小心者の小さな正義
「強志。ごめん。お弁当作れなかった」
「大丈夫だよ。適当に食べるから」
容子ちゃんは申し訳なさそうに、玄関先で僕を見送る。来月出産予定の容子ちゃんのお腹は大きい。そんな彼女に無理をさせるわけにはいかない。
だから、弁当なんていいんだ。
大体半年前まではお弁当なんて、持っていったことがなかった。昼食はコンビニで買うか、会社の近くの安い定食屋に駆け込むか、だったからだ。
僕の名は矢木強志。二十五歳。新婚だ。
強志という強そうな名前のせいでよくいじられたこともあって、僕は自分の名前が好きじゃない。
僕は名前とは正反対な貧弱系。色白で、もっさりした黒髪に眼鏡をかけている。常に非モテ系に属していたのだが、なんと美人妻をもらった。いや、もらったって言い方はよくないな。うん。
僕の美しい奥さんは幼馴染の容子ちゃん。
結婚のきっかけは、いわゆるできたってやつだ。
勘違いしないでほしい。僕が強引に襲ったとか、そういうことは決してない。
容子ちゃんは僕にとって高嶺の花だったし、手が届くなんて思ってもいなかった。小さい時からずっと憧れてきて、でも、僕なんて釣り合うわけがないとずっと恋心を隠してきた。
けど、ふとしたきっかけで、両想いであることがわかり、その場の勢いで……。
えっとここは省略する。
想像にお任せして、結論だけを言う。
そう、僕は父親になった。
容子ちゃんからできたと聞かされた時、それは確かに驚いた。でも彼女の不安げな表情を見て決めた。
結婚しよう、と。
僕の中では人生最大の決断で、平凡な僕の人生にとっては一番驚きの決断だったと思う。
でも後悔していない。
だって、狭いけど、僕のアパートに蓉子ちゃんが一緒に住んでいて、毎日ご飯をつくってくれる。
こんな幸せがあるだろうか。
そう、僕は人生の絶頂期だった。
なのに、今年四月に入ってきたあいつは、僕のこの幸せな生活に嵐を起こそうとしていた。
上司の不正?
そんなものどうでもいいじゃないか。
目をつぶって見過ごせばいい。
「先輩。これって、やっぱりおかしくないですか?」
今年四月入社の持田は今日も上司がいなくなった隙をついて、僕に聞いてきた。
「やっぱり上層部に報告したほうが」
彼は手に持っている見積書をひらひらさせながら、僕に訴える。
僕のいる部署は購買部だ。
印刷機を作る会社の僕たちは、国内と海外から安い部品を買って自社の小さな工場で組み立て、社名を入れているだけだ。
一応メイドインジャパンであるが、中身は異なることが多い。
コストを下げるため、僕たちはできるだけ安いところから、部品を買うことが必要になる。
そう、できるだけ安いところから。
通常は少なくても三社から見積書を貰い、それを上層部に提出し、決裁してもらう。
だが、僕らの上司の場合、それが違った。
一応三社から貰うのだが、値段がおかしいのだ。
「あの。俺、聞いちゃったんですよね。丹後副部長が業者と話すところ」
直属の上司である丹後副部長は、大きな買い物をする時、いつも僕らに任せようとしない。いや、任せているが必ず指示がある。
どことどこの業者から見積りを取るようにと。
「俺。こういうの、許せないです。上層部に訴えようと思ってます」
彼の言葉に僕は賛同も反対もしなかった。
すればいい。
僕には関係ないと思っていたからだ。
だからこういう事態になって、僕は非常に困っていた。
「矢木くん。持田くんから君も知っていると報告を受けているのだが……。どうなのかな」
突然人事部に呼び出され、小会議室へ通された。
それはまさに尋問のようで、部屋の真ん中に椅子がひとつ。その前に長机が置かれ、人事部長と購買部長がその後ろに座っていた。
「どういうことでしょうか?」
今回の呼び出しの趣旨も言わないまま、突然そう問われ、僕は頭をフル回転させてそう答えた。
巻き込まれたくない。
そのためには不用意な発言はできない。
僕はそのこと一心に考え、彼らの言葉に耳を傾ける。
「君の上司。丹後購買副部長のことだよ。持田くんの報告によれば見返りをもらっているということなんだが」
見返り。
知っている。
だがどう答えるべきか。
僕は顔を上げて、彼らの顔色を窺う。
正直に言うべきか、言わざるべきか。
はっきり言って、見返り――賄賂なんてどこの会社にもあることだと思う。それが大きいか、小さいか。規模は様々だと思うけど。
丹後副部長は、上層部と仲がいい。
それは、もしかして上層部も知っていて、目をつぶっている可能性が高い。
だから、僕は注意深く、彼らの表情を探る。
先ほどから発言している人事部長の顔つきは穏やか。だが、べっ甲製メガネの奥の瞳は冷ややかだ。心なしかいつも撫で付けている黒髪が少し乱れている気もする。
僕はこの人事部長が苦手だ。重箱の角をつつくように小さいことを聞いてくる。しかもいつも同じ表情。何を考えているかわからない。今回のことで彼は事実を知っていて隠蔽したいのか、どうなのか、僕は見極めようと彼を凝視する。
彼からしたら、二十五歳の僕はまだ若造。そんな僕に彼の真意がわかるわけがなく、今度は隣の購買部長を見る。
部長はあまり発言をしない。僕らに指示を出すのはすべて丹後副部長で、彼はいつも承認するだけの役割のような気がする。
だからこそ、丹後副部長のすることを知っていて、黙認している可能性が高い。しかも彼もその一部を懐に入れている可能性もあるのだ。
そう思って、部長を注意深く見つめる。白髪交じりで、ふさふさした髪。少し日に焼けた健康そうな顔。六十歳を超えていると聞いているが、顔にも皺が少ない。まだ五十代と言ってもおかしくないくらいだ。彼は僕の視線を真正面から受け止め、ニタリと笑顔を返した。
怪しい。
もし僕が知っていると答えれば、丹後副部長の立場は厳しくなる。
そして部長も。監督不行で、減俸くらいは食らうかもしれない。下手したら降格も。でもこの笑顔はなんだ。
僕が知ってると言わないと思っているのか。
確かに僕は、はっきりいって面倒なことは嫌いだ。荒波も。丹後副部長は不正をしているが、部下には優しい。ネゴして安くしまくらないといけないのに、そこまで僕たちにプレッシャーをかけてこない。
かなりいい職場だと僕は思っている。ほかの会社はもっと厳しくて、上司からの圧力がかなりきついらしい。
それなのに、持田の奴。変な正義感を持ち出してきて。
そうだ。持田が悪い。別に丹後副部長がお金をもらっていようが、構わないじゃないか。なにが悪い。
僕は薄っぺらい笑顔を部長に返した。
「僕は、私は知りません。聞いたことがありません」
「そうか。わかった。聞きたかったことはそれだけだ」
購買部長は何も発言することなかったけれど、人事部長がそう言い、僕は息苦しい小会議室から解放された。
「先輩」
部署に戻ると、出先から戻ってきた持田に声をかけられた。僕が呼び出されたことを知っているのだろう。少し心配そうな顔をしていた。
僕は顔を背けた。
なぜか、直視できなかったからだ。
奴が悪い。
そう。変な告げ口をする奴が。
そう思っているのに、僕は彼と顔を合わせることができなかった。
それからすぐに持田が呼び出された。帰ってきた奴は僕をひと睨みしたが、それだけで話をすることも、僕を見ることもなかった。
そうして二日後、奴は解雇された。
僕には後ろめたいその気持ちしかなかった。
***
「優ちゃん。お買い物行こうね!」
蓉子ちゃんは蕩けそうな笑顔を僕の息子に向ける。いや、僕たちのね。
六月に無事に生まれた優介はまだ4ヶ月弱。
首は据わってきたけど、まだまだ寝返りができない赤ちゃんだ。
蓉子ちゃんは本当に優介が大好きで、つきっきりで世話をしている。お母さんだから当然なんだけど、僕はちょっと寂しい。
いや、お父さんなんだから、そんな子供みたいなことを言ってられないんだけど。
「強志。今日何食べたい?秋刀魚にしようか」
浮かない顔をしていた僕に気がついたのか、彼女は優介を抱っこ紐の中に抱き入れながら、僕にも笑顔を向けた。
ああ、なんて。可愛いんだ。
僕はそれだけで嬉しくなってしまった。
そうして幸せをかみ締めながら、彼女と息子と一緒に買い物に出かける。
今日はドライブも兼ねて、家より少し遠い大型スーパーに出かけることにしていた。
空は青く高く晴れていて、窓から入る風も冷たくて、僕は心地よい気分でハンドルを握る。後部座席に座る蓉子ちゃんはチャイルドシートに乗せた優介に絶えず話しかける。息子はその度に、言葉は話せないが、うーとか、あーとか答えていた。
優介は蓉子ちゃんに似ていた。赤ちゃんは顔が変わりやすいらしいから、まだなんともいえないけど、僕は息子が僕に似てなくほっとしていた。
僕の眉毛はたれさがり、目も小さくて、顔全体が情けない顔をしている。だから、強志っていう強そうな名前が小さい時から大嫌いだった。優介は普通の名前で強い子に育っても、僕みたいに弱く育っても、いじられる恐れがない。
蓉子ちゃんは僕みたいな優しい子に育ってほしいとか、なんとか言ってくれて、息子の名前は優介に決まった。
僕の人生は幸せに満ちている。蓉子ちゃんと結婚して、本当にそう感じるようになった。
そう、僕は幸せの絶頂期で、五ヶ月前にあった小さな出来事のことなどすっかり忘れていた。いや、思い出さないようにしていた。
「秋刀魚あった!うわあ。安い!」
蓉子ちゃんは鮮魚売り場で、秋刀魚パックを持ち上げ、小躍りしそうだった。優介が抱っこ紐でぶら下がってなければ、きっとジャンプしたに違いない。
彼女は両手にパックを持って、僕を見上げる。蓉子ちゃんは身長が百五十センチの小柄。だから百六十五センチしかない僕でも、身長が高いという嬉しい錯覚をもたらせてくれる。
「多く買って冷凍しようかなあ。どう思う?」
「いいんじゃない。冷凍だと結構持つよね」
「うん。じゃあ、四つ、うーん。六つ買おうかな」
「それは買いすぎ」
「そうだね。だったら、四つにしとく。今日二つ食べて、次二つ食べる」
蓉子ちゃんは歌うようにそう言って、秋刀魚のパックをショッピングカートに入れる。そして、軽い足取りで次の売り場に向かった。僕はカートを押しながらその後ろをゆっくりと追う。
「先輩、矢木先輩じゃないですか!」
不意に声をかけられ、僕は何も考えずに振り返った。そうして、僕を呼んだ人物の顔を見て、固まってしまった。
それは五ヶ月前に解雇された僕の後輩の持田。ここのスーパーのTシャツを着ていて、腰には黒いエプロンを巻いている。
顔を強張らせる僕が面白いのか、彼はにたりと笑った。
「今日はお休みだから奥さんとショッピングですか?奥さん、可愛いですよね。俺より年下に見える」
持田は蓉子ちゃんを遠目に眺めながら、微笑を浮かべたままだ。
「君は、ここで働いているの?」
何を話していいかわからず、僕はただそんなことを尋ねた。
「ええ。今不景気でしょ?首になっちゃって。でもほら、お金稼がないと大変だから」
たった数ヶ月の間に彼は様子がすっかり変わっていた。いや、顔と姿は同じ。もちろんだけど。
明るい感じはまだ残っていたが、なんか妙な明るさだ。
言葉にも棘がある。
ああ、それは僕のせいでもあるけれど。
「ああ、でもこの仕事楽しいですよ。体を動かすのも俺の性にあってたみたいですし」
「持田!」
「はい!」
野太い声で呼ばれ、持田は返事をすると僕に背を向けた。
「じゃあ。また来て下さいね。今度はゆっくり話がしたいです」
彼は振り返ることもなく去り際にそう言って鮮魚売り場の方へ戻っていった。
僕は、なんとも言えない気分になりながら、彼が鮮魚売り場のカウンターの中に消えるまで、その背中を見送る。
彼は、今の職場に満足していない。
それはそうだ。
スーパーの鮮魚売り場だ。
確か彼はいいところの大学出で、僕の会社に入社したことに驚いたくらいだった。
それが、今や。
「強志!」
肩をふいに叩かれ、僕は飛び跳ねるくらいに驚いた。それが蓉子ちゃんだと気がついて、胸を撫で下ろす。
「どうしたの?」
「なんでもない。他に何かいいものあった?」
「うん」
朝起きてから、ここに来るまで僕の気分はとても弾んでいた。眩しい光の中で、幸せいっぱいで。
でも今は、真っ暗だ。何かに足が引っ張られている気もする。
「強志?」
また歩き始めた蓉子ちゃんは足を止めて、振り返る。心配そうに。
「ごめん。ごめん。さあ、買い物続行だ!」
彼女には言えない。
真っ直ぐで正義感が強い彼女。
僕が不正を黙っているなんて知ったら。
いや、五ヶ月前に僕が正直に言わなかったため、持田がクビになったと知ったら、彼女は僕を軽蔑する。
だから、だめだ。彼女には言えない。
カートを押して小走りになった僕に、蓉子ちゃんは苦笑する。
「子供じゃないんだから。怒られるわよ」
「たまにはやってみたくなるんだ」
「もうお父さんなのに」
「お父さん」
その言葉はずっしりと僕の心に沈む。
浮かぶのは僕の父の姿だ。
父は僕と違って、堂々としていて、わが道を行くタイプだった。
大工の職人で、本当は僕にもそうなってほしかったみたいだけど、僕は大工の仕事が好きじゃなかったから。
僕の目からして、お父さんは馬鹿だなと思うような生き方をしていた。
正直で馬鹿な生き方。
だから、後輩に足元を掬われたり。
僕はそんな生き方はごめんだった。
「強志?何かあったの?」
優介はよく眠ってくれる。特に夜はおとなしくて、こうして二人で話しをする時間が持てるくらいだった。
家に戻ってきて、蓉子ちゃんは秋刀魚を焼いてくれた。その間僕は、持田のことを考えないように、優介の子守に集中した。
彼女は何も聞いてこなかったので、気がついてなかったと思ったけど、勘が鋭い彼女には見破られていたようだった。
「別になんでもないよ」
言えるわけがない。でも良い言い訳も思い浮かずに僕はそれだけ答える。
「嘘。強志って嘘が下手だよね」
「え、下手?」
「そう。だってすぐ顔に出る」
「そうだっけ」
蓉子ちゃんに指摘されて、僕はあの時のことを思い出した。
知らないと答えた時、僕はどんな表情をしていたのだろう。
動揺していた?
嘘だと本当は気づかれていた?
だけど、二人は僕の嘘にのった?
持田が解雇されてから、景気もよくないこともあり、社員が補充されることはなかった。僕の仕事の負担は増えた。少し残業もするようになった。そんな時、丹後副部長は良くねぎらってくれる。夕食をおごってくれることもあった。
それは普通に部下を労わる上司の好意だと思っていたけれど、結局、僕が嘘をついたことは彼らにばれていた?それで同じ船に乗ったもの同士、仲良くしようって思われていた?
僕は、不正については黙っているつもりだったけど、同じ船に乗ったつもりはない。だけど、結局、僕がいくらそう思っても無駄なんだろう。
僕は嘘をついたのだから。
持田は、僕を軽蔑しているに違いない。
だけど、僕は、生活を壊したくなかった。もしあの時本当のことを言って、うまくいったのだろか。
いや、結局僕もクビだ。蓉子ちゃんはあの時出産が近かったし、そんな時、クビなんてありえなかった。だから、僕の選択は間違っていない。
あいつが悪いんだ。
あいつも黙っていれば、今頃まだ普通に会社で働いただろう。
鮮魚売り場で、立ちっぱなしで働くこともなかっただろう。
僕は悪くない。
僕は。
「強志?」
長いこと僕は一人で考え込んでいて、気がついたら蓉子ちゃんの顔がすぐ傍にあって驚く。
「何、悩んでるの?」
「なんでも」
「嘘。嘘ばっかり。ねぇ。話してよ。私たち夫婦でしょ?」
彼女は僕の両手を包み込み、仰ぎ見る。
「なんでも、なんでもないから」
僕は逃げるように立ち上がり、台所へ向かう。そして冷蔵庫からペットボトルのお茶を出して、コップに注いだ。
「強志!」
蓉子ちゃんが僕の名前をきつく呼んだけど、それだけだった。優介が泣き始めて、彼女は僕を睨んだ後、寝室へ駆けて行った。
***
結局、僕は蓉子ちゃんと話さないまま出勤した。
気分が乗らない僕に丹後副部長が満面の笑顔で話しかけてくる。
「矢木。今日の昼、一緒にどうだ?」
昼食の誘い。
僕はあまり深く考えずに誘いにのり、後悔することになる。
日中なのに、僕たちは酒を振舞われる。高級料亭で食事と聞いたとき、断るべきだった。丹後副部長だけではなく、取引先の社長さんもいて、僕はなんだからいたたまれなくなった。封筒を受け取った副部長は卑しい笑みを浮かべていた。
「お前、生活大変だろ?もっと大きい家に移りたいと思わないか?」
「いえ、そんなことは」
取引先が用意した車に乗り込み、僕たちは帰路につく。丹後副部長は懐を何度もなでながら、僕に笑みを向けている。
「俺も一人で結構大変なんだ。お前が手伝ってくれると嬉しい。どうだ?」
手伝う。
その意味が通常の仕事ではないことは、僕にもわかる。
いわゆる不正の手伝いだ。
僕の正義感は強くない。
けれども、自ら汚れるのはごめんだった。
頭を必死に使い、僕は良い言い訳を考える。
「えっと。その件は後で、もう少し考えさせてください」
結局情けない僕は、言い訳も考えきれず返事を先延ばしすることしかできなかった。
いやな気分のまま、一日は過ぎ、僕は自宅に戻る。
すると、一難去って、また一難。
静かに怒っている蓉子ちゃんが家で待っていた。
「お帰りなさい」
「た、ただいま」
いつもなら笑顔で出迎えてくれるはずの彼女はどう見ても怒っていた。
「どうかしたの?」
「強志。なんで、なんで言ってくれなかったの?」
「何が?」
心臓が跳ねた気がした。息が苦しい。
彼女はじっと僕を睨んでいた。
「とぼけないでしょ。あの持田って人に聞いたの」
「持田?!なんであいつが!」
奴の笑顔、言葉を思い出し、僕は怒鳴る。怒鳴ることなどなかった僕に彼女は驚いた様子だったが、それだけだった。
「私。気になって、あのスーパーに行ったの。そして鮮魚売り場にいったら、持田さんが出てきて」
「なんで?なんで勝手なことをするの?僕に黙って?」
「だって強志。話してくれなかったじゃないの!」
「だからって!」
僕は怒りで頭がおかしくなりそうだった。
勝手なことをした彼女に。
きっと面白おかしく僕を悪者にして話しただろう、持田に。
「持田さん、かわいそうだった。なんで、強志は彼の味方にならなかったの?」
「かわいそうって。だって、僕まで巻き込まれて、クビになったかもしれないんだぞ!」
「それが何?嘘ついて何になるの?そんなにしてまで会社にいたいの?」
「いたいわけないだろ!そのとき、蓉子ちゃんはお腹が大きくて、クビになんかなったら、どうしたんだよ。僕が無職じゃ、生活できないだろ!」
「何よ!私のせいなの?私のせいで、嘘をついたの?」
僕が売り言葉に買い言葉で怒鳴りつけると彼女は泣き出してしまった。
蓉子ちゃんが泣くなんて初めてで、僕は動揺して情けないことに動けなかった。
「私が、私がいなくなれば、大丈夫なの?」
「蓉子ちゃん!」
予想もつかないことを言われ、僕は彼女の両肩を掴む。
「離して!私、優介を連れて実家に戻ります。それなら、いいでしょ?」
「何言って!そんなこと必要ない!」
「私のせいで、嘘をついて、しかもそれで持田さんがクビになって。そんなの耐えられない!」
「蓉子ちゃん!違う。君のせいじゃないから。僕が悪かった。言い方が」
「私のせい。妊娠したのも私のせいだから。私、強志と結婚したかったの。だから、誘った。危ない日だってわかっていたのに。それが強志の重荷になっていたなんて」
「蓉子ちゃん?」
思わぬことを言われ、僕は口を馬鹿みたいに開けて、彼女を覗き込む。
蓉子ちゃんは顔を真っ赤にさせて俯いた。
「見ないで!」
「だって、」
喧嘩をしていた。
シリアスな。
でも蓉子ちゃんがとてつもなく可愛くて僕は抱きしめてしまった。
「離して!」
「嫌だ」
僕らしくない。
でもなんだか、彼女をこのまま腕の中に閉じ込めたくて、僕は彼女をぎゅっと抱きしめたまま、優介が泣き始めるまで離さなかった。
その夜。
僕らの夕食は即席ラーメン。
野菜をたっぷり入れた僕特製のものだ。
料理を作るのは苦手だけど、即席ラーメンは得意中の得意だ。野菜をいためてラーメンの上に載せる。
即席だけど、それなりにちゃんとした料理だと僕を思っている。
優介を寝かしつけた蓉子ちゃんを寝室から居間に引っ張り出してきて、僕は彼女にラーメンを勧める。まだ少し顔が赤い彼女は、小さい声でありがとうと言うと食べ始めた。
その仕草がまた可愛くてどうしようかと思ってしまった。
そんな場合じゃないのに。
お互いに食べ終わり、僕は彼女のどんぶりを下げて、俯いたままの彼女の前に座った。
ちゃんと話すべきだと思ったからだ。
僕の情けないところもすべて。
「持田の話したことは本当だ。僕は嘘をついた。上司は賄賂をもらっていて、僕はそれを知っていたけど、上層部に呼び出された時、知らないと答えた」
蓉子ちゃんは肩をすこし動かしたけど、言葉を挟むことはなかった。
だから僕は続けた。
「あの時、多分。上層部。人事部長と購買部長は真相を知っていたと思う。だから、話したところで、僕も巻き込まれるだけ。だから、嘘をついた。卑怯な話だ。でも、僕は、クビになりたくなかった。幸せな生活を壊したくなかったんだ」
彼女は俯いたままだ。
何を考えているかわからない。
「蓉子ちゃんが知ったら反対することわかっていた。だから話さなかった。持田がクビになってから悩んだこともあったけど、僕は幸せな自分の生活を続けたかった。だから」
「私のせいだよね。もし、私が妊娠しなかったら、結婚していなかったら、きっと強志は言ったでしょ?」
蓉子ちゃんは顔を上げて、真っ赤に充血した瞳を僕に向ける。
「違うよ。多分、僕は結婚してなくて、一人だったとしても言わなかった。僕は生活を乱したくないんだ。そんな人間なんだ。幸せを維持したい。あの時はそう思った。でも考えて見れば、独身だったとしても、僕は結局嘘をついたと思う」
「……」
僕は彼女から顔を背けた。
卑怯な自分はとても恥ずかしくて、軽蔑されたと思ったから、そんな彼女の表情を見たくなかった。
「ごめん。蓉子ちゃんのせいみたいなこと言って。違うんだ。僕は」
僕は結局卑怯な人間だ。
「強志……」
名を呼ばれ、頭を撫でられる。
僕は静かに彼女の方を見た。
「卑怯じゃないよ。それって普通だと思う。だって、上層部も知ってたんでしょ。だから言えないのはわかる。私もごめん。なんか強志の話も聞かないで怒っちゃって」
「蓉子ちゃん?」
僕の知っている蓉子ちゃんは真っ直ぐで正義感が強くて、僕みたいな奴とは違うと思っていた。
「私のせいじゃなくてよかった。私のせいだったら本当に嫌だ。こんなこと考えて、結局私も自分勝手で卑怯なの」
彼女はまた泣き出した。
「蓉子ちゃん。泣かないで。うん。蓉子ちゃんのせいじゃないから」
僕の中の蓉子ちゃん像が少し変わった。でも彼女への気持ちは変わらない。むしろ距離が近くなったような気がして嬉しかった。
「……でも、僕は卑怯だけど、引かない部分もあるんだ」
蓉子ちゃんの涙をテッシュで拭いながら、僕はあることを決めた。
「今更遅いけど、僕言うよ。こうなったら、言うよ」
「強志?」
「僕、今日不正の手伝いをしないか、丹後副部長に聞かれたんだ。僕は卑怯だ。でも不正はしたくないよ。さすがに。だから言うよ。きっと僕はクビになる。それでもいい?がんばって次の仕事見つけるから」
「もちろんよ。私もがんばって節約する。在宅で可能な仕事も探してみる」
僕の決意に蓉子ちゃんが頷く。
それだけで僕は自分の決意に自信がついた。
僕は父を馬鹿だなと思った。
でも今はなんだか父の気持ちがわかる。
正義感を持つってことは、なんだか気持ちいい。
結果は最悪。そんなことをわかっている。だけど、僕は突き進むことにした。
***
翌日、僕は作戦を考えた。
上層部は知っている。
それであれば、そのトップの社長はどうなのか?
僕は賭けに出て、社長に直訴を試みた。
声を震わしながら、僕はその手に疑惑の見積書を持って社長室へ殴りこんだ。
いや、殴りこむは言い過ぎた。
社長秘書の人にこっそり頼んで、社長室へ入れてもらった。
内部で不正が行われていて、証拠もあるので、秘書の方が一人の時を狙って聞いてみた。優秀な彼女はすぐに会わせてくれた。
僕の勤める会社は、工場勤めも併せても二百人もいない中小企業だ。だから、このようなことができたのだろうと思う。
僕は自分の行動を自画自賛しながら、震える足に鞭を打ち、社長室に入った。入社して三年以上になるけど、社長室に足を踏み入れたのは初めてだった。
「矢木強志くんだったかな。どうぞ」
社長は腰が低く、僕は恐縮しながら、社長の机の前のソファに座る。社長は僕の真向かいの別のソファに座った。
「さて、矢木くん。不正とはどういうことが聞かせてもらえるかな」
社長の年齢は五十歳くらい。
セイセキの三代目社長だ。
物腰は柔らかく、髪は真っ白だったけど、それは老いというよりもファッションの一部のようだった。紳士という表現がしっくりくる、上品な人だった。
清廉潔白という言葉が当てはまるタイプで、この人なら大丈夫と思わせてくれた。
見積書を見せて、僕はこれまでの経緯。クビになった持田のことも話した。
「矢木くん。この書類はこれが原本かね?」
社長の問いかけに僕もはっきりと答える。
「ほかにも何かあるかね?」
「はい」
社長がいくつか質問し、少し疲れを感じたところで面談は終わりを迎えた。
僕は何か特別なミッションをやり遂げた気持ちで、感極まっていた。
それは社長も同じのようで、立ち上がった僕に握手を求めた後、熱のこもった眼差しを僕に向けた。
「勇気ある告発をありがとう。君は本当にいい社員だ。私は君のような社員を持って誇りに思う」
ああ、なんていい会社に僕は勤めたのだろう。
持田にも社長に直訴するように言えばよかった。
その日僕は意気揚々と家に帰り、戦果を蓉子ちゃんに伝えた。二人で手を取り合い、ドラマの主役になったような気分になっていた。
数日後、丹後副部長が工場副部長に降格になった。
異動の日、彼は僕を射殺す勢いで睨んでいたが、僕は正義の味方を気取っていたので怖くはなかった。僕のバックには社長がいる。そんな気分でいた。
僕を取り巻く環境が徐々に変わっていく。
購買部長は替わらず、代わりに昇格した副部長は厳しい人だった。
「業者?そんなもの自分で探せ。この会社に三年以上いるんだろ?それくらいわからないのか? 無能め!」
人事課にパワハラと訴えても、相手にされず、僕は社長のことを思い出し、再度秘書さんに近づいた。
しかし彼女は氷の彫像といっても過言ではないくらい、冷たい瞳で僕を見て、「人事で手続きを踏んでください」と答えた。
頭にきた僕は、どこかにこの不正をリークしようとしたが、問題の見積書はすべて破棄されていた。
――勇気ある告発ありがとう。君は本当にいい社員だ。私は君のような社員を持って誇りに思う。
社長の言葉が脳裏に蘇る。その手の温もりも。
しかし、僕は冷静になって、社長との面談を思い出す。
彼は執拗に証拠の場所を聞いていなかったか?
業者の名前も?
そしてひとつの結論に至った。
隠蔽だ。
社長自ら、隠蔽の道を選んだ。
あんなに正義の人、紳士に見えて、その腹の中は真っ黒だった。
社長自らが隠蔽する会社だ。
そこにどんな正義があるのだろう。信頼は?
証拠がない今、僕は何もできない。
それであれば、どうするのか。
道はひとつだった。
「蓉子ちゃん。ごめん。僕は会社を辞める。これから苦労かけると思うけど」
「大丈夫!強志は悪くないんだから。本当、正義ってなんだろうね。でも、正義は通らなかったけど、私は嬉しいよ。これで持田さんに変な遠慮しなくてもいいし」
「持田?なんでそこに持田が?」
「えっと、なんかいい魚が入ると、メールくれるのよ。律儀な人よね。結構魚も好きらしいし。天職じゃないかなあ」
初めて聞いた話だった。
妻がほかの男と黙ってメールのやり取りをしている。
そのことに怒りを覚えたが、持田が鮮魚売り場の仕事を気に入っている。そう聞いて少し怒りが収まった。
でも、蓉子ちゃんには釘をささなきゃ。あと持田にも。
彼女が言うように、僕はもう持田に罪悪感を持つことはなかった。例え、あの時僕が事実を言ったとしても結果は同じだった。そのうち、僕はこのことを彼に話そうと思っている。
というか頻繁にメールのやり取りをしているようなので、蓉子ちゃんからすでに伝わっている可能性が高い。
問い詰めるとやはりそうで、僕は嫉妬で胸を焦がす。
「メールだけだよ。だって私が好きなのは強志だけだもん。あと、持田さんにはちゃんと彼女がいるんだよ。私の短大の後輩」
「え?」
蓉子ちゃんには驚かされてばかりだ。
でも僕の心はずいぶん軽くなっていた。
辞めるのは悔しい。だけど、あの会社でこれ以上ピエロのように働くのはごめんだった。
翌日僕は辞表を提出した。
迷ったけど、理由ははっきり書いた。
不正を告発したが、それをもみ消されたため。会社の未来に希望を持てなかった。
馬鹿だなと思ったけど、書かずにはいられなかった。
それで何かが起きたわけでもなく、僕の最後の悪足掻きになった。
「持田!」
「矢木先輩!」
鮮魚売り場に行くと、売り子をしている持田がいた。若くて元気のいい奴は奥様に人気らしい。これは、本当に蓉子ちゃんが心配だ。
「矢木先輩。蓉子さんから聞きましたよ。俺、先輩と話したかったのでちょっと待っていてくれますか?」
「うん」
あの時は罪悪感が大きくて奴の顔をちゃんと見れなかった。でも今日の僕は持田の顔をしっかり見ながら頷けた。
五分後、奴はエプロンを外して、現れた。
早い昼食時間をもらったとかで、僕らは近くのファーストフード店に入る。
「矢木先輩。俺におごらせてください。今無職なんでしょ?」
「……蓉子ちゃんから聞いたのか?」
「はい。何食べますか?就職戦線に勝つということで、カツヒレバーガーにしときますね」
持田は僕が返事もしてもないのに、勝手にそう決めて注文に出かける。その後姿に、僕は奴が解雇された時の後姿を重ねる。
今は胸を張っていて、背中がきちんと伸びている。
彼はすっかり立ち直っていた。
僕も、そのうち彼みたいに立ち直れるだろうか。
いや、立ち直ってみせる。
あんな会社のために悩むことはない。
「はい。どうぞ」
五分もしないうちに持田は戻ってきて、トレイを僕の前に置く。そして自分の分だけ、バーガーと飲み物、ポテトをトレイから取った。
「先輩。意外に元気そうですね。よかったです。まあ、先輩は会社に裏切られただけで、僕みたいに尊敬する先輩に裏切られたわけじゃないですからね」
「裏切り、尊敬する?!」
「本当。俺、先輩のこと尊敬してたんですよ。気配りとかしっかりしていて、業者にも変に威張らないし」
ストローをくわえながら、そう語る持田に僕は驚くしかなかった。
そんな素振り見たこともなかったし、そんな風に見られているとも知らなかった。
「あー、あの時は本当につらかった。嫌がらせのメールを送ってやろうと何度か思いましたね」
影を落とした瞳で睨まれ、僕は少し怯む。
「あ、前ですよ。今は違いますから。先輩も頑張りましたからね。でもまっさか、社長までぐるとは。本当最低な会社だったんですね」
「………」
僕は持田の言葉にうつむくしかなかった。
社長は本当のいい人に見えた。
それが全然違ったのだ。
僕は裏切られた。
「まあ、元気出してください。そのうち、あの会社もぼろを出すに決まってますよ。だって、最近そういうの多いじゃないですか。いやな事は忘れて、俺みたいに天職を見つけてください」
「天職って。持田くんは本当に鮮魚売り場が好きなの?」
「はい。最初はいやいやでしたけど。今は大好きです。水族館に行ったら、解体された切り身が浮かぶほどですよ!」
それは、どういう意味なのかな。
ちょっと怖くなかったが、僕は彼が幸せそうなので、深く考えないことにした。
「先輩。先輩も鮮魚にきます?新鮮な魚が格安で手に入りますよ。蓉子さんも大喜び!」
「いや、僕は。多分向いていないから」
「あ、やってみないとわからないですよ。そうだ。俺、店長に話してみますよ。確か人手が足りないっていってたし」
「いらないから」
今にでもスーパーに走っていきそうな持田を必死で止めて、残念そうな奴を説得しながら、僕はカツヒレバーガーにかぶり付いた。
矢木強志。
二十六歳。無職。
妻と子あり。
ローンがないだけましかな。
貯金も少しあるし。
困ったら、鮮魚売り場しかない。
目の前の持田は楽しそうに魚について語る。もっぱら生きているのではなく、死んでいる魚についてだが。
「先輩。やっぱり鮮魚売り場いいですよ!ぜひ働いてください!」
「いや、いいから!」
持田とも仲直りでき、一応最終手段の就職先も確保できた。
人生は山あり谷ありだ。
平凡を目指す僕は、少し道を外れてしまった。でも、自分自身が恥ずかしくなるような人生を歩むよりはましかなと思った。
(完)