7.星は見えない2
夢の中で、遥は空を見上げていた。
奈落を逆さにしたような黒い空。
どんなに目を凝らしても月も星も見えない。
足元に広がる水面もまた、夜闇を映して真っ黒だった。
「マコト」
弱々しい声が闇を震わせる。
「マコト!」
浅いはずの沼に身体がゆっくりと沈み込む。
膝から、腰へ、そして胸へ……。
そう、ここは、罪人を埋葬するための底なし沼なのだ。
これは夢だと言い聞かせても、泥に押さえつけられた胸が、だんだんと苦しくなってくる。
「マコ、助けて!」
叫んだ口から泥と水とが流れ込み、伸ばした腕が、空しく何度も空を切る。
「ハル君?」
細い指先が、遥の髪を優しくかきあげた。
夢うつつのまま開いた唇は、柔らかなキスでふさがれた。
するりと滑り込んできた柔らかい舌の感触。
なじみのない体温。
(エリカって言ったっけ?)
相手の名前を辛うじて思い出せたことに、ほっとした。
お客の名前を忘れてしまうのは、さすがにルール違反だろう。
「私、こんなの初めて」
「満足できなかったんなら、払い戻しするけど」
「ううん、そうじゃなくて……」
「ねえ、もう、帰っていい?」
言いながら、遥は上半身を持ち上げた。
薄い筋肉のはりついた裸身は雪のように白い。
しなやかな背中には純白の羽根が似合いそうだ。
眩しそうに少年を見つめていたエリカは、思い出したように薄い上掛けを引き寄せた。
部屋にただよう濃密な香りは、ここで行われた行為を何よりも雄弁に物語っている。
一条遥と付き合いたければ、彼の時間をお金で買えばいい。
そんな噂を耳にしたことはあったけど、ただの噂だと思っていた。
刹那的で、気まぐれで、時として辛らつな美貌の少年。
遥の日本人離れした容姿は、母親で女優でもある藤原麗華の曾祖母が、フランス人であることに由来している。
モデルとしてだけでなく、ピアノや絵画など、あらゆる方面で天才の名を欲しいままにしている少年が、お小遣い程度のわずかなお金で動くだなんて、一体、誰が信じるだろう。
「撮影の時、髪をほめてくれたよね?」
制服のボタンとめていた少年が、不思議そうにこちらを流し見た。
「ひょっとしたら、好かれているのかなって思ったの」
「嫌いじゃないよ」
「でも、好きでもないんでしょ? デートに誘って、お金を要求されたのって、生まれて初めて」
「そう? ごめんね?」
少年がちらりと微笑んだ。
くやしいけど、見惚れるほどに美しい。
裸身にまとった上掛けを落とした少女は、少年の首に自分の腕を巻きつけた。
「追加料金を払ったら、延長もあり?」
少年はかすかに苦笑したが、答える代わりに、長い黒髪と一緒に目の前の裸身を抱き寄せた。
時刻は午前一時四十分。
タクシーの後部座席に身を沈め、カバンから写真を取り出すと、運転手が車内灯を付けてくれた。
制服姿の真琴が写真の中で微笑んでいる。
誰に向かって微笑んでいるのだろう?
そっと唇を寄せると、バックミラーごしにこちらを見ていたらしい運転手が声をかけてきた。
「恋人ですか?」
「片思い」
「意外だな、お客さんみたいな美形に告白されて、断る人なんているんですね」
「キスしようとしたら、思い切り突き飛ばされた。できるものなら、別の人間になりたいよ」
「ほう、それはまた……」
車内が再び暗くなり、遥は再び闇の中に投げ出された。
車窓から見上げた空にも、やっぱり星は見えなかった。