5.トライアングル2
「屋上にいるって、どうしてわかった?」
「窓から見えたの」
「窓?」
「会が終わった後で生徒会室のカーテンを開けたのよ。ヒー君、屋上なんかにいるんだもん、あわてちゃった。ねえ、知っていた? あそこの手すりは古くなっていて危ないんですって」
真琴の話に適当に相槌を打ちながら、聖は心の中で胸を撫で下ろした。
聖がいたということは、遥はいなかったということだ。
危ういバランスで手すりの上に立っている弟の姿なんて、真琴には絶対に見せられない。
遥の真琴への執着は、シスコンの域をはるかに超えている。
それなのに、聖が真琴のそばにいることだけは黙認している。
聖はその理由を知っていて、敢えてその策略に乗ってやっている。
一条真琴と美山聖は幼馴染で恋人同士。
生徒会の会長と副会長で、成績はいつも首位争い。
いやでも人目を引く二人が、しょっちゅう一緒にいるわけだから、その間に割り込んでくる勇者は滅多にいない。
だが、事実は全く違っている。
自分で自分にダメだしをしている天然美少女は、聖の気持ちに気付かない。
初めて出会った時から好きだった女の子。
好きの意味は成長とともに変わってきたけど、好きという事実が揺らいだことは一度もない。
長い長い片思いにピリオドを打ちたいのは確かだけど、下手に告白すれば全てを失ってしまいそうで、聖は行動に踏み切れないでいた。
「経験値が足りない」
「何の経験値?」
心の呟きが無意識に口をついて出たようだ。
恋愛、あるいは女性経験と言おうとして、聖ははっと口をつぐんだ。
言葉には反応したものの、真琴はこちらを見てはいなかった。
本人は自覚していないと思うけど、玄関ホールに足を踏み入れるたびに、真琴の歩みは遅くなる。
その瞳は、壁に飾られた八十号の油絵に、吸い寄せられるように固定されてしまうのだ。
昨年の二科展で総理大臣賞を受賞したその作品は、彼女の弟が描いたものだった。
学校側のたっての願いで、今はこの場所に飾られている。
美術部員でもなければ、選択授業で美術を選んでいるわけでもない遥は、いつ、どこで、こんな絵を描いたのか。
受賞してしばらくは、学校中で話題になっていた。
(不思議な絵だ)
芸術の良し悪しにわからぬ聖には、他に評価のしようがない。
キャンバスの下半分はヘドロをぶちまけたような澱んだ色で塗りつぶされていて、よく見れば、半ば埋もれた廃墟の中を、魑魅魍魎が徘徊する様がよろめくような筆致で描かれている。
しっかりとしたデッサン力を持ちながら、意図的に歪められた危うい線の重なりは、見る者を絶望と狂気に引きずり込もうとするのだが、視線を上方にずらしていくにつれ、描かれた世界は次第に浄化されてゆく。
『エトワール』というタイトルが付けられたこの作品の主役は、キャンバスの最上方から地上に向かって差し伸ばされた白い手だ。
ほのかに金色に輝く繊手こそ、この絵の描き手にとって、闇夜を照らすエトワール、つまり、「星」なのだろう。
その星に対峙するように、廃墟の片隅に小さな人影が佇んでいる。
身にまとったマントのようなものを風になびかせながら、一心に空を仰いでいる。
「これ、誰の手だと思う?」
「さあ?」
そっけない反応に、聖は思わず苦笑した。
こんなにわかりやすいのに、どうしてわからないのだろう?
ひょっとすると、本当は全てわかっていて、わからないふりをしているだけなのかも知れない。
(ハル、報われないね。でも、僕は何も言わないでおくよ)
それは真琴のためだけど、もちろん私心がないわけじゃない。
「マコは僕のだ」と、幼い声で主張していた遥の切り札は、双子という血のつながりだった。
だが今は、その血のつながりが、二人を隔てる最大の障壁になっている。
中学に入学して間もなく、真琴は弟から距離を置き始めた。
遥は姉の気を引こうと必死だったが、ある日を境にその努力を放棄した。
二人の間に何が起こったのか。
付き合いの長い聖には検討がついている。
遥は真琴を愛している。
だから距離を置くことを受け入れた。
危ういバランスをどうにかこうにか保ちながら、双子の姉を遠くから見つめる他はない。