8.カモミール1
つつましやかなノックの音。
ハーブティの香りとともに部屋に足を踏み入れた青年は、机につっぷしたまま、うたたねをしている少女を見て微笑んだ。
「真琴さん」
「…………」
「真琴さん」
「…………」
「マコちゃん」
ぱっと頭を上げた少女は、きょろきょろと視線を動かした。
長身を折り曲げるようにして、必死で笑いをかみ殺している青年の存在に気付くこともなく、机の下を覗き込み、引き出しを下から順番に開けてゆく。
こらえきれなくなった青年が噴き出すと、少女はようやく振り返り、切れ長の目を見開いた。
「な、な、直己さん!」
「机の下をご覧になっていたようですが、小人でも飼ってらっしゃるのですか?」
羞恥で赤くなっていた少女の顔がますます赤くなる。
カップを載せたお盆を片手で持ち、もう一方の手でドアを押さえた長身痩躯の青年、橘直己は、この家の住み込みの使用人だ。
今から三年前、家政婦協会の推薦状を携えて来た彼は、のほほんとした雰囲気とは裏腹に、天涯孤独な身の上だった。
真琴と直己の年の差は7歳。
初めて会った時、真琴は十四歳だったから、直己は二十一歳だ。
思春期の少女がいる家に、若い独身の男を住み込みで雇うというのは、いかがなものか。
普通はあり得ないと思うのだが、その日、珍しく家にいた母親が、ひと目で彼を気に入ってしまい、その場で採用を決めてしまった。
「彼って、何だか癒されると思わない?」
その時は、母親の言葉に同意したわけではなかったが、真琴がそれでも母の言葉を受け入れたのは、遥と二人きりで過ごす夜が怖かったからだ。
仕事で飛びまわっている母親は、滅多に家に戻らない。
その一方で、自分を見つめる弟の瞳は、焦がれるような熱を帯びてゆく。
一触即発のような、家の中の空気を何とかしてくれるなら、若い男だろうと、年寄りだろうと、真琴は一向に構わなかった。
真琴の予想を裏切って、遥は何も言わなかった。
それどころか、直己がこの家に住み込むようになってから、真琴から目に見えて距離を置き始めた。
「遥君のことが心配なんですね?」
静かな声で訊ねられ、真琴は無言で目を伏せた。
その手には、ケータイ電話が握られている。
「大丈夫ですよ」
手渡されたカップから、ふわりと立ちのぼるカモミールの香り。
顔をあげると、青年と目が合った。
青年の瞳は、いつだって、春の海のように凪いでいる。
「これを飲んで、ぐっすりお休み下さい。明日の朝には、遥さんもちゃんと帰ってきていますから」
「どうしてわかるの?」
真琴が問い詰めると、青年は困ったように微笑んだ。
けれども真琴にはわかっていた。
直己が帰ってくるというと、遥は本当に帰ってくる。
理由はわからないが、直己の言葉は恐ろしくよく当たるのだ。
ひょろりとした長身。
半袖のポロシャツにジーンズ。
無造作な髪。
ユニフォーム代わりのデニムのエプロン。
遥や聖に比べれば、無個性であることが個性のような青年だが、ぱっと見、印象の薄いその顔は、よく見れば上品に整っている。
「これを飲み終わるまで、そばにいてくれる?」
「ええ、もちろん」
頷きながらも、青年はさりげなく一歩後ずさる。
常に保たれる一定の距離。
真琴自身が動かない限り、この距離が縮まることはない。
じっと相手の顔を見ていると、青年は困ったように目を逸らした。
この時間がもっと長く続くといい。
でも、どうしてそう思うのだろう?
わざとゆっくりとお茶を飲みながら、真琴は考えることを放棄した。