42.夜闇3
一瞬だけ触れた指先。
その指は温かかったのか、それとも、冷たかったのか。
あっけなく、まるで捨てられた人形のように、少女の身体は音もなく落下して、間もなく地面に叩きつけられた。
そのあまりに短い時間が、壊れかけの手すりに辛うじて身体を支えられたままの少女には、気が遠くなるほど長く感じられた。
これは悪夢だ。
自分は夢を見ているんだ。
夢なら覚める。
必ず冷めるはず。
今の今まで、校内は静まりかえっっていたが、人が全くいないわけではなかった。
それはB棟の場合も例外ではなく、落下する「何か」に気がついた者もいた。
アリが甘いものに群がるように、それぞれの建物から複数の影が出て、少女の周囲に集まってきた。
右往左往する人影。
中にはこちらを見上げて何やら叫んでいる者もいる。
それなのに、真下広夢は地面にうつぶせに倒れたまま動かない。
投げ出された左足がありえない方向に折れ曲がり、壊れた人形にしか見えなかった。
(どうすれば良かったのだろう?)
あまりに非現実的で、感情は凍りついたままだった。
歪んだ手すりに辛うじてひっかかったまま、雅美は虚ろに目を開けていた。
屋上で広夢を見つけた時点で、警察に連絡をすれば、良かったのだろうか。
それとも大声で助けを呼べば、誰かが駆けつけてくれたのだろうか。
そもそも広夢は、屋上から飛び降りるつもりがあったのだろうか。
一条遥を誤って刺してしまったのは本当だろう。
でも、刺そうとして刺したわけじゃなく、もっと言えば逃げたのでもなく、遥によって逃がされたのだ。
血がたくさん出たと言っていたけど、重傷とは限らない。
傷を治した後、何事もなかったかのように、戻ってくるかも知れないのだ。
屋上から電話をかけてきたのは、自分自身にナイフを向けて遥の同情を引こうとしたように、雅美に助けを求めただけではなかったか?
もしそうだとすれば・・・。
やがて駆けつけた警察に差し出された手を、雅美はどうしてもつかむことができなかった。
けれども飛び降りる勇気もなく、結局は強引に助けられた。
「私がやったんです」
若い警官は、同じ主張を繰り返す雅美に驚いて、佇立する少女の前に膝をついた。
「真下広夢さんは、君の友達?」
俯いたまま肩を震わせて頷く少女を気遣いながら、警官は、広夢のポケットに遺書が入っていたこと、状況から判断して雅美が広夢を突き落としたとは考えられないこと、屋上の手すりの金属が腐食していたことなどを、一つひとつ丁寧にあげてから、最後にこうしめくくった。
「君は友達を助けようとした。それができなくて、自分を責めているのかも知れないけど、人間はスーパーマンではないんだよ。それどころか、手すりがあともう少しひどく歪んでいれば、君も一緒に落ちていた」
(それでも私がやったんです)
浮かんだ言葉を、今度は口にしなかった。
ハンカチをそっと頬に押し当てられるまで、自分が泣いていることすら気づかなかった。
突然鳴り響く、救急車のサイレン音。
はっとして振り返った雅美の目に、体育館の屋根がぼやけて見えた。