9.カモミール2
「ここで降ろして」
「真っ暗ですよ」
「平気。ここからは歩くよ。いつもそうしているんだ」
閑静な高級住宅街は深い眠りの中にある。
支払いを済ませてタクシーを降りると、本当に辺りは真っ暗だった。
なだらかな坂をのぼっていくうちに、自然と歌が口をついて出た。
真琴は昔から怖がりで、暗闇は大の苦手だ。
幼い頃、二人して夜道を歩く時は、しっかりと手をつないで、歌を歌ったりしたものだ。
Twinkle, twinkle, little star,
(きらきら輝く小さな星よ)
How I wonder what you are!
(あなたはなあに?)
Up above the world so high,
(この世界のはるかな高み)
Like a diamond in the sky.
(空に浮かんだダイヤモンドのように)
Twinkle, twinkle, little star,
(きらきら輝く小さな星よ)
How I wonder what you are!
(あなたはなあに?)
幼い頃は良かった。
互いが互いを好きでいることを非難されることなどなかったし、けんかをしても、ピアノのある場所ならピアノの連弾で、ピアノがなければ一緒に歌を歌ったりして、いつでも簡単に仲直りできた。
「きらきら星」が最後のフレーズにさしかかった所で、二つの屋敷が見えてきた。
一方は時代劇にでも出てきそうな日本家屋。
そしてもう一方の白亜の洋館は、こんな時間にも関わらず、門灯には煌々と明かりが灯っていた。
正面から入る気はもとよりなかったから、フェンスを軽々と飛び越えた遥は、庭から直接出入りできる「離れ」の扉に手をかけた。
斜光カーテンの隙間から淡い明かりが漏れている。
鍵を開けるまでもなく、鍵はかかっていなかった。
「朝帰りですね」
いきなり声をかけられて、遥はぎくりと動きを止めた。
予想はしていたが、絞った明かりの中で待ち構えていたのは、橘直己だった。
「まあ、もう遅いことですし、お説教はやめておきましょう。ただ、携帯電話にはちゃんと出て下さいね。真琴さんが心配しますから」
言われてはじめて携帯の着信に気がついた。
双子の姉が、深夜になっても帰宅しない弟を心配するのは、当たり前かも知れないが、遥の胸のどこかにぽっと小さな明かりがともる。
「マコは?」
「お自身のお部屋に……もう、おやすみだと思いますが」
「そうか、そうだよね。ありがとう」
遥はほっと息を吐き出し、部屋のソファーに腰掛けた。
「バイト先のスタジオでモデルの女の子に誘われたんだ。三万円って言ったら、驚いてた」
扉の鍵をかけていた青年が、背中越しに振り向く気配がした。
「驚いていたけど、だったらやめるとは言わなかったよ。軽いよね。僕も彼女も。ああいう子を好きになれたらいいのにね」
「良くはないでしょう。そんなお手軽な生き方など、おもしろくもなんともない」
遥は頬杖をついたまま、直己の方を流し見た。
家事をそつなくこなす青年は、穏やかな気を身にまとい、細かな気配りも忘れない。
いまどき珍しい、絵に描いたような好青年。
でも、それだけではないことに、遥はとうに気付いている。
「さあ、もう、おやすみ下さい。成績のことはともかくとして、学校にだけはちゃんと行って頂かなくては」
「成績のことは、ともかくって、どういうこと?」
「わざと成績を下げている人に、何を言っても無駄ということです。今さらやめろとは申しませんが、絶対にばれないようにして下さいね。真琴さんの落ち込んだ顔を見るのは、私だっていやですから」
姉が幼馴染の少年と首位争いをしているのに対し、遥の成績は赤点すれすれの低空飛行を続けている。
その理由は誰一人知らないはずなのに……。
「どうして知っているの!?」
遥ははじかれたようにソファーから立ち上がり、青年に詰め寄った。
「ただの勘ですよ。長く生きていますから」
「二十四歳で長生きとは言わない」
「まあそうですけど、ほらっ、この方に比べれば……」
青年が指差したのは、グランドピアノの上に置かれた写真たてだった。
くせのない漆黒の髪。
涼やかな切れ長の目。
賞状とトロフィーを手にしたタキシード姿の青年が、ピアノの前で照れくさそうに微笑んでいる。
青年の名は木島武彦。
将来を嘱望されていながら、二十一歳の若さで世を去った、遥と真琴の父親だ。
今、初めてその存在に気づいたように、遥は写真を凝視した。