39.ナイト2
無防備に立っているように見えるのにスキがない。
圧倒的な存在感を放っている。
剣道で鍛えた感覚が、こいつは危険だと告げだした。
聖は右足を後退させ、相手との間合いを確保した。
さりげなく得物になりそうなものを探していると、目の前の男がくすりと笑った。
「そんなに警戒しなくても何もしませんよ。何かしたところで、剣道界期待のホープが相手では、返り討ちにあうだけだ」
直己は苦笑を浮かべたまま、芝居がかった仕草で軽く両手を持ち上げた。
「ケータイはつながらないし、正直困っていたところです。タクシーを待たせているのでしょう? 何なら私がタクシーまでお運びしますけど?」
その視線の先で真琴が穏やかな寝息をたてている。
相手の申出をきっぱりと断って、聖は少女を抱き上げた。
「あ、そうだ、これも持って行っていただけますか?」
真琴を抱えたまま、差し出された紙袋の中を覗き込むと白い箱が入っていた。
パッケージに記された「グリベック」の文字を見てぎょっとした。
真琴の母親が言っていた。
「グリベック」は慢性骨髄性白血病の特効薬で、橘直己の常備薬だ。
一粒3200円以上する高価な薬だが、1日1粒飲むだけで健常者と変わらぬ生活ができる。
「真琴さんが持ってきたものですが、ひょっとしたら、あなたのおじい様の病院から持ち出してきたものじゃないかと思って……」
真面目な真琴がそんなことをするはずがないと思ったが、すぐに思い直した。
真琴は聖の祖父に実の孫以上にかわいがられていて、美山病院の中はどこでも顔パスだ。
だが、一体、どういうことだ?
「お前は麗華さんの愛人なんだろ!? 真琴がこんなことまでするのはおかしいじゃないか!」
「そうですよね。おかしいですよね。私もそう思います」
ゆっくりと動いた瞳が、眠る少女に向けられた。
その刹那、軽いデジャヴに襲われた。
青年が少女に向ける切ない眼差しは、遥が時折見せるのと同じものだった。
どいつもこいつも、どうして真琴のことが好きなのだろう?
反発よりも動揺を感じて、聖は視線を泳がせた。
「遥さんはどうなさったのですか?」
「あいつはニューヨーク。俺はハルに頼まれて……」
自分でも不思議なほど素直に答えていた。
もしもこの教会に真琴がいたら、本人がどんなに嫌がっても連れ戻すようにと言われて来た。
橘直己のことを、遥は何一つ言わなかったけど、本当はここに直己がいることを知っていたに違いない。
「目を覚ました真琴が、お前のことを聞いたら、何と言えばいい?」
「何とでも。もう二度とお目にかかることはありませんし」
さらりと告げられて、思わず足を止めていた。
重い病にかかった男が、自分の命をつなぐ薬を手放して、もう二度と会うことはないと言っている。
そのまま出て行こうとしたが、思い直して、持っていた紙袋を再び直己に押し付けた。
「料金は払っとく。病人は病院へ行け。ちゃんと医者に見てもらえ」
それだけ言って外へ出た。
タクシーに乗り込んだまま、しばらく教会を見ていたが、重い扉は閉ざされたままだった。