ」
例えば、持ってきたノートと引き換えに、別の本を呼び寄せられたという。
「だから恐らく、元の世界の血を引いた俺たちと引き換えなら、聖女を呼び寄せられると思ったんだろう。取り替え子だ。そう言うことだったんだと思う」
「……」
母の儚い笑顔を思い出す。
――『お母さんはあなたに会えて幸せになれたの』
「……くそ!!許せない……許せない、許せない!!」
がんっと床を叩いて叫ぶ。
無理やり連れてこられた母は、同じように俺が飛ばされることを見越していた。悲しげな笑顔で愛してると語りながら、死を待つようにベッドに横になり続けた。
あんな風に死ななければならない人ではなかったはずだ。
「どうしたら……やつらに復讐出来るんだ!?お願いだ、飯村……魔法を教えて欲しい。俺にも使えないのか?命などいくらでも削ってもいい!」
縋るように飯村のシャツを両手で掴む。
「飯村……俺がお前の仇も打つ!あいつらを殺してくる!!お願いだ、俺に魔法を教えてくれ……!」
飯村は困惑したように俺を見つめ、そして俺の両腕を掴んだ。
「頭ぁ、はっきりしろ!」
彼の怒声が部屋に響く。
「俺は復讐など、望んでいねぇー!!」
「……」
「自分の復讐なら、自分でしろ!俺を巻き込むな!子供に命削らせる真似なんてさせねぇよ!」
「……飯村!ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!」
飯村に掴みかかり、床に押し倒しもみあう。
「大人しくしろやー!!」
「飯村……!」
すると玄関から激しい音が聞こえて扉が開いた。
「しんちゃん……!?」
髪の長い、色白の女性が杖を持ち立っていた。
彼女は杖を転がせると、這うようにして部屋に転がり込んで来た。
「しんちゃん!?しんちゃん!?無事?どうしたの!?」
彼女は恐らく盲目だ。
焦点の合わない目線で、両腕だけで飯村を探している。
彼女に気圧されるように俺は飛び退くと、飯村は彼女を掻き抱いた。
「大丈夫だよ、心配いらねぇ……」
「しんちゃん……良かった」
そこにあるのは、思い合う一組の恋人たちの姿だった。
「同郷の子が来てたんだよ」
「同郷……?魔法の国の?」
「ああ」
魔法の国……。
飯村は俺を見上げて言った。
「こいつにはなんでも話してある。お前も気にせず話せ。嫁だよ。静子だ。こいつが入院していたから、俺はお前を探し出すのにこんなに時間がかかっちまった」
少なからず俺はショックを受けた。
この世界で恋人を作り、そしてその相手にも全てを打ち明けている――?
そんなことを想像もしていなかった。
「俺ぁ良いんだよ、あんな俺たちを人とも思わない世界にいるよりは、こいつに出逢えて、ここに来れて、これで良かったんだと思ってんだよ」
「しんちゃん……」
すっかり、毒気は抜かれた。
その日飯村は、帰り際に言った。
「俺だって初めは憎んでたさ。世界の全てをな。でも今は、そんな必要はなかったんだって分かるんだ。お前にはまだ分からないだろうが、ただ後で後悔するようなことだけはするなよ」
内面の苛立ちは抑えられなかったけれど、いたずらに何かに当たるのはやめた。
何が心境の変化になっていたのかは分からない。ただ、決めつけるのをやめただけだ。
この世界に落とされてから、安穏な世界で俺だけが弾かれているのだと、二つの世界でたった一人の被害者であるのだと……ずっと心のどこかでそう考えて来た。
飯村と静子が抱き合う姿を見た時。
確かに、俺は、少しだけ自分を恥じていたのだ。
それでも心は冷えて行く。
満たされない心に雪が降り積もる。
そんな年の秋。
ある夜の出来事だった。
――声が聞こえた。
『月の女神シャーリャン様。この世界の皆が幸福でありますように……』
とても優しい穏やかな声が響くと、不思議と心が満たされていくのを感じる。
『私の大切な人たちがどうか幸せでありますように……』
震える声から、その心の寂しさと哀しさまで伝わってくるようだった。
(……聖女)
直感的にそう思う。
月の神シャーリャンに祈り、この世界まで響き渡る声を届けられる者は、俺と入れ替わりになった女しかありえない。
けれどその声はひどく幼い。まだ、子供なのだろう。
俺は初めて、誰かと入れ替わりになっていることを実感出来た。
(母さん)
母と同じ境遇の少女。聖女をやらされている子供は、果たして、幸せに生きているのだろうか。
その声から、寂しさが染み入るように伝わってくる。
世界に馴染めず、一人彷徨い人のように生きている彼女を感じた。
まるで何もかもが、俺と同じようだ。
彼女は俺と同じ……。
道具のように、生きる場所を不当に変えられ、使い捨てられる。
『月の女神シャーリャン様。この世界の皆が幸福でありますように……』
なのに彼女は熱心に、何度も、祈り続ける。
すると俺の心の中の雪が溶けて行く。
俺の寂しさが、悲しみが、彼女と重なる。
現状は何も変わらないのに。
俺は何も出来ず無力なのに。
俺は……俺だけは、彼女の寂しさを理解出来る。
『私の大切な人たちがどうか幸せでありますように……』
俺は、なぜだかどうしようもなく嬉しくて泣いた。
まるで、俺は1人ではないのだと、そう言われているような祈りの声だったのだ。
14歳。
俺は以前より、女子とは関わらないように距離を置いていた。
女子の群れから離れ行動するようになると、不思議なことに、男子の友人が増えて行った。
「月人!」
「佐伯」
「土曜あいてる?」
「……あいてない」
「あけてくれよー、デートしようぜ、集団で!お前が来るなら来るって言うんだよー」
「そういうのは俺は良いよ」
「変だよなーお前、モテるのに、顔見せびらかすの嫌いだよな」
「……」
屈託なく笑う佐伯は、バスケ部のエースだ。
人との距離が近く、ズケズケとものを申すのに、愛嬌ゆえに嫌われない得な性格をしている。
「お前と二人でデートなら、行く」
「ちょっ……やめろよ、なんだそれ」
男と二人とか!とグダグダ言いながらも、じゃあどこにいく?と話を切り替えてくる。
佐伯とは、結局、中学を卒業しても長く続く友人となる。
そう、友人だ。
俺はどこかで、この世界で生きていく覚悟を決め始めていたのかも知れない。
飯村の元を訪ねると俺は言った。
「俺に魔法を教えて欲しい。俺は、恥じるような使い方をしないと誓う。俺に何が出来るのか、試してみたいんだ」
飯村は俺の髪をわしわしとかき回してから、にぃっと笑った。
「お前も、ようやく聞こえたか」
「え?」
「聖女様の声だ」
「……ああ!聞こえた」
「もう何年も、ずっと聞こえている」
「……」
「小さな子供だろうに、俺にはどうにもしてやれん」
飯村は俺の両腕をバンッと叩いて言った。
「魔法を、教えてやる」
魔法の使い方とは、すなわち、聖力を自らの肉体で使いこなすことらしい。
「肉体に聖力を通せば、火にも風にも、そして、治癒の力にもなる」
「……凄まじいな」
「ああ、だが、生まれつきのものも、ずっと昔の病気もダメだ。静子の目は治せなかった」
「……」
飯村はやはり、命を削ってでもそれを試していたのか。
ほんの少しずつ、魔法の使い方を学んでいく。
小さな火も、風も起こせる。だけど、それ以上は試してはいない。命の力を減らすからだ。
「どうやっても、向こうには行けないのか……?」
「なんだ?帰りたいのか?」
「召喚の儀と同じものをこちら側から出来ないかと思うんだけど、それをしたら、俺の命がないよな」
「そうだな」
「なら、向こう側から干渉してもらえればいいのか?」
「……あん?」
「例えば、向こうで新たな召喚の儀が行われたなら、その力と交換で俺は戻れる気がする」
「……」
飯村は少し考え込んでいる。
「4年前、お前が来たときだが」
「ああ」
「一瞬だった。なんの干渉も出来なかった。けれど俺も戻ろうと思ってもいなかったからかもしれないが……」
「そうか……」
やはり難しいのだろうか。
俺さ、と、飯村に言う。
「姿が見えるようになったんだ」
「……え?見えるって?聖女様?」
「そう。声が聞こえた時に、目を瞑って意識を集中すると、小さな女の子の姿が見える。どう見ても日本人だ。小学生くらいの幼い顔つきをしていた」
「そうか……姿が……」
飯村が言う。
「お前は、目が良いのだろうな」
「目?」
「そうだ。俺には見えない。そして魔法にも、得意不得意がある。それだけ目がいいのなら、向こうの何かを座標にすることができるかも知れない。いつか、何かに使えるかも知れないぞ」
「座標……そんな風には考えたことなかった」
魔法の訓練を続けても、かと言って俺にできることなどなにも見つけられなかった。
そうして中学3年になった。
高校受験のことを考え出していた。俺の行くのは公立の入れる範囲の学校だ。高校に上がればアルバイトを始めたいので、自由な校風なところを選ぶ。
ある日、靴箱に手紙が入っていた。
携帯も持っていないから、こうして手紙を出す女子が多い。大抵は告白のための呼び出しだ。
それを手に取ってから考える。
「……手紙」
俺自身が戻るのが難しいのなら、ただ一通の手紙を、どうにか送ることが出来ないものだろうか。
早速飯村に相談する。
「無理だろ」
「……だよな」
あまりに即答だった。
「せめて声じゃないか?」
「声?」
「聖女様からの祈りに、声が乗って届いている」
「ああ」
「聖女様の祈りと引き換えに、向こう側には聖力が注ぎ込まれているだろ」
「……」
「だが、声の対価は特にないよな。祈りの一部の扱いなのかも知れないが」
「対価か」
だけど……。
「声は……届かない。届かなかったんだ。何度も試した」
「そうか……まぁ、祈りの文言だしな」
声の交換は叶わなかった。
「聖女様は」
「ああ」
「世界の幸福の他に、特定の誰かのことを祈っている。たぶん、家族のことだろう」
「そうだな」
「その想いに、対価はない。恐らく……」
「想いねぇ」
お前は難しいことを考えるんだな、と飯村は笑って言った。
聖女の祈りが届いた時に、俺はすでに何度も、彼女に手紙を送れないかと試していた。
そして15歳の秋。
今夜も、彼女の声を聞いていた。
目を瞑れば聖女の祈る姿が見える。
以前に比べ、少しだけ大人びた気がした。同級生の女子たちとあまり変わらないように見える。
しかし彼女は、白い衣に身を包み、表情は穏やかで、世俗を知らぬまま育てられた無垢さを持っていた。
清らかな光そのもののように、純粋な心で祈りを捧げている。その事を、声を聞き続けた俺たちはよく知っていた。
『月の女神シャーリャン様。この世界の皆が幸福でありますように……』
いつもと変わらぬ彼女の声。
俺はこの声を聞くときだけ、心が温かに満たされるのを感じる。
『私の大切な人たちがどうか幸せでありますように……』
そのとき、彼女の瞳からぽたりと一粒の涙がこぼれ落ちる。
彼女の月のしずくのような涙が床に染みを作るのを、俺は初めて見た。
『……寂しい……寂しいの』
祈りの中に混ぜ込まれた、彼女の想い。
――今しかない。
そう俺は確信する。
あなたの送られた『寂しさ』の対価に、涙の座標へ、俺の手紙を届けてくれ。
俺の生きてきた、満たされぬ心を抱えた人生の、その全てが詰まった『寂しさ』の手紙だ。
『聖女様
突然のお手紙をお許しください。
僕は平凡な学生です。
ある夜の祈りの時間から、貴方様のお姿を拝見するようになりました。
僕にもとても信じられないような事でした。
目を瞑り祈っていると、どうしてだか閉じた瞳の奥がぼんやりと明るくなり、貴方様のお姿が映るのです。
清らかに神に祈るお姿から、聖女様に違いないと思いながらも、それを確認するすべもなく日々を過ごしてきました。
あまりに不思議なことです。
神の思し召しなのでしょうか。
けれど、貴方様のお姿を思い浮かべるだけで、僕は心が晴れるような気持ちになれることに気が付きました。
辛い日常を耐え、明日を生きる元気をもらえるように思えたのです。
この感謝をどうにか伝えられないかと思った僕は手紙を書くことにしました。
瞳の奥でだけ拝見出来る、幻の聖女様に手紙だなどと、馬鹿な考えだとお笑いください。
けれど、この手紙が貴方に届くことを、月の神シャーリャン様に祈りたいと思います』
――俺の手から、手紙は消えていた。
いくつかの月が過ぎた後に、彼女から返信があった。
『名前の分からない信者様へ
お手紙ありがとうございます。
あなたからのお手紙は、六月前と、そして一月前に届きました。
私だけが知るはずの言葉で書かれた手紙を受けとり、どれほどうれしかったのか、あなた様には思いもつかないことでしょう。
返事をしたくとも、手紙を送ることが出来るのか分からず、月日ばかりがすぎていきました。
けれど手紙を受けとったその時から、またこの神の気まぐれのような出来事がおこらないかと私はずっと待っていました。
そうして受けとった二通目のお手紙を読み、体をきづかってくれるやさしいお言葉に、私はうれしくて泣いてしまいました。
かつて学んだはずのあなたの使うお言葉を、私はだいぶ忘れています。学んでおらず読めない言葉も多いです。
あなたはどこに住んでいらっしゃるのでしょうか?
私と同じふるさとの方なのでしょうか?
どうかあなたのことをおしえてください。
シャーリャン様に手紙をたくします。
あなたに月のかがやきがありますように』
一度手紙を受け取ってしまえば、コツを掴んだように幾度も手紙を送れるようになった。
そうして一年以上の年月、少しの期間を開けながらも、俺たちは少しずつ手紙のやりとりを続けた。
他愛のない手紙のやりとりを、交わしていく。
『聖女様
返信をありがとうございました。
まさか聖女様から手紙を頂けるとは思わず、シャーリャン様と聖女様に心から感謝を致します。
僕もとても光栄で、心から嬉しかったです。
読めない字があったのですね。申し訳ありませんでした。
今後も送らせていただけるのであれば、宜しければふりがな付きで送らせて頂きます。
言葉が同じであると言うのなら、おそらく僕は今あなたの故郷に住んでいるのかも知れません。
ここは夜でも明るい不思議な街です。
僕は家族の居ない学生で、今は毎日勉強に追われています。
それと僕の名前ですが……今僕はこの街で、ツキトと呼ばれています。
月の人と書きます。
月の女神様のバチが当たってしまいそうな名前ですが、この街には、シャーリャン様への信仰はないようなのです。
聖女様の故郷はどのようなところだったのでしょうか?
宜しければお教え下さい。
月の輝きがありますように。
ツキト』
『月人様
お手紙をありがとうございます。
私も月人様とシャーリャン様に心から感謝致します。
お名前を教えてくださりありがとうございました。
とてもすてきなお名前ですね。
またふりがなをつけて頂けるお心づかいうれしく思えます。あらためて言葉を学んでいきたいです。
私のふるさとにお住まいかもしれないのですね。とてもうれしく思えました。
私は元々の名前を思い出せません。
はじめはおぼえていたのですが、一度ねこんだ時から昔のことをあまり思い出せなくなってしまったのです。今では誰からも聖女と呼ばれるのみです。
けれど雨の季節に生まれてきたことをおぼえています。
雨にちなんだ名前だった気がします。
家の庭には、雨の季節に咲く美しい花が咲いていました。
あの花は何という名前だったのでしょうか。
勉学にいそしんでいるとのこと。どうかお体にお気をつけてお過ごしください。心から応えんしております。
あなたに月の輝きがありますように』
『聖女様
お手紙をありがとうございます。
お姿を拝見出来ない月が続き、返信が遅れてしまって申し訳ありませんでした。
お手紙を読ませて頂き、僕には思い付いた花があります。
紫陽花と言う花です。
桃色から青色まで、鮮やかな色で咲き乱れます。
正確には花ではなく、花の周りのガクの部分が色付き花のように見えると聞いたことがあります。
聖女様がこの街のどこかで生まれ育っていたのだと想像するだけで、忙しない日々の中で心が休まるような気持ちになれます。
いつかこの街にお呼びすることが出来たら、その時には、紫陽花の咲き誇る景色を一緒に見ることが出来たらと、そんなことを願ってしまいます。
あなたに月の輝きがありますように』
『月人様
お手紙をありがとうございます。
お忙しい中、私のことを気にかけてくださりありがとうございました。
紫陽花、聞いたことがある気がします。
きっとその花なのでしょう。
私もいつかあなたの住む街に行ってみたいです。
けれど私は、この場所から外に出たことはありません。
私は私のつとめを果たさなくてはならないのです。
行くことは叶わなくとも、あなたの話を聞かせて頂けるだけで心がなぐさめられます。
幼い頃、家の近くのパン屋に行くのが好きでした。
母が好物のパンを買ってくれるのです。
果物の形をしたパンで、外はクッキーのように固く中はふわふわしています。
メロンパンと言ったと思うのですが、ここの者に聞いてもメロンという果物などないと言います。
もしかしてあなたの住む街にはメロンパンがあるのでしょうか?
あなたの好きなものも教えて下さい。
月人様に月の輝きがありますように』
俺は佐伯と同じ高校に入学していた。
「佐伯」
「なんだよ」
「お前最近、メロンパン食べたか?」
「はあ?メロンパン?余裕だな、頭いい奴はさー。もうすぐ試験だっていうのに」
「勉強見てやるから、教えてくれ」
「マジか」
「ああ、本気だ」
「コンビニのは食う。s-bunの」
「パン屋は?」
「流行ってっけど、並んでまで甘ったるいのは食わんし」
「まぁ男ならそうだよな」
「どこのパン屋でもありそうじゃね?駅前出て右のパン屋人気だぞ」
「ありがとう行ってみる」
聖女様は、普通の少女のようだった。
元の世界のことをあまり覚えていないらしい。
それを飯村に言うと、記憶を薄れさせる魔法があるんだよ、と恐ろしいことを言っていた。
雨の季節に生まれ、紫陽花の咲く家で育ったらしい。
この情報で、彼女の身元を探せないだろうか。
そして可愛らしいことを言っていた。
メロンパンの話だ。
子供の頃食べていたらしい。確かに向こうの世界にメロンはない。話が通じなかったことだろう。
駅前のパン屋に入ると、顔見知りの女子に声を掛けられる。頼まれたのだとはぐらかしながら、メロンパンをいくつか買う。
そう、俺は生まれて初めて、メロンパンを買ったのだ。
「なんだこれ」
「土産だ」
「ありがとう月ちゃん!」
大量のメロンパンを静子は嬉しそうに受け取りにおいを嗅いでいる。
「美味しそう!」
「まぁ、悪いな、ありがとよ」
そう言うと飯村は紙幣を取り出す。
「良いよ、バイトしててそこまで金には困ってないし」
今はバイトを3つ掛け持ちしている。
そのせいで、聖女の祈りのタイミングを逃し、手紙が中々送れないこともあるが、仕方がない。
「一つくれ」
「もちろんだよ、はーい」
メロンパンを手に取り、一口齧る。
「……甘いな」
「メロンパンだもん」
静子がケラケラと笑う。
母を思い出していた。
母も、これを食べたことがあったんだろうか。
『月人も幸せなら、お母さんはもっと嬉しい』
あんな世界に連れて来られながら、なぜあの人は、俺と会えて幸せだと笑えたのだろうか。
口の中の甘さを、少しだけ苦く感じた。
俺は食べたメロンパンの感想とともに、紫陽花の花を枝から切ったものを、聖女に送れないかと試した。
『聖女様
僕の住む街にはメロンという果物があります。
僕は手紙を受け取ってから、はじめてメロンパンを食べました。
果物の形を模したパンで、確かに外側は固く中はふわふわでした。
僕はもう何年もあまり食事に興味がなかったのですが、貴方が好きなものだと聞くと、とても美味しいものに思えて来て不思議です。
一時期メロンパンの流行りがあったようで、色々な種類が存在していました。
中にクリームがはいっているものや、実際にメロンの果肉の入ったものもあるようです。
聖女様に食べてもらいたいと思いながら色々な店を調べました。
そして今、雨の季節がやってきました。
紫陽花が満開です。
この花をあなたに送れたらいいのにと思いながら、枝を切ってきました。
僕はあまり自分の好きなものは分かりませんが、けれどあなたを思い出せるこの花のことを好きだと思えます。
手紙が送れるのならばどうかシャーリャン様、この花を聖女様にお届けください。
そして聖女様。
お誕生月、おめでとうございます。
あなたの生まれた日に、月の輝きのありますように。
ツキト』
――それは、無事に彼女に送り届けられた。
17歳の歳は、幾たびも手紙を交わし合った。
彼女も今、神殿の外での活動を頑張っているそうだ。
箱入りの彼女が傷つくことがないか心配ではあるが、神殿に篭るよりかは、はるかにマシなのだろう。
その日、前の晩にもらった手紙がとても嬉しくて学校の屋上で読み返していた。
「なにそれ、手紙?」
佐伯だ。
「そう」
「ラブレター?」
「違うよ、文通かな」
「文通ー!?今時珍しいな」
「そうかな」
佐伯は少し考えるようにしてから、でもなんか分かる、と言った。
「俺、メル友いるよ。会ったことも無いんだけど、だからこそ、学校の悩みとか話せちゃうんだよね」
「へぇ」
悩み事など言ってこない佐伯が意外なことを言う。
けれど、言わないだけで悩みもあるだろうことも知っていた。
部長を任されるようになってから、やっかみで揉め事が起きた。夏に付き合いだした彼女にフラれた。
俺に比べたら一見恵まれているような佐伯ですら、苦しみを言葉に出来ないこともあるんだろう。
俺はもう昔のように、俺だけが特別不幸なのだとは思ってはいなかった。
佐伯は言う。
「それになんか口では言えないことも、文章だと伝えられることあると思う」
「お前でもそんなこと思うんだな」
「なんだよ、どう言う意味だよ」
「いや、いい事言うなと」
「ふうん」
「分かるよ」
「本当かよ」
佐伯は怒った口調をしながらも笑っている。
佐伯は、俺と普通に接してくれる。
だから俺は佐伯と話していると、普通の高校生なのではないかと、いつも少しばかり思えてくる。
……実際普通の高校生なのだが、中々そうは思えなかった。
「ちょっと、良い感じなんだよ」
「え?」
「メル友の子と」
「……」
「今時はそう言うの、多いらしいよ」
「多いのか」
「うん」
俺と彼女の世界を越えたやりとりも、そうか、普通の高校生のそれと、本質的にはあまり変わらないものなのかもしれない。
「手紙、日頃言えないことも、伝えられたら良いな」
「ああ」
そして佐伯は、そっか、と一人納得するように頷いている。
「だからお前女に興味ないのな。その子、女子なんだろう」
「……」
真顔で手紙を見下ろす俺を、佐伯は笑っていた。
俺は聖女様のことを、それまで、そんな風には考えたことはなかった。
18歳になった。
俺の高校生活は、確かに生き急いでいるようだった。
早く独り立ちすることしか考えていなかった。
バイトばかりの俺の生活では、施設の子供達との触れ合いも少なく、当たり障りなく過ごせていた。
奨学金で大学に行くことも考えた。
けれど、それでは自由になれる限界がある。
一度、時間と金が俺自身で自由になる状況を作り、今後の人生を考え直したかった。
「俺の店を手伝えよ」
「え?月ちゃん手伝ってくれるの?」
飯村たちは気軽にそんなことを言ってくれた。
「いいよ、人件費キツいだろ」
結局俺は、学校の紹介の会計事務所に就職することにした。
一人暮らしの計画を立てながら、俺はもしも誰かと住むのなら、そんなことを夢想した。
クラスの女子たちではピンと来なかった。
当たり前だ、連れてきたいのは、聖女様だけなのだから。
色々な言い訳をしながらも、俺は結局、彼女をこの世界に導ける拠点が欲しかっただけなのだろう。
もう長い間、俺は考えていた。彼女は、俺のなんなのだろうと。
客観的には、同じ儀式の犠牲者同士だ。
だがそんな言葉では表せられないものを、心の中に抱えている。
初めはきっと、彼女に母を重ねた。哀れで、惨めに死んだ、愛情深い母。
けれど、俺の知る聖女様は、母の面影以上に清らかだった。真っ直ぐに、穢れのない心で、真実世界のために祈っている。
けれど盲目的にではない。不安と疑問を抱えながら、それでも勤めを果たそうと懸命に生きている。
心に怒りを抱え、世界を恨んでいた俺の心は、いつしか彼女の祈りの中で溶けていった。
まるで彼女の祈りのおかげで、俺が生かされて来たように。
俺自身の苦しみは、彼女と交わすやり取りの中で、全てが喜びに塗り替えられて行く。
――それでも俺は、まだ、子供なのだ。
高校も卒業出来ていない。彼女をたとえ連れ戻すことが出来たとしても、彼女の人生を背負うことすら出来ない。
早く大人になりたい――。
確実に膨らんでいく彼女への思慕を、俺はこの時には自覚していた。
高校3年の冬。
焦るように生きていた。
勉強と、バイト、バイト、バイト。
肉体的な疲労だけではなく、バイトではクレームを受ける日もある。心も疲れていく。
睡眠を削っていた。
分刻みで物事を考えていた。門限、勉強、風呂に入る順番や余裕、日毎数えるバイトの金の貯蓄額。
ほんの少し先の、独り立ちした未来のことしか考えていなかった。金がかかる。生活に係る費用、削れる時間、効率の良い勉強の仕方……。
卒業後、施設長が一時的に身元を保証してくれる。
けれど、それだけだ。何もかも、これからは一人で生きていく――。
クラスメイトが受験勉強をしている最中、俺も娯楽など一つもなく生きていた。
そんな時に彼女から、珍しく不安を抱えた様子の手紙が届いた。
『月人様
お元気にされておりますでしょうか?
働きながら学校に通う生活は、大変お忙しいことだろうと思います。
月人様の生活をお伺いするたびに、私も月人様のように、学ぶこと働くことを真摯に行って行きたいと、身が引き締まる思いになります。
私は孤児院に通うようになり、少しだけ世界が広がったように思えます。
月人様。
黒髪と黒目を持った人間は、悪の化身なのだと言う話を聞いたことがありますでしょうか?
人々は皆私の姿を見ると怯えます。
私のふるさとでは、そのような話はなかったように思うのです。
私の姿が見えているとおっしゃっていた月人様は、もしかして、恐怖に耐えながらも手紙をくださっていたのでしょうか?
無知な私は、今までそんなことにも思い至らなかったのです。
敬虔な信者である月人様に無理をさせていたのではないかと、心苦しく思っています。
どうかもう、ご無理はなされないでください。
シャーリャン様に、あなたの幸せを願っています。』
……彼女はこの歳まで、そんなことも知らされずに育てられたのかと、彼女の閉ざされた生活を垣間見る。
あの人は、こんなことで傷つく必要などどこにもない人なのに。
怒りを世界に向けても良い人なのに……どうして俺などを気遣うのだろうか。
けれど……。
嬉しかった。
彼女の清廉さに心が洗われた。
俺はこのところ、こんな風に彼女を気遣えていただろうか。俺は未だに、取り替え子であることさえ伝えられていない。毎日が必死で、彼女のことを考えることを先延ばしにしていなかっただろうか。
彼女は俺を支える、小さくとも力強い、清らかな希望の光であるのに。
どう言ったら伝わるだろうかと、俺は一月の間何度も手紙を書いては書き直すことを繰り返した。
『聖女様
忙しい日々の中で祈りの時間が取れず、返信が遅れていたことをお詫び致します。
また、大事なことを今まで伝えられなかった僕をお許しください。
僕自身も聖女様と同じく、黒髪黒目です。
聖女様に怯えることなどありえず、僕は聖女様のことを、とても美しい方だと思っています。
本当にこんな言葉だけでは伝え切れないほど……今まで目に映った全てのものよりも、清らかに澄んだ、触れたら消えてしまいそうに儚い月の光のような女性に思えています。
無理など少しもしていません。
僕は次の春に一度学生を終え仕事に就きます。
孤児である僕は、人より多く働かなくては生きていけず、人生には困難が数多く立ち塞がっています。
心が打ちのめされ、もう立ち上がれないと思ったことは幾度もありました。
恥ずかしいことですが、18年生きてきても僕には大切な人が出来ませんでした。
ずっと一人で生きるのかと考えることもあります。
けれど聖女様が僕を含めた世界のことを祈ってくれているのだと思えるだけで、前を向ける元気をもらえ、今日まで生きてくることが出来ました。
誰かのために祈れる貴方を尊敬してます。
月を見上げれば、いつでも心が少しだけ温まる気がするのです。
あなたのお姿を見ることが出来た僕は、どうしようもないほどの幸運を与えられていました。
あなたは、僕の生きる希望です。
どうか、気に病まないでください。
心ない言葉を真に受けないでください。
あなたは誰よりも、聖女らしくあられる聖女様です。
僕はそれを知っています。
ツキト』
会計事務所で働き出すと、日々は忙しく過ぎて行った。働きながら、夜は大学受験のための勉強もしていた。
女子の先輩は優しかったし、男子にも面白い先輩がいた。時には失敗をした。けれど、それを注意したり補ってくれる人たちの存在を知った。
仕事だけでなく、夜の飲みや、また、仕事以外のことも教えてくれた。他の人なら迷惑だったかもしれないが、その先輩からの教えは役に立った。
教えを受けながら株に手を出した。
仕事を覚えて行く日々の中で、口座の金がかなり増えた。
一年も経たぬうちに、大学で学び直し生活出来るだけの額を貯めていた俺は、申し訳なく思いながらもその会社を退職した。
バイトとはまた違う社会経験だった。
知識を学ぶにも、社会的な常識を学ぶにも、そして何より、人に恵まれて社会性が鍛えられた。良い職場だった。
春からは大学に通い始めた。
貯めた元手を、さらに増やした。大学に通いながらのアルバイトは当分は必要なさそうだった。
20歳になった。
その日は、大泣きした飯村夫妻がまるで自分の子のことのように俺を祝ってくれた。
「月人おおお、大きくなったなぁ」
「月ちゃん、おめでとうーーー!!」
俺は時々、今が幸せなのではないかと感じる。
生きることに前ほど苦労せずとも、今を生かされていることは、なんて幸福なのだろうかと。
けれど心に欠けたものをいつも感じている。
――彼女がいない、と。
世界に、彼女が欠けている。
この世界から攫われた彼女は、一人心細く異世界で暮らしている。
彼女がいなくては、俺の世界はきっと埋まることはないのだろう。
――ああ、違う、俺はまた言い訳をしている。
彼女に会いたいのだ。彼女に。俺が、触れたい。
俺は、会ったこともない人を、どうしようもなく切望している。
そしてまた、手紙が届いた。
『月人様
お手紙ありがとうございます。
学生に戻られてからの日々もお忙しそうですね。
働きながら学業もこなすなど、とても真似できることとは思えません。心から尊敬しております。
大変なご苦労をされていらっしゃるようですので、お身体をとても心配しています。
食べ物をしっかりととって、また休息もとってくださいね。
私の生活は変わりはありません。
ただ、この歳になりやっと……少しだけ、私自身の役割や、社会のために出来ることなどを、客観的に受け止められるようになった気がします。
私は子供の頃からずっと考えて来ました。
聖女とはなんなのだろうと。
親から引き離され、無理やり課せられた義務のように思っていたのです。
今ではもう両親の顔も思い出せず、健在なのかすら分かりません。
けれど確かに、この世界の聖力は減り続けています。
それを増やせる力を持つ人間が私しか見つからなかった。
そうしてその役割は、唯一無二のものであり、私の世界のために役立てることなのです。
私は望まれる限り、私の出来ることを尽くしたいと思います。
そんな風に受け止められるようになれたのは、あなたのおかげです。
私にはもう家族はいません。
祈れと言われても、何を祈ればいいのかも分からず、ただ漠然と祈るだけでした。
もしかしたら、心に大きな穴が空いていたのかもしれません。
暗闇に吸い込まれるように、私の中にあるはずの温かな想いはそこに飲み込まれ、誰かのために祈る気持ちになど心を込められなかった。
けれど……あなたからの手紙を頂いた年から、魔法球の聖力が増したのです。
心の穴が埋まっていくように、私の心が誰かの幸せを、心から願えるようになれたのです。
世界の人々の幸せを祈りながら……私はその中に確実にいる、あなたの幸福を願っていました。
魔法球の輝きが増す度に、私はあなたも幸福でいられているのではないかと感じて、嬉しかった。
聖女であることを受けいれられた今、やっと私は……自分の心に素直になれます。
私はこの先も聖女の役割を担って生きて行きます。
けれど神にもしも許されるのであれば、私はこれからも、あなたのために祈りたい。
苦労をして育ち、懸命に生きている、あなたの心が満たされますようにと、安らかな眠りにつけますようにと、聖女の前にただの人間である私が、そう祈ることをどうぞお許しください。
あなたに月の輝きがありますように』
胸が熱くなり、涙が出そうになった。
けれど、
―― 私はこの先も聖女の役割を担って生きて行きます。
この一文に息を呑む。
彼女はきっと知らない。
俺の母が20歳で引退したのは、その年齢で能力を失ったからだ。彼女もまた、今後母と同じ道を辿る。
だから俺はそれまでに、確実に彼女を連れ戻しに行かなくてはならないのだ。
『聖女様
あなたからの手紙は、全てが僕の宝物です。
どうか僕にも、同じだけあなたの幸福を祈ることをお許しください。
あなたがいなければ、僕はもうとっくにこの世に生きてはいなかったでしょうから。
そして、一つだけ、僕と約束をして欲しいのです。
どうしても助けがいるときには、僕を呼んでください。
僕の名を、僕の存在を、心から呼んでください。
その時、僕はなにがあっても、あなたを助けに行きます。
ツキト』
必ず、彼女を連れ戻す。
けれど――『使えば使うだけ、寿命が短くなる』
飯村の言葉を忘れてはいない。助けに行くのは、きっと命懸けになるのだろう。
俺は、着々と準備を進めていた。
部屋にはたくさんの、彼女からの手紙がある。
これは俺の宝ではあるけれど、それだけではなく、向こうの世界から『得られたもの』なのだ。
今後、世界を渡る上で役立つもの。
そしてこの体には、彼女自身の祈りから生まれた聖力を可能な限り蓄えている。
――もしも彼女が俺を呼んでくれたなら。
向こう側からのその呼びかけになら、俺は応えられるのではないかと思っている。
彼女は俺の手紙を残しているだろうか。こちらからの贈り物を等価交換にしてもいい。
俺自身が向こうに辿り着ければ、彼女からの手紙をポイントに、彼女をこちらに送る。
俺自身は、俺の部屋のものなら俺自身の交換として成り立つのではないかと思っている。
おそらく、向こう側で魔法を使う分には、肉体に負荷はない。
問題は……彼女の呼びかけに応え、無理をして向こうに渡る時だ。
俺はきっと、この肉体の命を削り落とすことになる。
それでも構わないと思っていた。
もしも、最後の好機に何も出来ずに終わったとしたら、俺は生涯悔やむだろう。二度と声の届かない聖女を思い、そして母のような不幸な人生を想像し、俺自身がいずれ病んでいくだろう。
許されるのなら――。
俺が生まれた意味も、この世界で生かされ続けた意味も、彼女のためでありたいと思う。
人生に意味なんてきっとない。ただ俺自身が、そう願うのだ。
まだ幼い俺の心に響いてきた彼女の声。
――『月の女神シャーリャン様。この世界の皆が幸福でありますように……』
その台詞は俺の心の1番奥で、消えることない光のように輝き続けている。
俺が、俺自身がただ、彼女の光になりたいのだ。
――そして彼女の声は、突然届いた。
『いやぁ!!月人……月人!助けて、お願い助けに来て……!!月人……っ』
凄まじい悲鳴のような彼女の声に、心臓が鷲掴みにされるように痛むのを感じる。
その時大学の授業を終え、学友に教えてもらったパン屋に行った後、帰宅する途中だった。
こんなところでか、そう思っても仕方がない。
俺は誰もいない路地裏に入ると、荷物を地面に置き目を瞑る。
「月の神シャーリャン!俺を聖女のところへ導きたまえ!」
俺の命の全てをかけて、俺を、彼女のもとへ、どうか。
果たして、俺の願いは叶った。
俺自身が光に包まれると、光そのものになったような不思議な感覚が訪れた。
圧倒的な光の中で、俺は俺自身ではなくなって行く。
俺は、オレは、僕は、ボクは……。
意識を失いかけていたときに声が聞こえて来る。
『月人……!』
ああ……聖女、君に会わなければならない。
「……はぁ……!ぐっ……」
心臓が潰されるような痛みに襲われる。体には、多大な負荷が掛かっているんだろう。……くそっ。このまま心臓発作など冗談じゃない。
「なんだ!?」
「何者だ!」
声が聞こえる。薄目を開けると、神官服が見える。
――来たのか?俺は、ついに……!
顔を上げると、ここが、この世界を最後に見た神殿であると知る。
「取り押さえろ!」
知った声だ。神殿長だったか。
彼の横に、黒髪の乙女が立っていた。
白い衣に身を包んだ、細身の女性。
澄んだ瞳を見開き、驚いたように俺を見つめている。
「……聖女」
その姿はずっと会いたかった彼女のもの。
「迎えに来たよ」
ずいぶんと遅くなってすまなかった。
「……月人」
彼女が俺の名を呼ぶと、心に喜びが満ち溢れるのを感じる。
やっと、あなたの口から、俺の名を呼んでもらえた。
「お前はまさか10年前の」
「ああ似ている」
「不吉な子供!」
騒ぎ立てる神官どもの雑音に不快を覚える。
不吉ってなんだ。
聖女の子なら、神に等しいものなのではないのか。
こんな愚かなもの達のために、俺たちの人生は狂わされたのか。
「……ハハッ……ハハハハハハッ!!あははは!!ああ……おかしい!!」
笑い出した俺を、彼らは怯んだように見つめた。
「聖女の祈りを、10年!受け取り続けた!凄まじい魔力量になったよ。まさかこんなに力を抱えられるとは思いもしていなかった。ああ、この世界から追い出されて本当に良かったと思ってる。今なら、お前たち全てを殺すことが出来る!何て愉快なんだ!!」
困惑する神官達に俺は言葉をぶつけて行く。
「お前たちは俺を覚えていたのか?なのに、返還の儀は行わなかったのだろう?いいや、いいんだ、聞くまでも無い。廃れた儀式だ。聞いているよ。以前の、聖女の末裔からな」
「なぜ俺が魔法を使えるのか不思議そうだな。教えてないものな、歴代の聖女にも、その子にも、その使い方を!使えるのに、教えなかった。……なぜだ?」
「なぜ俺が生きてると思う?育ての親は誰だと思う?お前たちの捨てた、聖女の末裔だよ。そのまさかだ。彼は生きていた。聖女の血を引きながらも、魔法の使い方を知る者。そして捨てられた者。俺に全てを教えてくれた者。今の俺の魔力ならば、ここにいる全員を殺すことも可能なんだ。分かるよね。神の力を感じ取れるはずの君たちならば、この力を感じられるよね?俺は君たちに人間扱いされなかったからね、当たり前だけど君たちのことも人間には思えないんだ。この場の人間をぺちゃんこにしても、蟻を捻り潰すくらいの罪悪感は感じるかもしれないけど、その程度なんだ」
「無垢な聖女様に、ご説明差し上げて?彼女は何も知らないんだ。だって当然だろう?君たちが何も伝えていなかったのだから」
「昔は返還の儀が行われていた。けれど、返還の儀を行っても、帰れる者がほとんどいなかったんだ。丁重に生かされる聖女と違い、異世界に放り出される孤児など生き延びられない。戦や饑餓の時代なら数年すら生きられない。平和な国や時代があったとしても、俺ですら何度も死にかけてる。そして心が病む。……無理なんだ、生きながらえるなんて。そして、返還の儀そのものを、意味のないものとして行わなくなった」
話していると、忘れていた怒りが心の中に広がって行くのを感じた。
自分がとても抑えられない。
この場所も、こいつらも皆、全てを壊したい。
もう良いじゃないか。彼らはそれほどのことをした。
儚く死んだ母の姿を思い出す。
『お母さんはあなたに会えて幸せになれたの』
――嘘だ。
あの人は自分の子にしか希望を見出せなかった、それだけだ。
自分に訪れなかった幸福を子に託した。子供がいつか飛ばされるだろう国の言葉を教え、絶望に塗られた真っ暗な未来に、叶わぬだろう残酷な夢を見たのだ。
(許せない……許せない、許せない!)
誰があの人にそんなことを思わせた。
こいつらさえいなければ、母は普通に元の世界で生きていけたのに!
全てを終わらせてしまおう――。
「……月人」
静かな声が響いた。
視線を向けると、瞳を潤ませた聖女が真っ直ぐに俺を見つめていた。
「生きていてくれてありがとう……月人」
「……」
「無事で……良かった」
心から吐き出されるその言葉の清廉さに、俺はここに来た目的を思い出す。
彼女を、俺は取り戻しに来たのだ。
小さくため息を吐く。見失うな、大事なものを。それは、壊れやすい、幻想のようなもの。
小さく儚い、かろうじて生き延びた、澄んだ光。
一度間違えば、手に入ることなく、消えて行くもの。
「私は、あなたのために祈るわ。全部話してくれていても良かったの。知った今も変わらず、私はあなたのために祈ります。あなたが、幸せであるように。聖女の力が無くなってもずっと……私を救ってくれたあなたの幸せを願い続けます」
彼女の心は、今はまだ、俺に向いている。
「……聖女」
「はい」
やっと、彼女を前に出来たのだ。
「世界を捨てよう。そしてあなたの名前を、探しに行こう。紫陽花の咲く家を探そう。きっと、焼きたてのメロンパンが美味しい店が近くにある」
そう言って小さな紙袋を手渡した。
「初めて行列に並んだ。一つ食べたが……まぁ美味しかったと思う。それが、メロンパンだ」
彼女は泣いた。子供のような泣き顔だった。
「……ふっ……ぅっ」
「……おいしいぞ」
「パパ……ママ……!」
「大丈夫だ。俺がいる。必ず、連れ帰り、思い出させる。俺の出来る限りのことをする」
「……あなたが?」
「そうだ。俺はあなたに、決して嘘はつかない」
「……この世界に戻ってきたのではないの?」
彼女は、不思議そうに問う。
まだ彼女の中の疑いは晴れないのだろう。
「まさか」
けれど、これが本心だ。
「10年前なら確かに、俺はこの世界に恨みしか抱いていなかった。復讐することしか考えていなかったと思う。この世界になど、とうに未練はない。断ち切れたのはあなたのおかげだ。交わす言葉の一つ一つが、あなたから変わらぬ清らかな心を受け取る年月が、俺を変えた。世界を妬み、激しい憎しみを持つ俺の心を、あなたが変えた」
そして今も……間違えなくて良かった。
憎しみは憎しみを呼ぶ。俺は、もう、そんなことを引き起こすことなどしたくない。
『後悔することはするなよ』
飯村の言葉が今になって理解出来る。
彼女の目の前で、この場を血に染めていたならば、俺は間違いなく後悔していた。
「嘘偽りなど、どこにもなかった。本心から、俺の幸福を願う心を受け取っていた。俺は――あなたの前では自分を恥じるばかりだった。醜く、幼く、自分のことしか考えていない……あなたとはまるで違う」
そうだ忘れるな。
俺は未だ未熟で、彼女の隣に立つことすら、許されるものではないのかもしれない。
それでも俺は……あなたのそばにいたい。
「あなたがこの手を取るのなら、俺があなたを連れて行く。あなたの名前を探そう。どうかこの手を取って欲しい」
そっと片手を差し出す。
彼女は一度腕を上げた後に、考えるようにして言った。
「私は、ずっとあなたの幸せを願って来ました。私はこの手を取りたい。けれど……」
彼女は俺を懸命な瞳で見上げて言う。
「私がこの手を取ったとき、あなたは幸せでいられますか?」
幸せ……?
意味が分からず見つめ返す。
「必死に生きてきているあなたの姿を垣間見ていました。知らない場所に飛ばされて、きっとたくさんの困難があったことでしょう。だけどあなたの言葉はいつも誠実で、私の心はあなたの手紙を受け取るたびに洗われる気持ちになっていました。あなたは、私の人生で、ただ一人、私を救ってくれた人です。私は、これ以上あなたの重荷になりたくない。あなたの人生が聖女である私のために苦労することになったのだとしたら、私のことは捨て置いて欲しい。私は、あなたに幸せになって欲しいのです。これからも、ずっと」
俺は彼女の手を握った。
「聖女」
「はい」
「俺は……あなたとともにいられるのならば、この世界で一番の幸せな男になれる」
間違いない。
満たされる自分を想像するだけで涙が出そうになる。
手の中に、彼女の小さな手がある。そこに確かに温かなぬくもりを感じる。
「月人」
「……うん」
「ずっと、逢いたかった」
「俺もだ……」
運命を捻じ曲げられてから、10年。
交錯した俺と彼女の人生は、今ここで、再び一つになる。
もう……この世界には、用はない。
神殿を見渡す。
力で押さえ込んだ神官達が床にひれ伏している。
神殿。この世界の背景では、作られるべくして作られた場所。けれど、俺と彼女の人生には、もう関わりのない場所。
彼女が言った。
「私は、あなたが居てくれればそれでいい」
「……」
「あなたの望むように。月人。あなたの決断が、私の望み」
……本当に?
少し考える。
ずっと感情のままに、世界に復讐がしたかった。
けれど……そうしたときに、俺は彼女の隣に並べなくなるだろう。
しかし、俺はこのまま帰ってもいいのか?
俺と彼女と、母のために、何をしたらいい?
彼女の瞳を見つめながら考える。
俺と彼女の、そして未来への最善。
(母さん……)
少ししてから、神殿長の元に歩いていく。
「あの日、あの場の責任者であったお前には、この場で借りを返してもらう」
床に倒れ伏したままの神殿長の前に跪くと、手を触れた。神殿長の体がピクピクと痙攣する。
「命の灯をわずかに残し貰った。ここに来るだけで、俺の命が消えかけていたからな」
「え……」
「この世界と違い、向こうで魔法を使うのは命を削るんだ」
「……」
「しかし、足りない……」
立ち上がると神官たちに向かい腕を上げ、見回すようにして言った。
「神に仕えながら、神に仕えていないすべての者から、俺へ、その命の光を」
途端に、彼らは悲鳴を上げながら床をのたうち回るように苦しみ出した。
「……つ、月人」
「大丈夫、殺さない。……彼らがしたことの代償だよ。時限爆弾を、残していく」
静かに語る。
「今度は、時空の穴を埋めることの代償だ。不自然に空いた穴を塞ぐために、これから発生する聖力も注ぎ込まれ続けるよう、魔法を構築して行く。聖力が足りないものからは、お前たちの命の力そのものが注ぎ込まれるように」
はたして理解して聞いているだろうか。
「神に祈る心が試される時だ。真に神に祈れる者ならば、命の力まで取られないだろう。心清い者だけ生き残る世界など……もう、国として成り立つのか分からないが」
だけど、と続ける。
「歪みの中に、一人落とされた俺だけが、この穴を塞ぐ権利と力を持っている。俺をこうしたのは、お前たちと、この世界だ」
彼女が俺の手をそっと握る。
その温かさに涙が出そうになる。
「……俺の手は穢れている」
「……」
「それでも、来てくれるのか?」
「月人……あなたは私の世界で一番綺麗よ」
どうして彼女は、どうしようもなく、美しいのか。
「聖なる女の力を溜め込んだ俺の全てを使い、魔法球を解放せよ。この世界の聖力の全てを使い、俺と彼女を、もう一つの世界へ導け」
「そして、世界を閉じよ。穴を塞げ。残る聖力の全てを使い、二度と、開かぬように」
神官達は驚愕したように俺を見つめている。
俺は彼らにはきっと、俺の声は届かぬだろうと感じながらも言った。
「ないんだ。初めから。この世界に聖力など残されていなかった。なくなることを受け入れぬお前たちがただ歪みを作った。閉じた世界でせいぜいもがけばいい。いつか歪みが塞がるまで生き延びてみろ。俺たちは、もう――お前たちには囚われない」
視界が歪む。
神官たちの姿が薄れて消えて行く。
俺は彼女を連れ、生まれた世界を捨てて行く。
先に送った彼女は知らない。
穴が塞がるその時に、その場にいた彼らのうちの大部分は、聖力のかけらもない体から命の力を抜き取られて行っていた。
俺は、彼らのその後は、もう知らない――。
「ようこそ、日本へー!!」
「いらっ~しゃ~い!」
聖女を連れて帰ったことを連絡すると、俺の賃貸のマンションに飯村夫婦が押しかけて来た。
彼女は、目を丸くして二人を見つめている。
「飯村は、前任の聖女と交換でこちら側に送られた男だ。そしてその妻の静子。2人とも、全てを知っている。なんでも相談しても大丈夫だ」
「は、はい……」
彼女は戸惑いながらもお辞儀をして言った。
「宜しくお願いします」
向こうの世界にはない習慣だ。彼女の体は、思ったよりもこの世界のことを覚えているのかもしれない。
静子は泊まっていくと言う。
「女の子のお世話を1人でする気なの?月ちゃんハレンチ!」
ハ、ハレンチ……。
静子はそれから週末の二日間を俺の家に泊まり、何も知らない彼女に暮らしのことを色々教えてくれた。
二人が帰って行き、家が静かになると、俺は彼女に言った。
「大丈夫そう?」
「はい……」
「なんでも聞いてくれていいから」
「ありがとう月人」
いざ二人きりになると、正直、どうしたらいいのか分からなかった。
「余っている部屋で暮らして欲しい。生活も心配いらない、俺はもう金も稼いでいるから。あなたの身の上のことは、これから時間を掛けて調べて行きたい。だけど……」
言葉を言い淀んでいる俺を、彼女は無垢な瞳で見つめている。
「俺はずっと、あなたが、女性として好きでした」
「……」
「そんな男と、共に暮らすのが怖いと思うなら、飯村のアパートの空き部屋を借りようと思う。嫌でなければ、時々、会いに行きたい。生活に不便はないようにする。あなたが、選んで欲しい」
そう言うと、彼女はしばらく俺を見つめ続けてから、突然顔を真っ赤にした。
「……え?」
戸惑うのは、俺の方だった。
もしかしたら、色恋の情緒は発達していないのではないかと思っていた。
だけど、この反応では、彼女に俺の真意は伝わっている。
「あの……」
戸惑うような彼女の声。
「……はい」
「私……私も……」
「……」
「私も……ずっと……あなたのことが……」
そうして俺たちは、共に暮らし始めた。
彼女を救い出すまでに10年掛かった。
けれど俺たちの人生は、きっと、これまでよりもずっと長く続いていくのだ。
彼女の両親を探し出したのは、それから半年後のことだ。
飯村は記憶を薄れさせる魔法のプロセスを知っていた。
それは記憶を消すのではなく、蓋をする、と言う類のものだと。
それならばと、彼女に試してみようとしたら、彼女の方から一度は止められた。
この世界で魔法を使うことは、命を削るほどに体に負荷を掛ける話を聞いていたからだ。
「少しだけだ。体の負担にならない範囲で試す。それに、この世界で魔法を使うのは、これが最後だ。一度だけだと約束する」
そう言っても彼女は頷かなかった。
けれど次の言葉で、彼女は渋々頷いた。
「俺は、君と結婚がしたい。この世界では、戸籍がなければ、生きるのは難しい。子供を作り、その子にも、日の当たる道を歩かせたい。そのためには、君の身の上を確かめたいんだ」
俺は彼女に、少し嘘をついた。
実際には他の道もあるだろう。なにより、彼女がいれば俺はどんな人生でも幸せなのだ。
けれど叶うならば、彼女の憂いを無くしたい。
このままならば、彼女は生涯、思い出せない家族のことを気にかけるのだろう。
そうして使った魔法により、彼女は詳細な記憶を思い出した。連れ去られたときは9歳の小学3年生。住所まで正確に覚えていた。
曇り空から、雪が降り出した。
俺は差した傘から彼女を見下ろす。
彼女は、一軒の家を見つめていた。
住宅街に並ぶのは、普通の、日本の家々だった。
俺は昨晩、ネットでストリートビューを確認していた。この家の表札は、今でも、彼女の苗字のままだと。
「門の前の低木、紫陽花だよ」
彼女が言った。
冬の今は葉もほとんど落ちているが、確かに紫陽花なのだろう。
「うちだ……」
もう、11年経っている。
けれどこの世界での彼女の時間は止まったままだ。
ゆっくりと歩き進み、顔を見合わせてからチャイムを鳴らした。
彼女によく似たご夫人が出てくると、泣き崩れた。
「……美雨!」
それは確かに、彼女自身で思い出した、彼女の名前だった。
抱き合う二人を見つめながらぼんやりと思っていた。
冬が過ぎ、次の彼女の誕生日を迎える頃には、この紫陽花の低木が、鮮やかな花を咲かせている姿が見られるのだろうと。
白木美雨。
郊外の都市で生まれた。
今はもうない、小さなパン屋が昔は近くにあった。
中流家庭、サラリーマンの父親、専業主婦の母親。弟が居た。一つ年下の弟は、今は一人暮らしをしながら大学に通っていると言う。
彼女の母に、父親は夜まで帰らないので、どうか今夜は泊まっていって欲しいと勧められた。彼女はともかく俺までも、と断ろうとしたが、それでは彼女の方が納得しなかった。
結局夜になるずっと前に、父親が帰って来た。彼女たちは泣きながら抱きしめ合っていた。
俺はどこか居心地悪くそれを見守っていた。
泣き疲れた彼女が眠ってしまった後に、俺は彼女のご両親と話をした。
彼女のご両親は、その年齢より老けて見えた。
長い間行方不明になっていた娘を探し、いつか戻ることを信じてこの家で待ち続けたのだと言う。
「半年前に、彼女と知り合いました。それまでの記憶がなく困っている様子の彼女を保護し、また警察にも届けました。僕らは一緒に暮らし始めました」
警察のことは、抜かりなく本当のことだ。
かつての勤務先や、通っている大学の名前など出すと、少しだけほっとするような表情をした。
「生活に落ち着きを取り戻すと、彼女は徐々に昔の記憶を思い出して行きました」
これはそういう設定だ。
「彼女は僕と暮らしたがっています。けれど僕は、彼女はご両親の元に戻るべきだと思っています」
俺の説明を聞いた後父親が言う。
「あなたは娘とはどう言うご関係ですか?」
「僕たちは……一緒に暮らしながら、お互いに好意を伝えあっています。けれどまだ、恋人らしいことはなにもしていません。僕は、彼女が記憶を取り戻せた時に、改めて、彼女に交際を申し込もうと思っていました」
そうか、とご両親は頷いていた。
「お許しを頂けるのなら、彼女に会いに来てもいいでしょうか?」
「それはもちろん、歓迎します。あなたにはお礼もまだ出来てないわ。だけど交際はあの子しだいね。私は、あなたを応援するわ」
母親は何故だか少し嬉しげにそんなことを言った。
「ありがとうございます」
反対されなかったことに拍子抜けし、戸惑いながらも、お礼を言った。
翌朝、帰り支度をしだした彼女を俺は止めた。
「俺は一人で帰るよ」
「え……」
まるで絶望を感じたかのように彼女は表情を無くす。
「……どうして?」
「君は、ここにいた方がいい」
「……いや!」
俺に抱きついて来て、必死にしがみつく。
「いやだ、置いていかないで。離れるために、思い出したんじゃない!そんなことのために、ここに来たんじゃない!」
泣き出した彼女を受け止めながら、ご両親に言った。
「すいません、少し二人で話をさせて下さい」
「ああ、行こう」
泊めてもらった和室に二人きりになると、俺は彼女の顔を覗き込んだ。子供のように泣いている。そんな彼女の気持ちは、俺にはとても嬉しかった。
「俺はもう、母は亡くなってるんだ。父親は……最初からいないようなものだ」
彼女がゆっくりと顔をあげる。
「けれど、飯村と静子が、自分たちの子供のように接してくれた。上手く伝えられていないけど……彼らには、本当に心から感謝している」
飯村夫婦と、そして聖女様の清らかな祈りがなければ、俺はとっくに道を踏み外していたことだろう。
「あなたには、愛してくれる肉親が生きている。あなたも彼らを愛している。ならば、同じ時間を過ごした方がいい。離れていた時間を埋めるように、今は共に過ごす時間が必要だと思う」
「でも」
彼女は涙をポロポロこぼして言う。
「その間、月人は?月人のそばには、誰がいるの?私は誰よりも、あなたのそばに居たい。あなたの、どれよりも親しい者でありたい」
その気持ちだけで、俺の心はとうに満たされているだなんて、彼女は思ってもいないだろう。
「俺は」
「うん」
「最初から、やり直すよ」
「?」
「好きになった人に、告白する」
「こ、こくはく」
「彼女のご両親に、デートのお許しをもらう」
「でえと」
「俺を知ってもらい、彼女を知って行き、お互い生涯共に在りたいと思えたら、結婚の承諾をもらう」
「けっこん」
「そして、彼女のご家族や友人たちに祝福されながら、二人で暮らしだす」
「……」
俺の言葉を、彼女は考えるように聞いている。
「ゆっくり、進もう。君はまだ、戻って来たばかりなんだ」
俺はいずれ、彼女を一度手放さなくてはならないだろうと感じていた。
この世界に戻って来てからの彼女は、俺に対して盲目的過ぎたのだ。頼れるものがほとんど俺だけなのだから当たり前だろう。けれど俺の存在が、彼女の視界を狭めているのではないかと、不安に思うところもあった。
かつて生きた場所で自分を取り戻し、やりたかった夢を思い出し、友人とも心から話せるようになれたときに、それでも俺を選んでくれたらと、そう……願う。
「どうしても……?」
俺の決心は、彼女には伝わっているようだ。
「うん」
そして彼女を抱きしめた。
「好きだ、美雨」
「……っ」
「離れても、変わらない。6年前から、ずっと好きだったんだ」
「……」
彼女は少ししてから、そっと、顔を上げた。
「私も……」
「……」
「月人が、好きです」
頬を染めた彼女は、まっすぐに俺を見つめて言った。
「初めて、手紙を貰ったときから、ずっと……心は、あなたのそばに居ます」
結局、俺が大学を卒業するまでは彼女は実家で暮らした。
それでも、月に数度デートをした。
電話をしない日はなかった。
彼女のご両親は僕たちの関係に好意的だったし、彼女の弟にいたっては、俺のマンションに転がり込んでくるほど懐かれた。
彼女は通信制の学校にも通い、勉強をしていた。
穏やかに時間が過ぎていく。
「月人、よく助けに来てくれたね」
ある日彼女が言った。
「え?」
「だって……」
その手には、勉強の教材が握られている。
「きっと、こんな場所に一人で飛ばされたら、生きるのに精一杯で、前の世界のことなんて考えてもいられないと思う」
飛ばされてきた時は確かに、必死に生きて来たと思う。
「大変だったよね、月人」
「うん……」
そんな風に、かつての俺を彼女が気遣ってくれる日が来るとは思っていなかった。
けれど……俺には、彼女がいた。
「祈りの声が聞こえたんだ」
「祈り?」
「そう、君の声」
「うん」
「挫けそうになるたびに、励まされている気がした」
「……」
「助けに行ったんじゃない。俺が生きるのに、君が必要だったんだよ」
「……うん」
私にも必要だよ、そう彼女は小さく答える。
「もう、シャーリャン様には祈らない。だけどずっと、変わらない気持ちを持ってる。あなたが笑ってくれたら嬉しい。あなたの笑顔が消えないように、私はなんでもしたいなって、思ってる」
彼女は時々、祈りを捧げているときのような表情で、月を見上げていることがある。
そんな時俺も彼女と一緒に、神ではない何かに祈っている。
彼女は、この世界に戻ってきてから、いつもどこか困っているような表情をしていた。
毎日必死に勉強し、ゆっくり休んでいる姿を見たことがない。
俺が想像する以上に、彼女の戻って来てからの人生は困難なものなのかも知れない。
可能な限り苦労をしないように代わってやりたかったが、そうもいかないことも多い。
だから俺は祈るのだ。
彼女が、もう決して同じような不幸に合わないように。やっと芽生え始めた笑顔が曇らないように。その為にどんなことでもしたいと思っている、そんな俺の気持ちが変わらないように。
神の宿らない月を見上げながら、祈っている。
月日は巡る。
俺が再び就職し、彼女の勉強がひと段落した頃、俺たちは入籍した。ささやかな結婚式には、彼女の家族、友人、そして飯村夫妻と俺の友人も来てくれた。
女の子が生まれた。
すると彼女は言った。
月人のお母さんの名前は?と。
母親もまた、魔法で記憶を薄れさせられていた人だ。向こうで付けられた名前しか持たなかった。
名前は分からないというと、どんな人なのか聞きたがった。けれど俺自身も大したことは知らなかった。母親のことも、その血縁者も探しようがなかった。
「いつも春になると、息が吸えるような気持ちになれると言っていた。花が好きだった。笑顔で花の香りを嗅ぐ、そんな人だった」
生まれた子供は、二人で相談し、桜と名付けた。
翌年には、柊が、3年後には葵が生まれた。
子供たちは、月を見上げる母親の姿を見て育ったせいか、月や星空を見上げることがとても好きだった。
休日にはプラネタリウムや、ベランダでの天体観測、時にはキャンプに行き、満点の夜空を見上げた。
無邪気な瞳で空を見上げる子供たちの横で、俺はいつも彼女の様子を窺っていた。心の奥底にしまい込まれているはずの深い哀しみを、彼女はもう表には出さない。けれど消えているはずもない。彼女の表情に翳りがないか、俺はずっと気にしていた。
彼女は俺の視線に気付くといつも笑顔を浮かべる。
「幸せだね」
「俺もだよ」
それは何度も交わしている俺たちの会話。
その度に俺は母の台詞を思い出す。
『月人も幸せなら、お母さんはもっと嬉しい。いつかお母さんが居なくなっても、あなたが幸せでいてくれたら、お母さんも幸せなんだって、忘れないでね』
けれど――お母さん。
俺は、あなたにも幸せになってもらいたかった。
叶わぬ願いは、祈りに代わる。
月に星に。俺に彼女に。
どうかあの人に言葉を届けてほしいと。
『俺は、幸せです』と――。
俺の手を彼女が握る。
「月人……あのね」
今日は少し違った。
彼女は、今まで言わなかった台詞を続けた。
「私分かったよ」
「うん?」
彼女は笑顔で言う。
「色んなことがあったのに、でも、ちゃんと、綺麗だって感じられる」
「……うん」
「それってすごく幸せ」
まるでね、と彼女は続ける。
「心が綺麗でいられるような気がして……でも心の中はそんなものばかりじゃないって、もちろん分かってるんだけど、それでも嬉しくて、泣きそうになっちゃって……だから思わず言っちゃうんだね」
「何を?」
「あのね、月人」
彼女は少しだけ頬を朱に染める。
――月が、綺麗ですね。
月は何も語らずに、俺たちを見下ろしていた。
END
感想や評価を教えて頂けると嬉しいです。
聖女sideの裏側の物語です。
(単独で読めるように書きましたが、ご興味がありましたら聖女side短編もお読みください)
月人sideの方が長くなってしまいました。