4.トライアングル1
(ストーカーじゃあるまいし、あいつは、いつになったら、姉離れするんだろう)
屋上で姉の姿を見ていた遥は、幼馴染に邪魔されたと思い込んだ。
屋上の手すりの上に立つ危険な行為をやめさせようとしただけなのに、眼鏡を壊された上に悪態をつかれたのではわりに合わない。
(本当に走り損のくたびれ損だ)
天使の容貌を持つ悪魔が去った屋上で、聖はがくりとうな垂れた。
しばらく風に吹かれていたかっただけなのに、放心した後姿は本当に具合が悪そうに見えたらしい。
「ヒー君!」
まずいと思ったが逃げられない。
聖を呼ぶのは、この世の中で一条家の姉弟だけだ。
近づいてくる足音を聞きながら、聖は重いため息をついた。
「ごめん。私、ただの仮病だと……」
「誤らなくてもただの仮病だよ」
背中を向けたまま答えると、真琴の手が伸びてきた。
「本当に? じゃあ、こっち向いてみて?」
ぐいぐい肩を引っ張られて、仕方なく半分だけ顔を向けると、真琴は目を丸くした。
「どうしたのその眼鏡? 誰かとけんかでもした!?」
力なく笑った聖は、眼鏡のブリッジを持ち上げた。
「落としたはずみでレンズにヒビが入っただけ。みっともないとは思うけど、これをかけていないと、変なものを踏んだり、けつまずいたりして大変なんだ」
ほんの数年前までは両眼とも2.0だったのに、今では立派な『眼鏡君』だ。
「どうってことないさ、車で迎えに来てもらうか、それがダメならタクシーで……」
「あら、一緒に帰ればいいじゃない」
至近距離でにっこりと微笑まれて、真琴が何を考えているかがすぐにわかった。
聖は思わず後ずさったが、細く白い指が伸びてきた。
問答無用で取り上げた眼鏡を、聖の制服の胸ポケットにつっこんでおいてから、真琴は高らかに宣言した。
「転んだりしないように、手をつないであげる」
言い終わった時には、手をつかまれていた。
自宅までの道のりを、真琴に手を引かれて歩くのか。
真琴と手をつなぐのが、いやというわけではないが、状況が状況だけに、ひどく複雑な気分だ。
「あっ、美山君と一条さん!」
「姫とナイトが手をつないでる~!!」
すれ違う生徒たちが大騒ぎしているのに、真琴は平然としている。
一条真琴の不思議さは、自分が周囲から注目されているという認識が全くないことだ。
目とか耳とかに特殊なフィルターでもついているのか、告白されても、美人だと賞賛されても、どうやら冗談にしか聞こえないらしい。
(もっとうぬぼれてもいいのに)
聖は少女の横顔を流し見た。
まっすぐな背中。
凛と引き締まった形の良い口元。
くっきりとした切れ長の目は、目尻が少し上がっていて、神秘的で近寄りがたい印象を受けるけど、笑顔は可憐であどけなく、そのギャップが男たちを魅了する。
サラサラの黒い髪。
すらりとした手足と美しい身のこなし。
これほど恵まれた容姿を持ちながら、真琴自身は自分のことを、勉強以外には何の取り柄もない平凡な人間だと思い込んでいる。
真琴にそう思い込ませているのは、他ならぬ双子の弟だ。
遥は確かに美しい。
天賦の才にも恵まれている。
神に愛されているという意味では、たしかに天使かも知れないが……。
あの日、少女に続いてフェンスをくぐると、そこは花々に彩られた別世界だった。
しばらく進むと、フリルのような西洋シャクナゲの向こうに、変わった形の「離れ」が見えた。
廊下で母屋とつながったそれは、ピアノのためだけに造られた防音室だった。
大きな窓と風に揺れるカーテン。
磨き上げられたグランドピアノ。
部屋の隅に置かれた三人がけのソファーの上で、宗教画から抜け出た天使が眠っていた。
色素の薄い柔らかなくせっ毛。
花びらのような小さな唇。
ミルク色の頬に影を落とした長い睫が、窓から注ぎ込む光で金色に見えた。
「ハル、起きて」
少女に軽く揺さぶられ、天使は軽く身をよじった。
少女に向かって伸ばされる両腕。
薄いまぶたの下から現れた琥珀色の瞳が、少女の肩越しにこちらをみとめるまで、聖は自分の存在すら忘れていた。
「ハル、ヒジリ君よ。ほらっ、美山先生の所に来た男の子」
少女の言葉は、少年のまとう気を、みるみる冷たいものにした。
そっぽを向かれるまでもなく、歓迎されていないことは、すぐにわかった。
ソファーから立ち上がった天使は、不機嫌な面持ちでピアノに歩み寄り、片手でピアノを弾き始めた。
「マコもおいで」
「……でも」
「おいでってば!」
今にも泣き出しそうな顔を向けられて、少女は聖を振り返った。
「ヒジリ君、きらきら星、好き?」
「う、うん」
「じゃあ、聴いてくれる?」
聖は仕方なく頷いた。
本当は『きらきら星』が好きかどうかなんて考えたこともなかったけど、気がつくと、二人が紡ぎ出す音の世界に引き込まれていた。
漆黒の髪の少女は無心にピアノに向かっている。
天使のような少年は、そんな少女に愛しげな眼差しを向けている。
その時、受けた奇妙な感覚を、何と表現したら良いのだろう。
二人だけの音楽。
誰も入り込めない二人の世界。
ばら色に上気した少女の頬から目を逸らし、聖はその場から逃げ出した。